ゼロス・ワイルダーとオリヴィア・ジゼル・ヒュラッセインの婚約は、誰が見ても絵に描いたような政略結婚だった。
姫であるオリヴィアに、ワイルダー公爵家跡取りであり神子でもあるゼロス。
そして婚約者を構わず他の女性ばかり相手にするゼロスに、婚約者に構わず国のために奔走する姫。
仲が悪いわけではなさそうだが、特別いい訳でもない。貴族たちは皆同じ印象をこの二人に抱くだろう。
ああ、政略結婚なんてお互いにかわいそうに、と。




「子供さえよそで作らなければなんでもいいわよ」
どういう流れでそうなったのか、ゼロス自身全く覚えていないが、女癖がどうの、と話していた最中のオリヴィアの言葉にゼロスは思わず紅茶を飲もうとした手を止めた。
発言者であるオリヴィアは、午後の柔らかくなってきた陽の光をレースのカーテン越しに浴びながら音もなく紅茶を飲んでいる。
銀色のゆるく巻かれた髪に光が集まっているように眩しく感じ、ゼロスは少しだけ目を細めた。
「継承問題で揉めたくないでしょう?」
ゼロスの沈黙を疑問だと思ったのか、オリヴィアは真っ直ぐに翠の瞳をゼロスへと向けた。
その瞳の中には嫌悪があるわけでも諦めがあるわけでもない。
少し首を傾げるだけのその仕草で心底不思議がっているのがわかり、ゼロスは顔に笑みをなんとか貼り付ける。
「俺様、オリヴィアにそんなふうに見られてるってこと?」
からかうような声音で言えば、オリヴィアは眉間に皺を寄せた。本気で言ってるの?と言わんばかりのその視線に、ゼロスは肩をすくめる。
「さすがに噂ほどじゃないのは分かってるわよ。夜も城にいることの方が多いでしょう」
噂ほどではないが、全くないわけではないだろう、と。言外に言われ、ゼロスは目を細めた。
ここでオリヴィアがなにか答えを求めている訳では無いのはゼロスも分かっている。
ただ微笑むだけにとどめ、固まっていた体を動かして紅茶を一口飲んだ。

ゼロスがオリヴィアに会ったのは、オリヴィアの六歳の誕生日だった。
誕生会と称した子供だけのお茶会で、言うなればオリヴィアのお披露目も兼ねた、結婚相手と引き合せるための催しだったのは当時のゼロスにも分かった。そもそもゼロスはオリヴィアが生まれた時から決まっていたと言っても過言ではない、オリヴィアの婚約者だ。もちろん公表はされてはいなかったが。
さすがに六歳の子供には結婚だのなんだのは分からないだろうと参加したその茶会で、オリヴィアはゼロスの思った通りふわふわした子供らしい笑顔で会の中心にずっと居た。
銀色の髪に翠の大きな瞳。子供特有のふっくらした頬に白い肌。子供の中でもとびきり可愛く、それこそ天使かなにかのようだと当時ひねくれていたゼロスですら思ったほどである。
神子であるゼロスよりもよほど天使に近いんじゃないかと、子供ながらにゼロスは思ったほどに可愛らしいお姫様、だった。
そのオリヴィアが見た目よりもずっと大人びていて、頭の回転が早く、普段は猫を被っているのを知ったのはいつだっただろうか。
気づいたら当たり前のように隣でそうしていた気もするし、出会った頃から素のオリヴィアを知っていたような気もする。
なんにせよ、その頃からゼロスにとってオリヴィアは唯一だった。
大人になった今でさえ夢に見るほど強烈だったのだ。はじめて一緒に参加したお茶会で「神子様神子様って、なんなのかしら。ゼロスにはゼロスっていう名前があるのに」とエスコートしていたゼロスの横で呟いたオリヴィアが。
神子様、もしくは公爵令息としか見られていなかった自分を、ただのゼロスとして見ている人間にしか言えない言葉だった。

ひねくれていた時期に好きになってしまった分、それは成長しても真っ直ぐに好意を伝えられるようにはならなかった。
他のどうでもいい異性にならいくらでも言葉を尽くせるくせに、ゼロスはオリヴィアに対しては驚くほど何も言えずにいる。綺麗だとか、可愛いだとか、好きだとか。冗談混じりでならいくらでも言えるが、結局冗談だと取られオリヴィアには相手にはされていない。
なんなら女好きだと思われているし、そもそもオリヴィアは好かれていると思っていないだろう。
ただの婚約者。それ以上でも以下でもない。

「……ま、俺と結婚しても幸せにしてやれるかは怪しいけどな」
いつ何があるかわからない神子という存在である。
それだけじゃなくとも、言えないようなことだってゼロスはもう既にいくつも抱えてしまっている。
一緒にならない方がオリヴィアは幸せだろうと思えるほどに。
正直なところ、ゼロス以外の男の隣で笑うオリヴィアなど見たくはない。考えたくもない。
だが、自分のしていることや関わっていることを鑑みると、ゼロス以外の人間と一緒になる方がオリヴィアのためなのは明らかである。
それにそうなった場合、この世にゼロスがいる可能性のほうが低い。それも、分かりきっている事だ。
自分が死んだあとのことなら別になんでもいいか、と。それなら自分に執着されていないうちに手を放してやれるだろう。
そう思って考えた言葉だったのだが、オリヴィアから「ばかね」と心底呆れたような声音で返事があった。
声に出したつもりはなかったが、どうも声に出してしまっていたようでゼロスの心臓がギュッと軋む。
どうにか取り繕おうとしたが、それよりも早くオリヴィアが「あのね」と言ってティーカップをソーサーへと置いた。
「あなたが私を幸せにするんじゃなくて、私が、あなたを幸せにするのよ」
分かった?と顎を上げたオリヴィアは、ふふんと言いそうな顔で笑っている。
ゼロスは、オリヴィアの前では、ボロを出さないように人一倍気をつけている。
悩みなんてないと。日々楽しく生きているのだと見てわかるような態度で居るのだ。
その一面しか見せていないオリヴィアから出た言葉に、ゼロスは思わずくしゃりと笑う。
見せていない自分の柔らかい場所を、確かにオリヴィアは感じてくれているのだろう。そう思うとなんとも言えない気持ちになった。
いつもの余裕のある顔で笑えたかは分からなかったが、オリヴィアがゼロスを見て優しく目を細めたのを見て「俺様にはもったいないくらいいい女だよ」と肩を竦めていた。
「そうよ。だからあなたを幸せにできるんでしょう?もったいないくらいで丁度いいの」
言うと、オリヴィアはテーブルの上にあった皿からクッキーをひとつ摘むとゼロスの唇の前に持っていき、口を開けるように視線で促した。
それに素直に従えば、一口サイズのクッキーがゼロスの口の中にポイと入れられる。
その際にゼロスの唇に少し触れたオリヴィアの指先に、まるで子供のようにドキリとしたがさすがに表情には出さなかった。
口の中でほろほろと崩れていく感触と、広がる甘さにいつの間にか張っていた気が少し緩んだ気がして無意識にゼロスは息を吐く。
考えていたことが、途端にオリヴィアの指先に全て持っていかれたような感覚だ。
「いかがかしら」
余計なことを考えるな、と言われているのだろうことは分かった。
ゼロスが進もうとしている道をわかっているのか、感じているのか。その余計な考えをどこかへやってしまえ、と言われているような気さえする。
目を細めていたずらっぽく笑うオリヴィアに、なるほど確かに余計なことは考えられないな、と思う。
「確かに、オリヴィアのことしか考えられなくなりそうだわ」
そう答えたゼロスに、オリヴィアは満足そうに微笑んだ。
 

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