わたしがちいさなころ、両親は他界したらしい。そもそも両親の顔も思い出もわからないわたしにとって、物心ついた時から両親、という存在は遠いものだったし、わたしの生活の場は身寄りのない子供の生活する施設だった。それ以外の生活を知らないし、施設での生活はまっとうで、当然のものだと思っていたのだ。
「学校来る意味なんてないじゃん!」
「キモーい!」
そう言い残して走り去っていくクラスメイトの声を聞きながら、わたしは夕焼けに染まる屋上、ぼろぼろに引き裂かれた体操服を見ながらため息をついた。着ている制服はびしょ濡れで、わたしのいる場所のまわりだけ大雨にでもあったように床も濡れている。転がっているバケツと、放り投げられた鞄は少し遠くに落ちていた。
いじめ、というものをされだしたのは、入学してすぐだったように思う。見た目、しゃべり方、その他いろいろなものを含めて、わたしは"いじめてもいい"人間だと判断されたのだろう。
真っ黒で伸び放題の髪はふたつに常に結んでいる。前髪も顔を覆うくらい長くしていて、おまけに黒ぶちの眼鏡もかけている。スカートも長くして短くすることはないし、一年中タイツをはいているわたしは、きっとクラスメイトたちにはおかしく見えたのだろう。見えるのだろう。もちろんその自覚はあるし、それを、いまの状態を変えるなんていうのは、おそろしくてできそうにもない。
施設に入って何年か経って、そこで暮らすのが普通だと思っていた小学校高学年の時、施設の先生がかわった。優しい女性の先生から、優しそうな男性の、四十代くらいの先生へ。他の先生も何人かいるけれど、その先生だけはわたしを見る目が少し居心地悪かった。
その先生がいる時だけ、妙なぞわぞわした気持ちになって、わたしは施設へ帰るのを遅らせることがあった。そのたびにその先生はわたしを心配してくれて、手を引いて部屋まで連れて帰ってくれて。怪我はないか、体調が悪いところがないかとひどく心配してくれたのだ。
それが何度か続いた時、こんなに優しい先生に、どうしてわたしは会いたくないと思うのだろう、と疑問に思った。小学生の自分を心配するおとな。それは、まっとうなおとなの反応で、今までこの施設で会ってきた先生たちとなんら変わりのない、理想のおとなだったのだ。
そう思ってからは、わざと遅れて帰ることもなくなって、だけどその先生はことあるごとにわたしの心配をしてくれる、いい先生だった。
元気がないときは励ましてくれて、テストの前だといえば、先生が夜勤の時に勉強を見てくれて。ほかの子にもそうしているのだと思っていたからこそ素直に先生の厚意に甘えていた。
そんな生活が続いて、私が中学二年生になったとき。親がいないと、いじめられるようになった。きっかけは本当に自分でもわからないほどのもので、ただ親がいないだけでいじめられるようになったのだ。
最初は隠していたけれど、その先生だけがわたしの変化に気付いて、励ましてくれていた。学校に行きたくないというわたしに、人の顔が見にくくなるからと伊達だけど眼鏡をすすめてもらった。前髪も伸ばして顔を隠せばいいのだとおしえてもらった。言う通りにすれば、たしかにまわりの視線は気にならなくなったけれど、いじめがなくなることはなくて。
それは、テスト前だったかもしれない。その日は少しいつもと違って、クラスメイトに手をあげられた。といっても見えない場所で、お腹を蹴られただけのことだったのだけど。
はじめて蹴られたお腹はいたくて、そんなことをされたのがショックで、わたしは勉強を教えてくれるという先生の部屋にいってずっと、泣いていた。
先生はそんなわたしを抱き寄せて慰めてくれていたけれど、怪我を見せて、手当をするからと言われて、先生が優しく笑った。
それに「おなかだから」と見せるのを渋れば、先生は優しい顔のまま「ひどくなってもいけないから」とわたしの上着に手をかけ、一気に胸のあたりまで上着をめくってじっとわたしを見つめていた。
押し倒されるような形になっているわたしを先生はしばらくじっと眺めていたのだけど、ぽつりと「ああ、ひどいな」とつぶやいて、あざになっているのであろうわたしのおなかを指でなぞる。
「全身あざだらけじゃないか」
「え……、せ、せんせい、あの、蹴られたのは、おなかだけで」
ほかはなにもされてない、と伝えようとすれば、先生はめくったわたしの腹部へと顔をよせると、あざとは別の場所をつよく噛んだのだ。
驚いて逃げようとしたけど、先生に腕を押さえられていて、足は先生の体でおしつけられている。身動きできない状態のまま、だけど逃げようとじたばたしていれば、イライラしたように先生が「暴れるな」とぴしゃりと私の頬を打った。
そこからはあっという間で、抵抗する間もなくわたしは叫ぶことも許されずその部屋で永遠に続くような気持ちだった一晩を過ごすことになった。
それ以来、わたしは先生の部屋に呼び出されることが増えた。テスト前だけではなく、先生が夜勤のたびに毎回。勉強道具を持ってきなさい、と都度言われるのは、わたしがこの施設で唯一中学生で、最年長だったから勉強を見るという体だったのだろう。結局、先生の部屋にいったところで行われる行為というのは、欲のはけ口にされるだけのこと。
そのうちその行為は昼間にも至って、小さな子たちが外で遊んでいる時の倉庫。トイレ。誰が入ってくるかもわからないわたしの部屋。
足も、腕も、おなかも、きっと背中も。服を着ても見えるところにいくつもある小さな赤い痣を隠すためのタイツに、先生の顔も、だれの顔もみないための眼鏡と長い前髪。
もう、この生活が異常なのか正常なのかさえまともに判断できなくなっている。ただ、施設に帰るのが嫌だった。ただ、学校にいるのも嫌だった。
真っ赤にそまる夕焼け空を髪の毛と眼鏡の間から見ながら、ため息をつく。ふらふらと屋上の端、フェンスまで歩いて行って、眼鏡をはずした。
高校は、寮のあるところへ行きたかったからこの学校を選んだのに。先生に却下されて、激怒させてしまって、結局わたしは施設を出られないまま。挙句、わたしが寮を出ていくのなら年下の子を、わたしのように扱うと、言われてしまった。そんなの、させられるわけがない。
目を閉じていれば終わるようなものじゃない。頭の中も、体も、全部がめちゃくちゃになっていく。自分がどこにいるのかわからなくなって、苦しくて、怖くて、何も考えられなくなって、気持ち悪くて。永遠に続くんじゃないかと思うくらいの時間を、あの子たちに体験させるわけにはいかないのだ。
「……か、かえらな、きゃ……」
ずぶ濡れの制服のまま裏口から入れば、きっと気付かれないだろうと思う。静かに着替えて、何食わぬ顔をして夕食の席につけばいいだろう。――今日は、せんせいが夜勤の日だ。
ずし、と、胸の奥に何かが溜まるような感覚になる。帰りたくない。帰らないと。ここにいたくもない。でも。
校門を見れば、ちらほらと楽しそうに帰っている生徒が見えた。そうだ、わたしも、かえらないと。
「綾瀬?」
かつん、という足音と、その声にわたしはハッと顔をあげた。そこにいたのはクラスメイトの男子生徒――唯一わたしと話を普通にしてくれる、喜多川祐介くん、だった。こんな時間まで学校にいたのか、とか、どうして屋上に、とか。いろいろと思うことはあったものの、自分がびしょ濡れなことと、眼鏡をしていないことを思い出して慌ててうつむいた。そのまま眼鏡をかけて、ぼやける視界で小さく謝る。
もつれる足で遠くにある鞄をひろえば、喜多川くんは逃げようとした私の手首をつかんで「待ってくれ」と優しく言った。
喜多川くんは、完全に善意だったのだと思う。手首をつかんだのも、わたしの様子があまりにおかしいから引き留めてくれたんだと思う、けど、触れられた瞬間、ぞわりとそこから肌が粟立つ感覚がして、まるで縛り付けられたみたいに固まってしまった。
びしょぬれなのに、とか、喜多川くんがわたしに触ってる、だとか、気持ち悪いって思われないかな、とか。そんなことも多分思っていたと思うけど、それよりも先に、恐怖で動けなくなる。
カタカタと歯の根があわなくて、心臓がバクバクうるさい。わたしの様子に驚いた喜多川くんは、だけど手首はもったまま「すまない」と言うと、それからゆっくり私の手首を離してくれた。
先生とは違う、骨ばった、細くて大きな手はゆっくりと私の手首から離れて、細い体の横へとたれる。そっと髪の毛の間から喜多川くんをのぞけば、彼は、まっすぐすぎるくらいに、わたしを見つめていた。
「その、話が、あるんだが」
ゆっくり、一言一言をしっかり届けてくれるように言われる。話が、ある?喜多川くんが?
喜多川くんは、わたしになんの臆面もなく話しかけてくれる。いじめられていようといまいと、彼はきっとそんな人なんだと思うのだけど。なんというか、独特な世界を持った人だった。
今までいじめを見かねてわたしを気遣ってくれた人はいたものの、その人たちはみんな孤立したり、いじめにあったりして、わたしに近づくのをやめた。だけど、喜多川くんは、なんというか、そういう、わたしをいじめている人たちからは攻撃をされなかったのだ。
最初は隣の席だったから、よく話してくれたんだと思う。それに、同じ特待生というのもあったとは思うのだけど。同じ美術を専攻してるのもあって、本当に、わたしが挙動不審にしていようが、根気よく話しかけてくれていた。
喜多川くんは、とてもきれいな人だ。だから、わたしを気にするのが気に入らない人たちはもちろんいて、その人たちから何かされようと、喜多川くんはのらりくらり、きっと素なんだろうマイペースさでそれをかわしてしまっていたから、いじめにあうこともなかったのかもしれない。
だからこうして二人で話すことは珍しくなかったけど、こういう時に、喜多川くんがあんな目をしてわたしに話しかけることは、今までなかった。話すのはいつも他愛のないことだった。わたしが返事ができないときもじっと待ってくれる喜多川くんは、どこか浮世離れした雰囲気だったけど。
もう一度、喜多川くんを見る。ぼやけてそこまできれいには見えなかったけど、それでも、何か、今までとは全然雰囲気が違う気がした。
まるで、このまま喜多川くんの話を聞けば、今の自分が、今のわたしの環境が、足元から崩れて行ってしまうような。そんな気持ちにさせられた。
「あ……あの、ごめん、なさい。今日は、早く帰らないと、怒られちゃうから」
下の子たちの面倒も見ないといけないから、となんとか言えば、喜多川くんはじっと何かを見定めるかのようにわたしを見て、それから少し悩んだように顎に手をあてた。
「……俺も、行ってはだめだろうか?子供たちの世話をしてみたいんだが」
「……えっ?し、施設に?」
「部外者は立ち入り禁止なのか?」
そういうわけではない。友達を連れてきている子もいるし、中学生の女の子は、友達を連れてきて部屋で勉強していたりする。だから、ダメではないけど、今日は。
言葉につまるわたしを、喜多川くんはじっと見ている。何かを見定めるかのように、何かを探るように。
そんな風に見つめられるのは初めてで、無意識に心臓をおさえる。落ち着かなかった。
「きょ、今日は、ご、ごめんなさい」
「明日は?」
「え、えっと」
珍しく、喜多川くんの押しが強い気がした。そんなに子供が好きなんだろうか?それとも、絵の題材に困ってしまっている?ああ、でも、それならありうるかもしれない。要はスランプなのかも。だから子供と接して、何か手に入れようとしているのだろうか。
わたしによくしてくれる喜多川くんのお願いなら、別に施設に連れていくくらいは大丈夫だと思う。けど、今日は、先生がいる。他の先生ならいいかもしれないけど、もし、今日喜多川くんを施設につれていったのを見られたら。
そこまで考えて、頭を振った。震える手をぎゅっと握って、うつむいたまま「明日なら」と伝えると、喜多川くんは少し安心したように「そうか」と一言。
「なら、明日、お邪魔してもいいだろうか」
「う、うん。だいじょうぶ、です」
明日は先生は休みだから問題はないと思う。なんとか会話を終わらせることができた達成感と、早く帰らなきゃいけない気持ちをおさえながら、わたしは喜多川くんにぺこりと頭を下げた。帰らなくちゃ。早く帰って――。
「……すまない」
「え?」
頭をあげた瞬間に言われて、一体なんのことを言われたのかわからずに喜多川くんを見上げたら、喜多川くんは申し訳なさそうに眉を下げていた。
「タオルの一枚でも貸してやれたらよかったな」
なにぶん持っているものが今何もない、と喜多川くんはなぜか肩を落として申し訳なさそうにした。
むしろ屋上にくるのに部活をしていない喜多川くんがタオルを持っているほうが驚いてしまうけど。という言葉は、なんとかわたしは呑み込んだ。
20180725
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