「あぁーー……だめだぁ……」
 秘密基地と称している稲妻城内にある大きな桜の木の下、海が一望できるその場所でなまえは頭を抱えていた。
 通りからは見えない位置にあるため、誰も蓮見の令嬢がこんなところに座り込み頭を抱えるとは思いもしていないだろう。
 今なまえを悩ませているのはひとつである。神里綾人との結婚、だった。
 婚約者としてしばらくは過ごそうと言われたのが三日ほど前である。
 そして次の週末に綾人の屋敷で食事をしようとも誘われていた。外食は綾人の多忙さでは難しいためなのだが、なまえもそれは理解しているため断る理由もない。
 婚約者ではなくともそれくらいなら昔もしていたためなまえもすぐに了承した。
 ──と言っても、なまえが幼い頃は綾人と綾華が蓮見へ来て食事をすることの方が多かったのだが。
「婚約者ってなに……」
 三日間それを考え、結局答えは出ていない。
 相手が知りもしない相手であればここまで考えることもなかったのかもしれないが、幼い頃から兄として慕っていた綾人であることが悩みを増やしている。
 綾人は、すでになまえの中で家族のような存在だった。兄として、家族として、共に過ごしてきた。神里が大変だった時期などは蓮見の家に綾人と綾華が一時住んでいたほどである。
 そこに結婚という文字が入ってきてしまい、なまえの脳内は混乱を極めていたのだ。
 今更神里が蓮見と繋がって得をすることなどほとんどないと言ってもいい。
 そもそもが仲のいい家同士であるため婚姻や何かで穴埋めをする必要が無いのだ。
 そうなるとなぜ結婚の話を持ってきたのか全く理解が出来なかった。
 最近では減っているが、それでも家柄でいえば上流階級である神里や蓮見のような家は、未だに家同士の繋がりや損得で婚姻を結ぶことは少なくない。
 なまえもそれなりの家に産まれているため、恋愛をしなければいずれは見合い結婚だろうと覚悟はしていた。もちろん家のために多少は仕方がないと思っていたが相手が心底から予想外すぎたのだ。
 そして綾人が損得も考えず、特に結び付きを強くする必要のない蓮見と婚姻を結びたい理由も全く分からない。
 稲妻の情勢を鑑みても特にもめているということもなく、ここ最近は落ち着いているのだから余計にだった。
「結婚ってなに……」
 夫婦になる。家族になる。家のために後継を残す。求められることは多々あるが、全てにおいてピンとこない。
 そもそも家族になると言っても、なまえの中で綾人は家族だ。綾人にとってもきっとそうだろう、となまえは信じているし確信も持っている。
 自身の両親を夫婦代表として思い浮かべてみるが、母にベタ惚れの父と、父を尻に敷いている母しか出てこず考えるのをやめた。綾人となまえのなれる関係ではない。
 そもそもが、仕事でモンドへ行った父親が、モンド城内のバーで働いていた母親に一目惚れし、猛アタックを経て稲妻に母親を連れて帰ってきたのだ。根本の出会いや関係から違いすぎている。
 綾人のほうから結婚の申し出をしたのは事実らしく、父親と兄に確認をしても同じことを言っていた。
 なのに綾人の真意が全く読めず、なまえは途方に暮れているのだ。
 結婚をするのは、そういう家に生まれたのだからと納得はできる。相手が綾人だということと、綾人の真意がわからないのがもやもやして気持ちが悪いだけで。
 それがわかれば、己の身の振り方も分かる。何を求められているのかが分からない、というのはただただ混乱するだけだった。
「本人に聞けば一番いいんだろうけど」
 次に会うのは二日後だ。そこで聞ける度胸と勇気を、今ならともかくその時に持てるかと言われると微妙なのだが、聞かなければ前に進めないのもまた事実だ。
「何を聞きたいんだい?」
 海を眺めていたなまえの視界に、にゅっと見慣れた顔が入ってきてびくっとなまえは飛び跳ねた。
 まさに考えていた顔であり、ここ数日の悩みの種である。
 細められた優しげな青い瞳はまっすぐなまえを見ていて、驚いているなまえに「うん?」と柔らかく微笑んでいる。
「あ、綾人!?」
 通りからは見えない位置のはずだ。いくら目が良くても絶対に見えない。
 思わぬ人の急な登場に跳ねる心臓をおさえてぽかんと綾人を見上げると、青い瞳を楽しげに細めて綾人はなまえの隣に座った。
 人一人分ほど空いているスペースをぼんやり眺めながら、なまえは何とか呼吸を整える。
「それで? なにか聞きたいことがあったのかな」
「そ、それはあるけどっ、それよりなんでここが分かったの!?」
 誰にも教えていないはずだ。秘密基地も、今日ここにいることも。
 が、綾人はきょとんと首を傾げるとくすくす笑う。
「なまえが小さい頃に、ここがなまえの秘密基地だと教えてくれたよ」
「えっ……」
「私が今日ここに来たのは、通りがかったついでになんとなくだけどね」
 なんとなく、で行動するようなタイプではないのはなまえもよく知っている。
 見られていたのかもしれない、と思ってむうと頬を膨らませた。
 ──護衛として何人か忍がつけられているのだが、なまえはそれを知る由もない。
「で、聞きたいことは?」
 三度目の質問をされ、はっと綾人を見上げる。
 今の勢いなら聞けるかもしれない。何日か経てばやはり気持ちというものは萎んでいくが、先程聞こうと決めたため勇気も度胸も今のところ消えてはいない。
 口を開こうとして、なまえはふと考える。遠回しに聞いた方がいいのだろうか、と。
 直接的に物事を尋ねることが全て良しというわけではない、というのは子供の頃から言われていた。
 令嬢らしくきちんと教育は受けているのだが、遠回し、遠慮しながら、といったことがなまえは苦手である。
 けれど質問を投げようとしている相手は気を遣わなくても良い綾人だから別にいいか、となまえは気を取り直した。
「なんで私と結婚なの?」
 なにかが特別あるわけでもないだろう、と言外に滲ませると、綾人はああ、と、何度か瞬きをする。
「言わなかったかな」
「なんにも聞いてないよ……結婚の申し込みに来ました、しか。なんでなのか分からなくてどうしたらいいのか分からないし、身の振り方が決められない……」
 言えば、綾人はおや、と少し驚いたようにまた瞬きをした。
 なに? となまえが視線で尋ねると綾人は少し嬉しそうに笑った。
「ああ、結婚に対して嫌というわけじゃないんだと思ってね」
「……? それは思わないけど」
 あの場で断れなかったのは事実ではあるが、周りの目がなくとも断っていたかと問われると微妙なところだった。
 好きな相手などいないため、見合い結婚の覚悟はとうの昔にしていたのだから、なんなら相手が綾人で良かったくらいの気持ちではいるのだ。ただ綾人だからこそ何故なのかわからずもやもやして気持ちが悪いだけの話で。
 それを包み隠さず言えば、更に綾人は目を細めて微笑むとそっとなまえに手を伸ばした。
 風に揺れるなまえの落ちてきた髪を耳にかけてやり、すっと親指で耳を撫でるように触れ離れていく。
 なんとなくその手を目で追っていると「以前からなまえのことが好きだったからだよ」といつもの声音よりもずっと優しい音でなまえの耳に飛び込んできた。
 しばらく無言で綾人の手を見たまま言われたことを噛み砕いていたが、理解が全く追いつかず「ほぁ……?」となんとも情けない声を上げてしまった。
 じわじわと視線を綾人の手から綾人の顔へと移動させていくが、綾人はその間もずっと穏やかに微笑んでいる。
 まさか聞き間違いでは? となまえが綾人の顔を見て思うと同時に、綾人がもう一度「なまえのことが好きだったからだよ」と同じように穏やかな表情のまま言う。
 今度こそ聞き間違いではない、はっきりと聞こえたそれになまえは「好き……」とオウム返しをしただけで終わった。
 そしてまたなまえがぐるぐると出口のない考えに沈もうとしたところで、ぐっと綾人の右手がなまえの頬を包み持ち上げる。
 強制的に綾人のほうに意識を向けさせられた。ぐえ、とカエルの潰れたような声が出たが綾人に気にした様子はない。
「なまえ」
「へぁい……?」
「私がなまえのことを好きだから、それだけでなまえに結婚の申し込みをした。それ以外に損得も何も考えていないよ」
 綾人らしくないあまりにも真っ直ぐに伝えられた言葉に、なまえは言葉に詰まってしまった。
 が、それも綾人が、混乱するであろうなまえの性格を鑑みてわかりやすいように話しているだけである。
 そんなこと知りもしないなまえはやっとそこで綾人の言っている意味を理解し、勢いよく立ち上がった。
「す、すっ、好き!?」
 稲妻全土に響いたのではないかと思うような声量に、近くに居たらしい小鳥が迷惑そうに鳴いて飛び立って行く。
 立ち上がったなまえの顔は真っ赤で、それに対してまた綾人がおや、という表情をしたが、なまえはそれどころではない。
 誰が誰を好き!? 綾人が!? 私を!?
 綾人がわかりやすく言ったにも関わらず、なまえは大混乱した。
 が、変な勘違いをすることもなく、概ね綾人の予想通りの混乱の仕方に綾人は苦笑を零すとゆったりと立ち上がってなまえの正面に立つ。
 綾人にとって予想外なことといえば、なまえの顔が赤く染まったことくらいだ。
「なまえを他の相手に取られる前にと少し急ぎすぎたかな」
 眉を下げ申し訳なさそうに言う綾人に、なまえははっと我に返った。そんなことない、と口をついて出そうになるがぐっと飲み込む。
 その場の勢いで返事をするのはなまえの混乱した時の癖ではあるが、勢いでした返事は記憶にほぼほぼ残らないことの方が多いのも自覚しているのだ。
「ほ、ほかのお見合いなんて、聞いてないし、とられるとかは、ないと思う」
 しばらく沈黙した後に俯いてやっと出た言葉はたどたどしかったが、綾人は満足したのか「なら良かった」といつも通りに微笑んだ。
 未だ熱の引かない頬を見せたくなくてなまえは綾人を見ることもできず、しかし綾人は視線の合わないなまえを見て随分機嫌が良さそうだった。

 

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