物心がついた時から、マリアの一日のはじまりは、いつも暗い部屋からだった。
しめった空気に、かび臭いにおい。それに薬のにおい、いろいろな体液の混ざったにおい。鉄のにおい。
太陽の存在すら知らないくらい長い間、地下の奥深くでマリアは暮らしていた。
呼吸をして、ただただ存在しているだけでよかったのだ。
「マリア様」
と呼ばれ崇められていたとしても、マリアにはそれが当たり前のことだった。
「マリア様」
と呼ばれ、男たちに新たな子を宿すためと性のはけ口にされても、マリアにはそれが当たり前のことだった。
「マリア様」
と呼ばれ体中に様々な傷をつけられ、気分の悪くなる薬品を入れられ、暴行をされても、マリアにはそれが当たり前のことだった。
苦しいという感情も、悲しいという感情も、楽しいという感情も知らずに、ただただ、マリアは生きていただけだった。
マリアの生まれた村では、忌み子という風習があった。
その色の子供が生まれれば、村に不幸を呼び寄せる。
その色の子供が生まれれば、悪魔の力を宿している。
そうなったら親の命はない。村の存続も危ない。
子を産まれた瞬間に殺すしかない。
そんな古臭い、今時では誰も信じていないような言い伝えがあったのだ。
けれど、マリアがその色をもって生まれてきてしまった。
艶やかな黒髪を持った穏やかな母親と、美しい金髪を持った優しい父親の間に生まれた子供であるマリアは、月光を集めたような銀色の髪に、空のように青い瞳と、血液のように赤い瞳をもっていた。
まさにそれが悪魔の色とされていて、赤い瞳は不吉の象徴だと、両親も生まれたばかりの赤ん坊も村人たちから指をさされた。
殺せと言われても優しい母親はマリアを殺せず、結果、父親がひそかに通っていた教団へと身を寄せることになったのだが。
その結果、マリアはまるで動物のように管理されるようになってしまった。
――それを、マリアの母親がまるで懺悔をするようにマリアに話したのは、クロスベル行きの積荷の中にマリアを押し込む直前だった。
「マリア、決まらないか?」
「……決めるも決めないも、ほぼ決定でしょう?」
「まあな」
そう言って喉の奥で笑いながら、たばこをくわえたセルゲイがマリアの横へとどっかり座った。
ソファに座っていたマリアもその振動で揺れるが、眉を下げて笑って終わる。
昔のことを思い出していたからか、マリアはセルゲイの音にも気配に気づかず、声をかけられるまでセルゲイが部屋に入ってきたことにすら気づけなかった。
普段であれば、ありえないことである。
どんなに遠くにいても、例えばクロスベルの端にいたとしても。マリアの耳にはその音が常に届く。
それなのに近くに、それも同じ建物の中にいたセルゲイの音にも、気配にも気づけなかったことにマリアは苦笑を浮かべた。
昔のことなんて思い出すんじゃなかった、と。
特務支援課というものを、セルゲイが新しく作ることになった。
そこにマリアを含めた五人を在籍させるのだという。作った理由も、セルゲイのやろうとしていることもマリアはわかるものの、妙に気乗りはできず。
ぐだぐだと考えに沈んでいたら、断ることも了承することもできずもう顔合わせの前日になってしまっていたのだ。
マリアは赤と青の瞳を一度伏せて、小さく息を吐いた。
決して支援課に所属するのや、このビルに他の人間が入るのを反対しているわけではない。ではないのだが、複雑ではあるのは確かだった。
マリアは、一瞬だけ正気に戻った母親に、クロスベルへ届けられる積荷の中に詰め込まれ、教団から脱出させられた。
実験と称してろくに食べさせられなかった子供の体はやせ細っていて、今にも折れそうなほどに小さかったため、小さな積荷の中にも充分に入ることができたのだ。
そうしてたどり着いたクロスベルで、マリアは偶然にもセルゲイたちに保護された。
そのままセルゲイたちと生活するうちに、マリアはその戦闘能力の高さや物覚えの良さからセルゲイのすすめで警察学校へ通うことになったのだ。
そこで遺憾なく物覚えの良さ――要は人外的な頭脳を発揮してしまい、飛び級をしてあっという間に卒業することになった。
けれど警察官の資格はとったもののやる気がなく数年放置し、けれど捜査官の資格は暇だったために数年前にとったけれど、警察官になるつもりも毛頭なかった。
ダドリーにしつこく「一課に来い」と誘われてはいるものの、警察官は面倒だからやりたくないと毎回断っていた。
そこにこの特務支援課という話だ。一課を断る理由にもなるし悪い話ではないうえに、セルゲイの側からも、アリオスの側からも離れたくないと言う独り立ちのできないマリアにはうってつけの場所なのだが。
「嫌なわけじゃないの。セルゲイの側にいられるし、クロスベルから離れたくないもの。けど……」
「……他の四人が気になるか?」
「……そうね」
警察官になるつもりはなかったけれど、お小遣い稼ぎのように遊撃士たちの間を縫って警察から入ってくる魔獣退治をしてマリアは生計をたてていた。
そもそも物欲もなければ、数々の実験や、そもそももって生まれた忌み子たる所以になった力のひとつのおかげで食べ物も一日一食程度食べたら生きていけたためお金自体にそこまで頓着もない。
少ない金銭でも生きていけたため、そういう根無し草のような生活でなんとかなっていた。
マリアに戦いや、勉強や護身術を教えたのは、このクロスベルでマリアを保護してくれた心優しい人たちだった。
だからこそマリアにとって離れたくない場所ではあるのだが、マリアは基本的に一人でいつも戦っている。
単独行動に慣れてしまっているマリアがはたして団体行動がとれるのか否か。
そんな理由もあって警察官にはなれないとマリアは自分で思っていた。
それにプラスして、やはり昔のことを思うと、マリアにとって他人というのは未だ恐怖の対象にもなり得る。
特に男性というのは、クロスベルへやってきて、己の過ごした異常な生活を異常だと思った時から、恐怖の対象だった。
支援課に所属するのも、このビルに他人がやってくるのも反対しているわけではないが、ただ、マリアは怖いのだ。そう思いながら無意識に、いつもは赤い瞳――右目にしている眼帯を膝の上でなでればセルゲイが心配のにじんだ小さなため息をついた。
「大丈夫だとはおまえに限っちゃ言えないがな。まあ、体調面の話だが。……人間的には俺の選んだ四人だ、心配しなくてもいい」
「……その言い方はずるいわ、セルゲイ」
俺の選んだ、なんて言い方、何も言えないじゃない。と小さくマリアはぼやく。
結局のところ、マリアはセルゲイに弱いのだ。
本当の父親の顔は、もうマリアは覚えていない。いつの間にかマリアの前からいなくなっていたため、実験か何かで死んでしまったのだろうとは思っているが、詳しく聞いたことはなかったしさして興味もなかった。
だからこそ、セルゲイはマリアにとって父親のような、兄のようなもので、つい言うことをききたくなってしまうほどに大切な家族だった。
「やっぱり私セルゲイと結婚したらいいのかしら。愛人でも全く問題はないんだけど」
「あと十年経ったら言うんだな」
「あら、私これでも結構一途なのよ? 十年後に期待していてちょうだいね」
一途なのは知ってるがな、とセルゲイは笑うとぽんぽんとマリアの頭をなでた。
明日が顔合わせだから早く寝ろと、子供扱いのようにも聞こえる言葉をあくびを噛み殺しながらセルゲイは言った。
セルゲイにしてみても、マリアは子供のようなものであり、大切な家族であることに変わりはない。
出会ったときがやせ細った幼い子供だったため、今でもマリアを子ども扱いする数少ない大人である。
もう何十分も前に日付は越えてしまっている。
早く寝ろというわりにはセルゲイもまだ起きているくせに、とマリアは心の中で思う。
けれどそれを言ってもセルゲイはまたマリアの頭をなでて終わるだろうことは、もうここ数年でマリアは覚えたことだった。
部屋に帰れ、というセルゲイに背中を押されながら、途中の階段まで一緒に戻りマリアだけ三階へと上がる。
明日から四人増えるらしいこの古い建物がにぎやかになるのがマリアは想像できなくて、しんと静まっている廊下を振り返ってから複雑な気持ちを抱えて自分の部屋へと入った。
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