空とパイモンがいたためか、気まずい空気になることも無く、なまえが自分の失言に気づくことも無く、食事に関しては何事もなく終わった。
 別れ際になまえが「また明日」と言ってくれたことがトーマ自身驚く程に嬉しく、それに「ああ、また明日」と返すとなまえもまた嬉しそうにはにかんでくれたことがトーマの心をますます浮かれさせる。
 そのためかなかなか寝付けず遅くに眠り、そして朝早く目覚めるという若干の睡眠不足で今朝はなまえとの待ち合わせ場所にやってきていた。
 と言っても早く起きすぎてやることもなく、掃除でもと思うが休暇日なら休めと同僚に言われ、綾華にももう出てもいいだろうとまで言われた。
 なまえのことだから早く待ち合わせ場所にはいますよ、と。
 綾華にはなまえに会うことは言っていなかったのだが、なまえとの話の中でそういう会話をしたのかもしれない。多少くすぐったさは感じるものの、不快ではないその気遣いにトーマは屋敷を出てきたのだ。
「なまえ」
 待ち合わせ場所へ行くと、すでにそこにはなまえがベンチに腰掛けて待っていた。
 落ち着かないのか、遠目で見ている時からそわそわと指を動かしていたが、トーマが声をかけるなり立ち上がって「はいっ!」と叫ぶ。
 ぴょんと跳ねる様がうさぎみたいだなと思って思わず頬が緩むが、なまえがトーマを見る前にその頬の緩みはなんとか隠して「早いんだね」と言葉を続けた。
「万が一に備えて早めに出てしまって……」
 となまえは言うが待ち合わせの一時間も前である。その時間に出てきたトーマもトーマだが、肩を小さくして恥ずかしそうに言うなまえはそこで気づいたようにトーマを見上げた。
 空色の瞳がまん丸になっていて、どうやら驚いているようだ。
「と、トーマさんどうしてこんな時間に!?まさか私時間を間違えてましたか!?」
「いや、あってるよ。オレも……いや、オレは落ち着かなくて早く出ただけで」
 けれどどうしても緩んでしまう口元を片手で隠して、ふいと視線を逸らす。目の前に立ってもどうにも落ち着かず、ふわふわするような感覚に戸惑うばかりである。
 とりあえず、と思って口実のための小さな嘘の元になったブレスレットを懐から取り出す。
 もうひとつ包みが懐に入っているため、それは取り出さないようにして繊細なレースのハンカチにつつまれたブレスレットをそのまま「これ」と差し出すと、なまえはきょとんとトーマとそのハンカチを交互に見た。
 なまえは見たことの無いハンカチである。当たり前の反応だろうとトーマは苦笑をした。
「この間忘れたお詫びと、万が一ブレスレットが解けでもしたら大変だからさ」
 ハンカチの理由を話すと、なまえは一瞬固まり、けれどすぐに「そんな!」と俯いてしまった。
 今までの様子から嫌だとか気持ち悪いと思われることはないだろうが、それでも一瞬トーマの思考を不安が過ぎっていく。
 けれどトーマの心配をよそに、何度かなまえは口を開けたり閉じたりして、赤くなった頬に何度か触れたりしたあとに「ありがとうございます……」と絞り出すように言った。
 トーマに伺い知れるわけではないがなんとなく分かるような葛藤がなまえの中であったらしく、思わずトーマの頬を緩んでしまった。
 受け取りたいが申し訳ない、といったところだろう。
 大切そうにハンカチを受け取ると、なまえは「今つけてもいいですか?」とトーマに許可をとるとブレスレットを左手首へとつけた。
 いい意味で使いこまれているそれは、はじめからそこにあるべきだったと言うようになまえの手首へとおさまっている。ほっとしたようになまえは目元を緩ませると「ありがとうございます!」とトーマへと頭を下げた。
 わざと忘れたと嘘をついたトーマは若干罪悪感を刺激されるが、それでも「どういたしまして」と笑顔で答える。
「大切にしてるんだな」
「あ、はい。切れると願いごとが叶うってお祈りしてもらってるんですけど、愛着もあるし可愛くて気に入ってしまって」
「たしかに君によく似合ってる。可愛いよ」
 どんな願いごとをしたのか、なんていうのは野暮な話だろう。そう思ってただ自分の感想を伝えると、ぼんっとなまえは頬を赤くした。
 今にも爆発するんじゃないかと思うようなそれに、失言だったかとトーマは口を押さえる。
 どうにも思ったことを、なまえに対してはそのまま出してしまう。
 数日前に自分の気持ちを自覚してからというもの、なまえに対しておさえがきかなくなっている気さえした。
 精神統一ならぬ仕事に精を出し考えを追い払うということはしていたが、全くの無意味だったらしい。
 これでもかというほど真っ直ぐに向かってくるなまえからの気持ちを理解してしまえば、もちろん悪い気はしなかったし結局出会って間もないなまえにトーマも絆されてしまった。
 トーマに心を砕いてくれ、好ましい性格であり心根であることがもちろん前提にはあるのだが。
 自覚してすぐではあるが、今日が終わればもう会う口実がなくなってしまう。そうなる前にどうにか行動を起こすべきだろうとは思ってはいるのだが。
 そんなにすぐに自分の気持ちを伝えてもいいのかとか、明らかな身分の差があるだろうとか、考えることは山ほどあった。が、気づいてしまったものに蓋ができるほどの余裕があるわけではなく、なまえから溢れんばかりに向かってくる気持ちを受ければ余計にそうなってしまう。
 本当にままならないな、と思うが過度になまえを照れさせるとまたとんでもないことを口走る可能性がある。海に身投げをさせないためにも慎重に行くべきである。
「あ、ああ、あの!お昼ご飯!昨日行ったところで準備を、その、してるのでっ!ぜひよければ!一緒に!!」
「え? あ、ああ、じゃあ遠慮なく」
 考えに沈んでいたトーマよりも先に、混乱していたなまえが口を開いた。変わらず顔は赤いままだが、トーマの返事を聞いてほっとしたような表情になる。
 昨日の時点で今日は一緒にと約束をしていたのだが、それでもなまえは不安だったらしい。
 すぐにぱっと笑顔を浮かべると「行きましょう!」とトーマを先導して歩き出した。




 店主が気を利かせてくれたらしく、個室、そして昨日食べたものとは違うメニューの食事が出てきて予想以上にトーマは楽しんでしまった。
 試作品ばかりだと言うがどれも美味しく、夕方からの営業だという店主は食事を運んでくる度にトーマと料理の話をしていってくれた。
 モンドの料理をアレンジしたものもあり、なまえの気遣いなのだろうと思うとやはり好ましく思ってしまう。レシピ自体は母親に尋ねたのだろうが、一から十までトーマへの心遣いを感じられる料理の数々である。短期間で作ってアレンジを加えた蓮見の料理人ももちろん凄腕なのだろう。
 さすがにあまりに話し込んでしまいなまえに悪いかと思って謝ろうとしたのだが「トーマさんと話すのを楽しみにしていたみたいなので!私もトーマさんが楽しそうで見ていて楽しいです!」と心底から楽しげに言われてしまえばそこまでだった。
 闇鍋のようにお遊びももちろん好きだが、美味しいものを作るのも、単純に料理を作る人間から専門的な話を聞くというのもトーマは好きなのだ。
 神里の人間ではないというのも新鮮である。よその人間からそういったことは滅多に聞けることではないだろう。
 それに時々なまえの子供の頃の話を挟まれ、その度に「昔の話ですっ!」となまえが珍しく怒るのも見ていて楽しかった。好き嫌いが多かっただとか、同じものばかり食べていてそれがないと泣いていただとか。トーマからしてみれば可愛いだけの話なのだが、なまえにとっては恥ずかしかったのだろう。
 昔から蓮見にいる料理人らしく、なまえに対する接し方も「お嬢様」と呼んではいるが家族のようで見ていて暖かくなるようなものだったのだ。
「あんなに教えて貰ってよかったのかな」
 時刻は夕方である。そろそろ店主が開店準備に入るため、なまえとトーマも店を出て稲妻城の中をあてもなく歩いていた。
 料理人──名前は井出というらしい──から聞いたレシピやアレンジの仕方の数々を頭の中で思い出しながら、トーマは頬をかいた。
 門外不出のものはさすがにトーマが遠慮したが、それでもかなりの数の情報を井出はトーマに教えてくれている。
「いつか綾華と綾人にも作ってあげてください。きっと喜びます」
 なまえの口から出た二人の名前に、トーマは笑みを崩さずに、けれど胸の奥でもやもやとする気持ちを感じて「そうだね」と一瞬遅れて答えた。
 綾華はともかくとして、綾人のことも呼び捨てなのかとなんとなく面白くなくなってしまった。
 綾華と幼なじみであるのなら、その兄である綾人とももちろん幼なじみだろう。兄妹のように過ごしてきたのかもしれない。
 なまえは、トーマにこそ丁寧な口調を使うが空やパイモン、自分の家の使用人には丁寧には話さない。
 そこに多少壁を感じないわけではないのだが、関係や年齢的にも仕方がないと思っていた。
 が、己の主人にすら面白くないと思ってしまう自分に呆れてしまう。
「トーマさん、今日は付き合っていただいてありがとうございました」
「え?」
 考えに沈んでいたトーマは、なまえのその声ではっと我に返った。
 稲妻の海を一望できる高台にいつの間にかついていたようで、もうすぐしたら沈んでいく夕日が綺麗に見える場所だった。観光の名所だと謳われている場所ではあるが、今は鎖国直後ということもあり観光客は全く居ない。遠くに街ゆく人はいるが、この場においてはほぼふたりきりである。
「いや、オレのほうこそ。ご馳走になったし、楽しく話もできたよ」
「ブレスレットを拾ってくださったお礼ですから!そう言っていただけて嬉しいです」
 少し距離をあけた隣になまえは立ち、海風でゆれる髪をおさえている。穏やかな笑顔はトーマに向いており、青い瞳は真っ直ぐにトーマを見つめていた。ああ、今日が終わるのかと物悲しい気持ちをトーマは抱いた。
 これで繋いだ口実も終わってしまう。身分も違えば住む世界も違う少女である。次に会う約束をとりつけることは難しい。
 たまたま稲妻城内で会うこともあるだろう。神里家で会うこともあるだろう。けれどどれもきっとトーマの望む形ではないことは明らかだ。
「また、あの、機会があったら……」
「……なまえ」
「は、はい!」
 また言葉を遮ってしまったが、やはりなまえは特に嫌がるでもなくぱっと顔を明るくして返事をした。
 渡そうか悩んでいた、懐に入れているもうひとつのそれを、トーマは引っ張り出しておずおずとなまえの前に差し出した。
 なまえに渡したレースのハンカチではないが、和紙に包んで持ってきていたそれはしわもなく綺麗なままだった。
「? これは」
「君のブレスレットを真似て作ってみたんだけど……その」
 嘘をつくために忘れたと言ったお詫び。今日のお礼。どれも違う気がして、一度トーマは言葉を切る。お詫びもお礼も、きっとなまえは次に繋げてくれるだろうとは思うのだ。
 だが、どんな気持ちでこれを作ったのか。刺繍糸をわざわざ買い、たまたま見つけた本屋で作り方の載った本を買ってまで短時間で作り上げた理由は、ただなまえに渡したかっただけだ。
 喜ぶ顔が見たかっただけで、お詫びもお礼もどうもしっくり来なかった。
「──君に、オレがプレゼントしたくて。受け取ってくれるかな」
 しりすぼみになっていく言葉。けれどまっすぐ、負けないようになまえを見つめていると、ぽかん、となまえは口を開けたままトーマを見上げていた。
 思わぬ出来事だったようで、しばらくその顔でなまえは固まると、はっとしたように視線を泳がせ、それからばっと顔を赤くした。
 徐々に下がってきた太陽の赤みだけではないその頬に、トーマは目を細める。ああ、可愛いな。口には出さずにいたが、泳がせていた視線がトーマに戻ってきた瞬間、目が合うとますますなまえは赤くなり、空色の瞳が泣きそうに歪んだ。
「あ、ありがとう、ございます」
 すぐに目はそらされたが、震える手でなまえは和紙の包みを受け取って大切そうに胸に抱いた。
 しわにならないように抱きしめていたなまえに「開けてもいいですか?」と尋ねられたのは太陽が海に沈みはじめたころだった。
「もちろん。素人が作ったから、君のブレスレットみたいにはできなかったんだけど。でも……気に入ってくれると嬉しいな」
 頬をかきながら言えば、なまえはやはり震える指先で和紙を丁寧に開けていく。
 和紙の中にあるのは、赤い薔薇をモチーフにした刺繍の紐である。ブレスレットにするには長すぎるそれを、なまえはますます大切そうに手に乗せると「きれい」とぽつりと呟いた。
「いつも髪を半分あげてるから、君の髪飾りと一緒につけれるようなものにしたかったんだけど」
 なまえはいつも芍薬のような大振りな髪飾りをつけている。桃色の髪と白の髪飾りを映えさせるようにと思って、赤みもそこまで明るくない暗めの糸で作っている。緑色の蔦と葉も、邪魔にならないような色味を吟味して作ったのだがやはり素人、ブレスレットのようには到底できない。
「あの!」
「うん?」
「これ、チョーカーみたいにしてもいいですか?」
「チョーカー?」
 言われて、なまえの首元へ視線をやる。できないこともないだろうが、なまえの首には少し長いかもしれない。
 太さは少し細めのリボン程度のためチョーカーにしても問題はないだろうが。
「多分大丈夫だと思うけど」
「……! ありがとうございます!」
 言うなり、なまえは首にそれを巻いて後ろで長さを調整しはじめた。慣れているのかあっという間にトーマの渡した刺繍の紐は立派なチョーカーになってなまえの首元を飾る。
 白い肌に合わせても、浮くわけでもなくしっかりとなまえに馴染んだそれにトーマはまた目を細めた。
「ど、どう、ですか」
「可愛いよ」
 するりと出てきた言葉に、なまえはやはり頬を赤くしてせわしなく視線を泳がせ始めた。
 何をしたって可愛く見えてしまう。もうこれは仕方がない割り切り、その気持ちのまま目を無意識にトーマは細めていた。柔らかく緩むその瞳に、時々なまえの視線が合うのだがやはりすぐ逸らされてしまう。
 またしばらくオロオロしたなまえが見れるのだろうと思っていたが、トーマの予想に反してなまえは泳がせていた視線を意を決したように上げトーマを見上げると、じっとトーマの目を見たあとに泣きそうな顔をして嬉しそうに笑った。
「一生! 宝物にします!! 蓮見の家宝にしてもいいくらいです!」
「い、いや、さすがにそれは」
「いえ、それでも足りないくらいですよ!うちの宝剣の横に飾ってもいいくらいです」
 真面目な顔で言うなまえに、なまえの首元を飾るそれが蓮見家の宝剣の横に飾られているのを想像してぞっとした。やりかねないかもしれない、と思うのはなんとなくなまえの性格を分かってきた証拠だろうか。
「……トーマさん」
 トーマの望む形になるにはどうしたらいいのか。答えはひとつなのは分かっているが、どうそこまで持っていくべきか悩んでいたら、不意になまえが口を開いた。
 交渉ごとは得意でも、さすがにこういうことをそれと同じに考えることは出来ず、口もうまく回りそうにない。
 とりあえず考える時間が多少得られそうで、トーマはなまえへと視線をやると、なまえは何かを思い出すように海をじっと見つめていた。
「私がトーマさんを初めて見たのは、多分トーマさんが稲妻に来てすぐの頃だと思います」
「え?」
 思わぬ話に、トーマは素直に声を上げた。そんなに前から? と声に乗っていたのか、なまえはふふふと笑うとトーマのほうへと視線を向ける。
「まだ怪我が完治していなかったと思います」
「うわ、恥ずかしいな。あの頃を知ってるのか……」
 ただがむしゃらにこの国に馴染もうとしていた頃だ。綾人たちへ恩をむくいるため、早く馴染むため。神の目もまだなく、ただひたすらにこの国で、神里の役に立つ技量を学ぶ日々だった。
「それからしばらく見かけなくて、次にトーマさんを見たのは稲妻の街の中でした。最初に見た時とは全然違う人みたいで、大の大人相手にも気さくに話して……」
 そこで一度言葉を切ると、なまえは少し間を置いて深呼吸を一度した。
 考える時間ができる、とトーマは思っていたが、そんな余裕が自分の中にうまれるわけもなく。
 なまえから言われる言葉ひとつひとつに全て思考が取られていき、そして話の流れもなんとなくどこに行こうとしてるのか察しがついている。
 さすがに女の子から言わせるのは、とか、どうにか自分から言うことはできないかと思考を巡らせては見るが、トーマはトーマでそれどころではない。
 そんなに昔に知ってくれていたのか、とか。目で追ってくれていたのか、とか。自分が嬉しい情報ばかりである。
「それからです。私がトーマさんを見かける度、目で追い始めたのは。笑顔も、真面目な顔も、少し怒ってる顔も。なんだか全部が素敵で目が離せなくて。今も、お話をしてもらえて、どんどん知らないトーマさんを知っていってすごく嬉しいんです」
「なまえ……」
「だから、やっぱり宝剣よりも大切な宝物かもしれません。好きな方にいただいたものですから」
 そっと首に指をやって、なまえは笑った。指先で刺繍の薔薇を大切そうになぞると、はっとしたように頬を赤くしてなまえは頭を下げる。
「すみません! 困らせたいわけじゃなかったので何も言わなくて大丈夫です!」
 いつもの勢いのなまえに、トーマは思わず頬を緩ませた。桃色の髪が今にも地面につきそうなほどに頭を下げたなまえだが、トーマがなにか言えば聞く前に一目散に逃げていきそうな雰囲気もある。
 その前に、と思ってさっとトーマはなまえの肩に触れ、頭を上げさせた。触れている手に力を入れている訳では無いが、なまえはびっくりしたのか固まってしまっている。
「なまえ」
「ひゃ、ひゃい!」
 ひっくり返った声に、今度こそ吹き出しそうになったトーマはふっと息を漏らした。それになまえはむっとしたりせず、空色の瞳を眩しそうに向けただけだ。
 その瞳の中に、やはりモンドの空を思い出す。青空に浮かぶ真っ白の雲を風が流していくような、子供の頃に毎日見ていた色褪せない空を見てしまう。
 なまえは、トーマにこそオロオロして視線を合わせることも恥ずかしいのだろうが、基本的には人の目を見てきちんと話すのだろう。
 話している時に目が合うと必ずと言っていいほど、なまえはじっとトーマを見ている。
 つい昨日、空やパイモンと共に食事をした時にも、なまえは話を聞く時はじっと相手の目を見ていた。だからこそその空色が目に入る。
 はじめてなまえを見た時に視線を持っていかれたのも、その瞳だったかもしれない。
「オレがはじめて君を見かけたのは、この国に来てすぐの頃だったよ」
「え?」
 空色の瞳を大きく見開いたなまえは、ぽかんと口を開けてトーマを見上げている。さっきまであった頬の赤みは消え、心底から驚いているようだった。
「なまえの秘密基地で、遠くの海を見ている小さな君を見たのが初めてだった」
 桃色の髪に空色の瞳。見立つ容姿も相成ってだろうが、何年も経って会ってもすぐに記憶に蘇った。
「まあ恥ずかしいけど、そのあとは忙しくてなまえのことは忘れてたんだけど、夜中に君に会った時すぐに思い出せたんだ」
 肩をすくめると、なまえは驚きながらも、それでも柔らかく笑う。嬉しい、とその表情が語っている。
 ああ、やっぱり可愛いな。そう思うと、自然とトーマの体は動いた。
 太陽が半分ほど沈んだ夕焼けのせいなのかそうではないのか。ほんのり赤みの強くなったなまえの頬に手を伸ばせば、トーマの指先に柔らかな肌が触れる。
「オレは、君に会う口実を作らなくても、会えるような関係になりたいよ」
「……え、っと……?」
 頬をなぞるようにして、指は輪郭をすべり、そこから首にしっかりと巻かれた薔薇の刺繍紐へと触れた。
 指の背でそれに触れ、そこからなまえの髪をひと房すくい指にからめる。
 するりと落ちていくその髪ごと、トーマはなまえの肩に手を回してぐっと片手で引き寄せた。
「会いたい時にも、そうじゃない時にも顔が見たいし、……君とできるだけ会って話したいんだ。何かのお詫びやお礼じゃなく会いたいし、こうして抱きしめたいとも思う。他の人に、なまえがオレに向ける表情を向けてほしくないとも、思ってる」
 びく、と引き寄せているなまえの肩が震えた。しばらくそのまま何も言わずに居ると、なまえから嗚咽が盛れていることに気づき、ぱっと体を離す。
 まさか抱きしめるという行為がいやで泣かせたのだろうか、と焦ってなまえを見ようとしたら、顔を見られまいとしてかなまえのほうからトーマへと抱きつき額を胸につけるようにして俯いてしまった。なまえの手はトーマの服を握っている。
 嫌がられた訳では無いことに安堵し、けれど泣いていることにかわりはないためどうしようかとなまえの名前を呼ぶと、なまえは「うぁい」となんとも言えない声で返事をした。
「き、聞き間違いとかじゃ、ないですか? わ、わたしが、都合の良い夢を、見てるとか」
 つっかえつっかえに言うなまえの肩にもう一度片手を回して、空いた方の手で髪を撫でてやる。
 どちらかといえばなまえから抱きつかれたことが夢では無いのかと若干思っているのだが、どうやら夢ではないらしい。
「なら、オレにとっても都合の良すぎる夢になるなあ」
 少し肩を寄せる手に力を入れると、ぱっとなまえは顔を上げた。泣き濡れた空色の瞳が真っ直ぐトーマを見上げて、なまえの手がますますトーマの服を握る。
 ん? と首を傾げると、なまえは何度かぱくぱく口を開け閉めしたあとに、泣いてひっくり返りそうな声で「好きです」と一言。
 空色の瞳が真っ直ぐにトーマを射抜き、言葉にならないほどに胸の奥に愛しさがたまっていく。
 それでもなにか言おうと口を開けたら、ざあっと海風がトーマの後ろへと通り抜けていった。
 まるで、背中を押されているような、そんな気持ちになった。
「オレも君が好きだよ、なまえ」
 そう言うと、なまえは涙にぬれた顔で、それでも満面の笑みで微笑んだ。


20220331

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