最近、何となく気になる存在がいる。何が気になるか、と言われてもよく分からないけれど、何となく。何となく気になる存在だ。彼は良く話しかけてくる、と思う。隣の席だから。それだけにしてはやけにその視線が熱っぽいから。そんなに見られたら嫌が応にも意識してしまう。その視線の意味することを私はよく知っていた。もっと鈍感であれば良かったのかもしれないけど、どうにも私の生きてきた環境がそうはさせてくれなかった。こんな目をした男を何人も見てきた。自分の容姿が視線を引き寄せるものであると、この年になれば自覚している。いつものことだ。いつものことなんだから受け流せばいい。きちんと線を引いておけば大丈夫。そのはずだった。私が気になってしまうのはこの男の視線がいつもと少し違ってみえるから?それとも。「この男」だから?後者と認めたくなくて、私は抗っているのかもしれない。おかしいな、あのバスケ部の先輩の顔がタイプで、友達と騒いでいたのに。何故か見てしまう。じろじろ不躾にみていると、この男の顔も整っていることに気付いて、もしくはそう思い直してしまう。私はある程度親しくなった人の眼を見てしまう癖があった。目の形とか、瞼ではなく、瞳をじいっと見るのだ。黒い、けれど光に透けてグレーにも、ヘーゼルにも見える。まっすぐな眼だと思う。前に向いていたその瞳がこちらを見る。
「なに?どうかした?」
そう聞いてくる声色がいっとう甘く聞こえる。元来荒い性格でもないのだろうが、私に対する声が特別優しくなるのを私は知っていた。
「…なんでもないけど。眼、見てた」
「目?」
「ごめん、じろじろ見て」
「良いよ、別に。俺も見るから」
ちょっと笑った顔が好きかもしれない。どこに視線をやるべきか分からなくて、彼の視線から逃げるように前を見た。どうも自分のペースが崩されている。今までこんな気持ちになったことがないから。彼の言動に、というより、それに伴って揺れ動く自分の感情にどうも戸惑って、動揺していた。でもこれを伝えてしまったら白旗を揚げることと同義なため、誰にも言えなかった。誰かに言ってしまいたかった。この気持ちを吐露すればずっと背負っていた荷物を下ろすような、そんな気がした。そのくせ、この気持ちを誰にも言いたくなかった。私の感情を誰かに話すと、もう私の手から離れていってしまうようだった。この男が魅力的であることも、もう認めざるを得なかったから、この男の話を誰かにしたくなかった。ふたつの相反する感情が私の中を渦巻いて、引き裂かれてしまいそうだ。
きっかけは思い出せなかった。いつからか気づかぬ間に私の日常に侵食して我が物顔で居座り続けた。
(なんなのよ、もう)
何に腹が立っているのかも分からず、その原因である男に怒りの矛先を向けるしかないのだ。あたっていることに自分が気付いているからこそ、余裕そうに受け流す彼がさらに憎らしくて、という悪循環だ。どうにも素直になれない要素しかないのだから。
授業中、寝ているのかと思えば案外真面目に聞いているようだった。実際には聞き流しているだけかもしれない。彼が成績の悪い生徒だった印象はないから、それなりに聞いているのかもしれない。部活に割と取り組んでいるようだから、疲れて勉強は二の次かと考えていたのに。前の席のサッカー部は思いっきり突っ伏して寝ているから。おかげさまで視界が開けているのであまり油断ならない。黒板が見えやすいことはメリットだけど先生からも目を付けられやすいのはデメリットだ。いつの間にか運動部男子の基準が前の席の彼になっていしまっていたせいで、その姿勢が意外に感じたのだ。背筋が伸びている。私は猫背だから姿勢の良い人が少し羨ましかった。そういう人は自信があるように見えるから。私も自信がないわけではないはずなのに、嫌な自信の持ち方をしてしまっているせいか、誠実で実直な印象とはかけ離れていた。ぼーっとそんなことを考えてシャーペンを回していたら、ふいに手から離れてしまった。あ、落ちる。かしゃん、と大げさな音をたてて床に落ちた。この時間は寄りにもよって静かな授業で、こういった授業の妨げとなる音が嫌いな先生だったから、一瞬にして肝が冷えた。その一瞬で周囲の視線が刺さることが分かった。大きな音が嫌いだった。もっと言うと人からの視線が集まることはもっと嫌いだった。自分が悪いのだけれど、悪いと分かっているからこそ、嫌な気持ちだった。はぁ、とも、ふぅ、ともとれるような息を一息吐いて、拾おうとした。そう、私はちゃんと拾おうとしたのだ、と弁明させてほしい。ただ少し、拾うのが億劫で、気持ちをいれるのに時間がかかっただけなのだから。
「はい」
「…ありがとう」
彼がさっと椅子を引いて立ち上がると、あっさりシャーペンを拾って私に手渡してきた。短くお礼を言ったあと、私は唖然とした。いちいち考えて悩むなんてことなく、行動したことに。面倒くさいとかじゃない。面倒だとは思ったかもしれないけれど、人に見られるな、とか、いろいろなことに捕らわれて動けない私に比べてなんて自由なんだろうと思う。はたから見たら本当になんてことはない、本当に何でもないのだろうけど。今この瞬間、私は白旗を揚げざるを得ないと思った。
「さっき、ありがとう」
「ん?あーどういたしまして」
「認めるよ」
「え?」
「私の負け」
「……何が?なんか勝負してたっけ」
だいぶ訝しそうにしていたが、知らないふりをした。にこにこ笑っておいた。困った様子を見るのは楽しかったから、多分素で笑っていた。彼は困った笑みを浮かべていた。けれど次第に私があんまり楽しそうにするからか、まあいいか、と思い直したようだった。私は、彼が私の笑顔に弱いことを知っていた。
楽しそうね、と友人にも母親にも言われた。そう見える?となんでもないように返したけれど、本当はとても驚いていた。別に何が変わったわけじゃない。私の中で、私自身に意地を張るのをやめただけだ。たったそれだけのことで周りからすっきりした印象になるなら、初めからそうしておけばよかった。悩みを一つ解決した私は他人の目から見てどうにも魅力的に映るようだった。誰かに好かれたいわけでもなく、垢抜けたいわけでもなかった。結果としてそうなってしまっただけだ。だから、きちんと伝えておきたい。私は色目を使っているわけではないんだと。新しいことに挑戦したくなって、髪形を変えたり、ちょっと自分の気分を上げる行動をしただけだ。
「調子乗ってない?」
直接言われたわけじゃない。今までも私を表立って攻撃する奴はいなかった。分が悪いから。いじめてしまえば自分が悪者になってしまうから。けれど私の悪い噂を流したり悪口を言うことはバレなければ問題ない。そういう考えが透けている。そういう空気ばかり読むのが得意になってしまったから、私は異性との会話を極力減らしていた。だからって減るものではないが、状況を悪化させるよりはいくらかマシだろう。この状況に慣れれば飽きて別の話題を口にするだろうから。そう、慣れるまでは息を殺して生きるのだ。私を変えたきっかけと話すことなく。白旗をあげたのに、降伏することができない。
「おはよう」
「はよ」
変に距離を開けたくなくて、挨拶することだけ続けていた。私から挨拶する。これだけ。初めは少しだけ物珍しそうにしていた彼も、今では慣れたように挨拶を返す。つまらないな、と思う。私は彼が動揺するところを見たかった。その原因が私であれば尚良いと思った。こういう行動が、反感を買うと知っている。誰にも彼にもするわけでなかったとしても、思わせぶりなことをする女は、女から嫌われる。だからこれ以上のことには踏み出せない。彼がなまじ人気のある人で、私が周囲を気にする人だから。
それでも私は希望を捨てられずにいた。ついこの間まで浮かれた様子であったのに、すぐに元の様子に、それどころかもっと息を殺すように過ごす私の様子を、この男が見逃すはずがないだろうと考えていたからだ。それは相手依存で、全く無責任な考えだ。分かってはいた。分かってはいたんだ。彼が私を救ってくれれば御の字であるし、私のこのオヒメサマ思考を咎めるなら、それはそれで変われるきっかけになれそうだった。そう、この考えもまた、彼にすべてを委ねていた。自分の気持ちに開き直った結果、惚れた相手にすべてを押し付ける、とんでもない生き物に成り下がった。ただ、そのことだけは、彼のせいにしたくはなかった。彼のせいではない、絶対に。私の醜い内面のせいだ。この内面もまた、彼に見透かされたくはなかった。