ジェイドの記憶の中にある由良は、少女と女性の間を行ったり来たりしているような、よく笑い、奔放で、自由な存在だった。
はじめて人を殺したあとしばらく眠れなかったり、そのくせ命を奪うことに躊躇わなくなったと思ったら目を逸らしたくなるようなことでも逸らさずにいたり。
泣き出しそうなのに泣かない、ジェイドの目の前から消えるその瞬間まで笑顔でいるような目の離せない存在、だった。
「ジェイド、お酒飲まない?!明日おやすみだよね!?」
白く薄い生地の夜着に何も羽織らずジェイドの部屋にやってきた由良は、手に酒らしき瓶とグラスをふたつ持っていた。
目の前にいる由良は、数年前よりも髪が随分伸びて、そして成年の女性らしい顔立ちになっている。
思わず歳を聞いたところ「二十四くらいにはなったかも?」などと曖昧な返事をされた。
性格はそう変わっていないが、それ相応の、年齢らしい空気というのは身についているようだった。
にも関わらず、薄着で夜中に男の部屋にやってくるこの警戒心の無さは一体何なのか。ジェイドはため息をつくのを何とか我慢して、どうぞ、と由良を自分の部屋に通す。
やったー! などと嬉しそうに部屋に入ってくる由良に、仕方がないな、とジェイドは目を細めた。
もはや惚れた弱みである。一回り以上年下だった少女が二年経ってみれば成人してしばらく経っているのだが、由良に向かう感情は何ひとつ変わらないことにジェイドは笑う。
ルークが戻ってきたその日。由良も共にこの世界へと戻ってきたらしい。
ルークとは違う場所だが、この世界に戻ってきた由良は現状の把握のために己の足でダアト、キムラスカ、マルクトを歩きまわった。
最終的に、城を抜け出して酒場で顔なじみと酒をあおっていたピオニーにばったり会い、話に花が咲き、そしてピオニーを回収しに来たジェイドと再会するというなんともいえないものだったのだが。
「これジェイドが好きってお屋敷の人に聞いてね」
「強いものですよ。……グラスがふたつあるようですが」
ソファに座り、楽しげにグラスに酒をそそぐ由良に飲めるんですか、と視線で尋ねると、由良はうーん、と首を傾げてジェイドを見上げる。
しばらくそのままだったのでジェイドも由良の横に腰かけると、由良はぱっと頬を赤くして嬉しそうに笑った。
「お酒自体初めて飲むんだけど」
「……初めてでこれはやめたほうがいいですよ」
「ちょっとだけ! ひとくちだけでいいから!」
「もっと軽いものを持ってこさせたほうが」
「初めて飲むならジェイドの好きなお酒がいいなって思ってたからこれがいいなー……なんて……だ、だめ?」
「……」
まさに惚れた弱みである。
上目遣いで尋ねられ、ジェイドはぐっと喉の奥に言葉を飲み込んだ。ひとくちだけですよ、と返すだけで由良はまたぱっと顔を輝かせ、いそいそとグラスに酒を注いだり氷を入れたりしはじめた。
由良が消える前、お互いがお互いを好いているのは分かっていた。
言葉にしたことはなかったが、全てが終わったあとに聞いて欲しい話がある、と由良には伝えていたのだ。
その時の由良は複雑そうに、けれど嬉しそうに笑っていたため何も聞かなかったが、由良はルークたちと共に消えてしまった。消えることをわかっていたのだろう。
長かった二年を超え、我ながら馬鹿らしくなるほどに心変わりもせず由良を待ち、いざ戻ってきてみれば随分成長した由良が目の前に現れ。
十八だった少女は二十四の女性へと成長していた。
どこで何をしていたか詳しくは聞いていないが、別の世界を点々としていたというのは簡単には聞いていた。
その間ジェイドを想い続けるのは難しかったのではないか。もうこちらに気持ちは無いのではないか。──だから、誰にも会わずにいたのではないか。
そんな考えから慌てて由良を言いくるめ自分の屋敷に連れ込んだのだが、ジェイドも仕事が忙しく一週間時間が取れなかった。
そのための明日、ではあるのだが。ゆっくり話がしたいともぎとってきた休日である。
が、時々会う由良から向かってくる感情に、ジェイドはそれも杞憂だったのだとすぐに悟った。
今もまさに、可愛いことを言ってのける目の前の由良に、やめたほうがいい、なんて言葉は飲み込むしか無かった。
そういえばピオニーと話していた酒場でもアルコールではなかったな、とつい一週間前のことを思い出す。
別の世界で歳をとり、過ごしていたというのにこの警戒心の無さでよく無事だったものだな、と自分のグラスにちびちび酒をそそいでいる由良を見る。
贔屓目抜きにしても、人好きがする積極的な性格に、見た目も悪くない。
社交性もあり可愛げのある、と評価されてもおかしくはない性格だ。引く手あまたとまでは言わなくとも、何人か由良を本気で好いた人間がいてもおかしくはないだろう。
見た目で好きになられるタイプではない為、ジェイドが知らない間にやはり本気で由良を口説いた人間がいたのでは、と思うともやもやとジェイドの胸に鉛のようなものが溜まる。
が、その鉛のような感情の意味も理由も理解しているため、顔にその感情を出すことはジェイドはしなかった。
「はいジェイド! かんぱーい!」
ころん、とグラスの中で氷がぶつかる音がして、由良が楽しげにジェイドのグラスと自分のグラスを合わせる。
使用人からジェイドの好む入れ方も聞いていたのだろう、いつも自分で飲む時と変わらない様子の酒にふっと口元をゆるめた。
由良のグラスには一割酒、残りが氷かと思う程度しか入っていない。さすがに最初から同じものが美味しく飲めるとは思っていないようだ。
ジェイドにとっては慣れている味だが、由良にはどうだろうか。と思って横で舐めるように酒を口にした由良を観察すると、ぎゅっと目を閉じて「うぐぅ……」と何ともいえない顔をする。
予想通りの反応に喉の奥でくっと笑うが、由良は聞こえなかったのかそれどころではないのか、しばらくもごもご口を動かしたあとに「おとなの味すぎる」と呟いた。
「五、六年くらいじゃ追いつけないのかあ……」
「お子様はもっとやさしいものから試してください」
「そうする……あっでもいれた分は飲むから!」
由良のグラスを貰おうとジェイドが手を伸ばすと、そのグラスは由良側のローテーブルへと置かれてしまった。
さすがに届かない位置にやれやれとジェイドは肩をすくめる。
伸ばしたままの手をどうするかと思ったが、ふと、どんな反応が返ってくるかと由良の髪へと移動させてみる。
顔にかかっていた髪を耳にかけてやると、由良は驚いたようだったが、嬉しそうに「ふへ」と笑うだけだった。
離れ際に指で掠めるように頬を撫でると、ぱっと由良は頬を赤くする。
その様子に由良の気持ちの確認ができた気がして、安堵する。わざわざ休みの前日に訪ねてくる程の何かがあるのかと思っていたのだが、単純に話したかったか、顔が見たかったのだろう。
「それで? 話したいことがあるのでは?」
「ん? んー……でもそのために明日一緒にいてくれるんだよね?」
「そのつもりではあります」
今まで何をしていたか。どこでどう過ごしてきたのか。そんな話を聞かせて欲しいとはジェイドから言っていたのだ。
一応毎日顔を見るようにはしていたのだが、変わりなく由良は毎日そこにいた。また消えるのではないかとジェイド自身不安だったのもある。
由良もそうだったのか、ジェイドのいない一週間は屋敷の中でおとなしく……はないが過ごしていたようで、既に使用人たちとも打ち解け、お客様、ではなく「由良様」などと呼ばれているのもジェイドは見かけていた。
好きに過ごさせてやってほしいとだけ伝えていたのだが、使用人の仕事を手伝うまではいかずとも似たようなことをして過ごしていたようである。
庭園で花の世話を庭師と行い、調理場で下ごしらえを共に行い、買い出しにメイドと出かけてみたり。
貴族でもなく、けれどいなかった数年で一般市民のような雑さよりも品のほうが目立つ振る舞いになっていたせいか使用人達に気にいられるのは早かったらしい。
「ちょっと聞きたいことがあったんだけど……えへ、なんか聞かなくても分かっちゃって安心したからどうでも良くなっちゃったのかも!」
言いながら、ジェイドが反応するよりも早く由良がソファの上でジェイドに近づいた。少し距離をあけて座っていたのだが、ぴったりとくっつくようなそれにジェイドのほうがきょとんと由良を見つめることになった。
由良は由良でじっとジェイドを見上げて反応を伺っていたようだが、特になにも反応しないジェイドに首を傾げる。
「この距離いや?」
質問の意図と、由良のいう聞きたかったこと、がなんとなくわかって、ジェイドは目を細めた。
結局のところ由良も不安だったのかもしれない、と。執事から上がった報告に「由良さまに旦那様の婚約者や恋人の有無を聞かれましたが」というものがあった。
気持ちの変化でも疑われているのかと思ったが、年数は違えど数年離れていて感じる気持ちは同じだったということだろう。
「もし嫌だったら、そもそも部屋には入れませんし、見つけても言いくるめてまで連れて帰りませんよ」
この答えで分かるだろうか、と由良へ視線を落とすと、由良はぱあっと笑ってジェイドに抱きついた。
慌ててグラスをテーブルへ置き、無意識ではあったが引き寄せるように由良の肩へ手を置く。
「……本当に、警戒心をあなたはどこへ忘れてきたんですか? 昔の方がまだマシだった気がしますが」
「あのね、聞いて! 好き!」
「……、知ってますよ」
急な、でもないが、突拍子もない告白にジェイドは面食らう。多少しんみりした空気ではあったが、あまりにも元気な告白すぎてその空気も霧散した。
自分もだと返せたら良かったのだが、謎の意地が邪魔をしてそれしか返せず。
「最初に会いに来なくてごめんね。それと、えっと、久しぶりにジェイドの匂いするの落ち着くでしょ……あっ相変わらず顔がいいし、待っててくれてありがとう! 抱き寄せてもらって正直今すごいどきどきしてる! このまま離れるの惜しいなって思ってるし……ええとあとは好き……は言ったし」
「由良」
もはやめちゃくちゃである。浮かんでくるものを必死に言葉にしているのだろうが、警戒心どころの話ではない発言もあった。本人が無自覚なのかは分からないが、とりあえず落ち着けようと胸に顔を埋めている由良の肩を持って優しく離す。
由良はええとええと、と唸っていたが、ジェイドと目が合うなりくしゃりと顔をゆがめて、泣きそうになりながら、それでも笑う。
「た、ただいま……会えて良かったぁ……!」
最後は涙声でしっかり聞こえなかったが、そのまま由良はジェイドの首に縋るように抱きつくと、会いたかった、とぐずぐずに泣きながら小さく言った。
帰ってくるのかわからない由良を待ち続けた二年も中々にきつくはあったが、帰れるか分からず何年も過ごしてきた由良の不安を思うと、ジェイドは自然と由良を抱きしめていた。
幼子にするようにぽんぽんと背中を撫でてやると、ますます泣き出す由良に感じるのは愛しさだけだ。
「おかえりなさい、由良」
言いながら、あやすように頬に唇を寄せる。涙を追うように目元や顎へそれで触れていくと、潤んだ由良の瞳と視線が絡む。
期待しているような、不安そうな、置いていかれそうで怖がっている子供のような。
指で頬を最後に伝っていった涙のあとを優しく擦り、その指を由良の唇へ持っていってジェイドは目を細めた。
「嫌なら抵抗してください」
唇をなぞるように親指で撫でれば、由良は安心したように、涙で濡れた瞳を閉じる。
ぎゅ、とジェイドに抱きついていた腕に力が入り、抵抗する気はさらさらないらしかった。
それに言いようのない高揚感を覚え、至近距離で目を閉じている由良を少し眺めた後、そっと唇を合わせる。
嫌がる気配も逃げる気配もなく、そのまま角度を変え、何度も啄むように触れるだけのキスをする。
その間にゆっくりと由良をソファへ寝かせるように倒すが、由良はいっぱいいっぱいなのか気づいていないようだった。
ちゅ、と最後に音を立てて、由良の顔の横にジェイドは手をついた。
そこでやっと押し倒されていたことに気づいたらしい由良は「い、いつの間に」と息を切らせながら呟いている。
紅潮した頬に、先程とは違う意味で潤んだ瞳。じっと見下ろせば、少しだけ焦ったように由良はオロオロと手をさ迷わせ始めた。
「こうなることも、この先にすすむことも予想して、次は夜に訪ねてきてください」
まるで子供に聞かせるような声音になってしまったが、それも仕方がないことだろう。警戒心をどこかへ忘れてきた由良である。そもそも持っていたのかも怪しいが。
とりあえず避けるか、と思い手を上げようとしたが、そのジェイドの手は、ジェイドが動かすよりも由良に捕まる方が早かった。
きゅ、と握られた手に首を傾げると、先程よりも真っ赤になった由良がジェイドを見上げていた。
「そっ、そういう覚悟は携えてきてますけど!?」
「──あなたは本当に、警戒心をよその世界へ置いてきたんじゃないんですか?」
「ジェイドに対してはいらないから、持って帰ってきませんでした!」
むっと頬を膨らませた由良に、ぎゅーっと心臓が鳴る。年甲斐もなく、妙な由良の喧嘩腰の言葉にときめいてしまったらしい。
自分自身のツボがわからず混乱するが、はぁ、とジェイドは息を吐く。とりあえずこちらが余裕を持たないことには、と一度頭の中を整理した。
「多少は持っていたほうがいいですよ。私も一応は男です」
「だったら……、警戒心を持ってない私が今ここにいるのに、なんにもしない?」
煽っている自覚があるのかないのか、由良は少しだけ眉を下げた。確かに胸はないけど、と由良が小さく呟いたがそういう問題では無いのだ。
そもそも明日一日一緒にいる予定で、今夜無理をさせるつもりはジェイドには毛頭なかった。
話を聞けばもうどこの世界にも飛ばない、とローレライにも言われたと言っていたし、急ぐ必要を感じていなかったというのもある。
まあいずれ、由良の気持ちがこちらにあるのならそういうタイミングは巡ってくるだろう、くらいにしか思っていなかった。
この世界に由良という存在を繋ぐ必要がなくなったのだ。なら今は、由良には好きなように過ごして、自由に動き回り、きっとずっと休まる暇もなかっただろう心をしばらくは休ませて欲しい。そう、思っていたのに。
「あなたが思っているより、男は単純な生き物なんですよ、由良」
「……ジェイドも?」
尋ねられ、ジェイドは少し逡巡したあとに眉を下げて片目を手で覆う。
「……そうらしいですね。私も単純なひとりですよ」
聞くなり、パッと由良は顔を明るくした。そのままの表情でジェイドの首に手を回し、引き寄せるように抱きつく。
無意識にジェイドも由良の腰を寄せるように抱きしめると、由良はふふふと嬉しそうに笑った。
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