頭がひどく痛かった。自分がどこの誰で、なにもので、なにをしていたのか、今どこにいるのか、どうしてここにいるのかが全く理解できずにぼんやり空を眺めてどれくらいの時間が経ったのかさえわからない。全身傷だらけで、頭といわず体中がいたくて、動けなくて、ああここで俺は自分が誰かもわからないまま死ぬのかもしれないとなんとなく思って。だけどそれでもいいのかもしれない。ここでこうしてぼんやりしていてわかったけど、ここは人も寄り付かない場所で、しかも下水のにおいがするから溝の中なのか排水口の近くなのか。とにかく清潔な場所ではない。薄暗く、路地裏なのか見える空もせまかった。
 こんなところで死ぬのならきっと自分はろくでもない人間だったのだろう。人の恨みをかうような、そんなろくでもない人間。なら、ここで死んでしまったほうがいいんじゃないだろうか。幸いにも自分の体はぼろぼろで、きっとほうっておかれて誰にも見つけてもらわなければ近々死んでしまうだろう。息をするのも苦しい、骨も何本か折れているんだろうか。ヒビでもはいっているんだろうか。こうして考えてみるとじくじくと腹部も痛いから、きっと刺されたかなにかしたのだろう。血も、でているのかもしれない。それでも随分長い間こうしているから、自分の生命力はひどくよくできているんだろう。
 影になっているせいか、ぽっかりと見える小さな空はひどく青く見えた。空色、水色、もっと的確な言葉が当てはまるんじゃないかと思うほどきれいな青。まるで絵画のようなそれに、目を細める。首すら痛くて動かない、見えるのはぽっかりあいた空だけだ。ああ、早く死ねたらいいのに。そう思って、なんとなく口元に笑みがうかんだのがわかった。
 死にたくない、ならわかるのに早く死にたいなんて思うのは、自分にゆずれないものが何一つないからだろうか。今までの記憶も、大切だったであろうものも自分の中にはない。自分すら何者かわからないのだ。あるのは自分が今置かれている現状から推測する、今までの自分だけ。…ああ、はやく、こんな苦しい気持ちをするくらいなら、しねたらいいのに。


「レイズデッド」


 しばらく時間が経ったのか、それとも全く時間は経っていないのか。急に、人の声がしたと思えば自分を暖かい光が包んだ。きらきらと視界の中で光るひかりは暖かく、その声…まだ幼い少女の声は何も音のなかった自分の世界に新鮮に響いて。
 暖かな光が見えなくなった瞬間、すっと体の痛みがなくなっていた。それに驚いて、ゆるゆると視線を声のしたほうへと動かせばそこには身なりの整った、10歳くらいの少女が自分をまっすぐ見ながら立っていた。
 薄水色のドレスに、長い銀色のゆるく巻いた髪。おなじ色の長い睫毛に、若草色をしたおおきな瞳。まるで人形のようだと思うほどかわいらしい少女は自分の意識が少女へ行ったことを確認すると「治癒術は得意じゃないのよ」とふてくされたように言った。この年で、治癒術が使えるなんて。そう頭の中で考えて、こういうことは覚えているのにと内心、少しだけ関心した。記憶がないわりに、うまくできている。


「スプラッシュ」


 小さな声で言った少女は、自分より少し外して術を発動させる。効果もひかえめにしたのか小さな滝が自分のすぐそばではねて、それは溝の中に寝そべっているであろう自分にもじわりとかかる。けれどそこまで冷たいと思わなかったのは半分が汚水につかっているからなのか、血まみれだからなのか、自分の体温がひどく低いからなのかはわからなかった。結局は全部なのかもしれないけれど。
 いつの間にか、少女はさっき発動させた術でついでに濡らしたらしい真っ白のレースのハンカチをもって自分に近づいてくる。ドレスが汚れるのも気にせずに、ぱしゃん、と溝の中へためらいなく入ってきた。見たところ貴族の、気位の高そうなお嬢様なのに。けどこんなことを言って貴族を怒らせてもめんどうだ。…そう、貴族、を…?


「っ…!」
「傷はふさがっているから痛くはないとおもうわ」


 考えがまとまりかけた時、ぺしゃりと自分の頬にぬれたハンカチがあてがわれた。それに驚いて少女を見れば、首をかしげてそう言ってためらいなく自分の顔全体をそのハンカチでふいていった。汚れを落とそうとしているその動作にされるがままになっていれば、あらかた汚れを落とし終わったのかハンカチと少女の手がはなれていく。真っ白だったレースのハンカチは、赤黒い血と土の汚れをふきとってなんともいえない色になっていた。その様子に妙に胸がざわついて、少女をまた見つめる。きれいだった白が、あんなに黒く染まってしまった。


「しにたかったの?」


 何を考えているのかわからない表情だった。10歳やそこらの見た目の少女がするような表情ではない。ただ、疑問形で聞いているもののその瞳には「死にたかったのね」と暗に言っているような色があった。じゃあどうしてそんなことを聞いてくるのだと思うものの、みどり色の瞳が強くて、ふっと自分は口をひらいていた。


「…なくすものは、ないから」


 ああ、自分はこんな声だったのか。低い、男の声だった。声の低さからいって、多分20もきていないだろう。見た目がわからないからどうとも言えないけど。ああそうか、自分の年も見た目も、今の自分はわからないのか。
 そこまで考えて、目の前の少女に自分はどう写っているのかふと気になった。そもそもこんな路地裏で、こんな年の貴族の少女が何をしていたんだろう。それに躊躇なくこんな溝に入ってきて、汚れなんて気にせずにハンカチを濡らして自分の顔をふいた。ドレスも汚れているだろうに、気にした様子もない。ただただ少女のみどりの瞳にうつるのは、自分だけだった。真っ直ぐと、自分だけを見ている。


「あなたが死んだら、あなたは自分をなくしてしまうじゃない」
「…どうせ、ろくでもなかった人生だったんだろうし。わからないから」


 そこまで言えば、少女はなんとも言えない表情をした。自分の様子やこんなところに居たことから何かを察したのか「おぼえてないのね」とただただ事実を述べただけのような調子で言う。そこには同情や、そういった悲観的なものは入っておらず思わず首をかしげていた。…変な少女だ。貴族のくせに自分なんかにかまって、こんなところにいて、そして汚れるのも構わずに汚水の中に足をいれて、自分の怪我さえ治してしまって。


「あなた、これからどうするの」
「べつに、どうも。…なにも」


 どうするのと言われても何もないのだからどうすることもできない。自分すら持っていない自分に、なにができるというのだろうか。しばらく何か考えていたらしい少女が、ぐっと自分に近づいて首を傾げる。人形のようなきれいな顔が、幼いその表情が、しごく真面目なものに変わった。まるで大人の女のような表情だった。


「しにたかったあなたの命、私にちょうだい?」


 聞けば驚くような内容の言葉を、少女は真面目に言ってのけた。それが冗談なのかとも思ったし少女の口から出てきたただの戯れかとも思ったけどそう思えなかったのは少女の瞳が強く、冗談でも戯れでもない、本物の言葉だと感じたからで。この年の少女がする表情ではなかった。きれいな、花のような少女がする表情ではなかった。


「あなたのいのちをわたしにちょうだい」


 まるでその言葉は魔法のように、呪いのように自分の体へと浸透していった。何を思ってその言葉をはいたのか、何を考えて自分をたすけたのか、どうして自分がほしいのか。考えること、言いたいこと、聞きたいことは山のように浮かんでは、消えていく。


「…はい」


 自然と出てきたその言葉に、少女は満足げに微笑んで自分の前へしゃがみこむ。きれいだったドレスは汚水を吸って茶色っぽく変色しているし、ハンカチはもはや白かったころの名残なんて残っていなかった。けれど少女は「ここに落としていくと面倒かしら」と言って、けれどいいことを思いついた子供のような顔をしてひらりとそれを溝の淵へとかける。やっと子供らしい、少女らしい表情に緊張していたのか自分の肩から力が抜けるのがわかった。


「歩ける?…屋敷まで戻りましょう。話を合わせてくれたらそれで構わないわ」


 ひどく体はだるいし、さっきまで残っていたからだの痛みのせいで動くのが億劫だった。けれど少女がためらいなく触れた手が暖かくてやわらかくて、陽だまりに触れたような感覚になる。ゆっくりと起き上ればふらりと感じた眩暈。支えるように少女が小さな体をためらいなく自分へと添わせた。ああ、こんなにこの貴族の少女は小さいのか。自分の手と比べても小さく、背も体も、こんなに。ちらりと自分がいたところを見てみれば、案の定そこには血だまりとよくわからない汚れが浮かんでいた。出血量もかなりあるのか、なぜ自分が動けているのか不思議でならない。


「屋敷が近くでよかった。…行きましょう」


 言われるまま、少女につれられて路地裏を歩く。迷路のようになっているのに少女は慣れているのか迷いなく歩いていく。しばらく歩いた先、見えたのは豪勢な屋敷だった。ちらりとほかの貴族の屋敷へ視線をやって確認してみるものの、この一帯ではひどく大きく豪華で、そして視界の隅へうつった城への距離も近い。…皇族、なのだろうか。ふと考えたことに、また自分の中で不思議な感覚になった。自分のことはわからないのに、こういった一般常識のようなものはふとした瞬間に出てくるのが不思議でかなわない。
 裏口のような場所から少女は屋敷の庭へ入る。こんなどろどろの格好のまま、と思って立ち止まりかければ「平気よ」と少女が自分を見上げて言った。言わんとすることがわかったらしいそれにも驚いたものの、戸惑いなく少女は屋敷の裏口…きっと使用人の専用口であろう場所へ行くと、さっきまでとは違ったおしとやかな、けれど大きな声で「だれか…!だれか、」と叫ぶ。堂々としていた様子はなく、おびえたような。けれどしっかり体を支えてくれているあたり、こちらも気遣ってくれているらしい。


「まあ姫様…?また抜け出して……っ、なっ…」


 やってきたのは年配のメイドで、姫様、と呼ばれた少女と自分を見るなりにさっと顔色を悪くした。血とどろまみれの少女と自分を見比べて、あわてたように近づいてくる。


「この人が、賊に襲われた私を助けて怪我をしてしまったの…!治癒術で治したけど…怪我がひどくて、私っ…どうしたら…私を必死に守ってくれて…!」
「姫様、落ち着いてください。きっと大丈夫、彼は助かりますから。誰か、誰か!」


 年配のメイドはじっとしているように少女へ伝えると、あわてながら屋敷の中へと駆け込んでいく。ちらりと少女を見てみれば、不安そうな表情は消え去ってにんまりと、人の悪い笑みを浮かべているところだった。


「第一段階はクリアよ。ここからが本番だわ」


 子供らしくない子供だと思った。けど、引っ張られていくのが嫌ではないと思う。身長さからずいぶん年下だろうに、それを思わせないこの雰囲気にのまれかけているのかもしれない。いや、もう、あの路地裏でのまれてしまったのかもしれない。
 そこから、自分は違う部屋へ通され少女と離れることになった。ふさぎきっていなかったらしい怪我の手当をされ、体を洗われ拭かれ、清潔なものに着替えさせられる。抵抗するような気力もなかったし、話は合わせろとあの少女に言われていたので抵抗する気もなかったが。それから体が冷え切っているということで暖かい布団へ寝かされ、まるで落ちていくように眠ってしまった。



「……」


 目が覚めたら、傍らに人の気配がした。ふと視線を動かせばそこには分厚い本を読む少女が。自分が起きたことに気づくと、驚いたような、安心したような表情を見せてすこしだけ微笑む。


「おはよう。…あなた、5日も寝てたわ」
「…5日…」


 ぼんやりする頭で、何があったのかを思い出す。けれどその前に目の前にいる少女の瞳の色を思い出して、またぼんやりと少女を見た。そうすれば、少女は読んでいたらしい本を閉じて体ごと自分へ向き直る。それからにっこりと、またあの大人びたような、悪戯を成功させたような人の悪い笑みを浮かべた。


「あなたが寝ている間に、全部終わったわ。あなたはこれから私だけの騎士よ」


 私だけの騎士。その響きに、なぜかぐっと胸をうたれた。この少女の騎士?意味もわからずぐっとなる胸に、少女はまた笑う。楽しそうに、うれしそうに。本はサイドテーブルへ置かれ、うれしそうだった表情はさっと消えて真面目な表情へかわる。


「あなた、なまえは?」
「……」


 しばらく考えても浮かんでくるわけもなく、一度目を閉じてまた開く。それだけでわかったのか、少女は「そうよね」と一度だけ頷いた。また同情でもなんでもない、ただそれを事実として受け止めただけのような声だ。


「わたしはオリヴィア。オリヴィア・ジゼル・ヒュラッセイン。最初に聞いたでしょうけど…って覚えてるかはわからないけど、皇族になるわ」


 ああ、やっぱり。自分の考えていたことが当たったからか特に驚きもなにもなかった。少女と…オリヴィア姫と同じくただそれを事実として受け止めただけだ。


「…ねえ、あなたの名前、わたしがつけてもいいかしら」


 少し言いにくそうに言う少女に、ゆっくりと体を起こす。つけていいもなにも、いのちをくれといったのはこの小さな姫で、自分はそれを了承したのだからいいもなにもないだろうに。けれど答えを待っているのか「はい」と短く言えば、オリヴィア姫は嬉しそうに微笑んだ。人形のようだと思うほどきれいな笑顔に、一瞬目をうばわれる。


「シエル」
「…シエル?」
「そう。シエル。空って意味なの」


 目を細めて笑うオリヴィア姫は、ベッドへ身を乗り出すようにして窓の外を指さした。シエル。口の中でもう一度自分につけてもらった名前を言えば、すとんとそれが胸の中へ落ちてきたような気がして思わず口元が緩んでいた。


「あなた、笑った顔のほうがすてきね」


 その小さな姫君の一言で、自分が笑っていたのだと知った。ああ、自分は無邪気な少女のために笑うこともできるのか。



 これが、"俺"と、オリヴィア様のはじまった日だった。



戻る