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ネロに着いていくように中央の国へ移住してから、私はよく街に出て、歩きながら辺りを眺めることが多くなっていた。元々、たくさんの場所を転々としてきた私は、初めて訪れた場所の地理をこうして把握することが多かった。ここ百年近く、ネロと共に過ごす中で家に引きこもりがちだったのを取り戻すかのように連日歩き回った。毎日毎日、三品る顔が道を通れば、町の人たちも自然と私の顔を覚えたようだった。店で買い物をするときに親切にしてくれる人間も多かった。予想外だったのは、やって来て間もないころに、ブラッドに再会したことだった。
「あ」
「あ?」
ブラッドがこの町にいるのは、少し考えれば当然のことだ。彼は賢者の魔法使いであるから。もちろん、これはつい最近に知ったことである。ネロを見に行った叙任式の日、あのとき確かにこの男もいたのだ。世界一の男であるオズやミスラがいたことにも驚いたけれど、それ以上に。この男がいたことは驚きだった。だってネロが何も言ってこないから。そのことに対して驚いていた。彼らの間では何かしら会話があったかもしれないけれど、私の知るところではなかった。ネロが話を切り出さない限り、私が言うことは何もないだろうと、あえて触れることはなかった。彼らの問題は、彼らの中で解決するしかない。
「ナマエか。久しいな」
「ブラッド。思ったより元気そうで安心した」
なんだそれ、と笑う彼はあのときから変わりなさそうだった。私はネロの話題を振るか少し迷って、言わないことにした。
「お前は最近どうしてる」
「多分、変わらず。……その質問、なんだか年寄りみたいね」
彼も初めは言わなかった。彼とは行動範囲が被るらしく__魔法舎の近くで暮らしているのだから当然だが__これ以降も何度か遭遇したが、私と二言三言交わすだけ。すぐに別れていた。何度目だったか、片手数えられなくなるころ、彼がしびれを切らしたように話を振ってきた。
「ナマエ。ネロはどうしてる」
「……ブラッドの方が知ってるんじゃないの?魔法舎で過ごしているんだから」
「まあ、普通に考えるならな」
ネロは魔法舎ではブラッドとの関係を隠しているのだと言った。それは自然なことだった。ブラッドはこうして自由がきいているが、本来は罪人であるし、ネロだってそうだ。ブラッドの質問の意図するところは、ネロから何か聞いていないか?ということだったが、生憎、彼は盗賊団時代のことを思い出話として語ることはしなかった。多分、彼は私がブラッドの話をするのが好きじゃないのだ。
「知らない。彼、私があの頃の話をするの、多分好きじゃないから」
「…まあ、そうか。そもそもあいつ、人のものを欲しがる性質(たち)でもないしな」
ブラッドは、「じゃあやっぱりこれが見つかったら、怒るだろうな」とひとりごちていた。
「そうかもね?でも私、ネロの魔法舎での様子が知りたいわ。ね、お願い」
私は昔のように可愛い子ぶって彼にねだった。
「知るかよ。…と言いたいところだが、まあ、いいか。その代わり、ナマエがあいつといた時のこと聞かせろよ」
私たちはこの場にいない男たちの会話ですっかり盛り上がるようになった。彼もまさか自分がここでダシにされているとは思うまい。ブラッドとはそこから何度か邂逅した。待ち合わせたわけじゃない。たまたま会えば少し話す。私と彼はその程度の関係だった。
そんなある日、必然ともいえる出来事が起こる。ネロが私たちと鉢合わせたのだ。ネロは初めから恐らく怒っていて、私はブラッドと彼を引き離すことで精一杯だった。とにかく私の家へ帰れば大丈夫だろうと。ブラッドと会ってしまったのが良くなかった。二人でいれば自然と戻るはずだ。彼だって私を憎からず思っているのだから。完全に高を括っていたのだ。家へ帰るなり、何か行動を起こすと思ったのに、彼は静かだった。ご飯を食べるか聞いても、これから食べるから、と断られてしまった。風呂を借りてもいいかと聞かれたのでそれに是と答えれば、彼は何も言わずに風呂場へ消えていった。そわそわしながら彼が上がるのを待って、そうしたら彼が「ナマエも入れば?」と促してきた。これは多分、シャワーでも浴びて互いに頭を冷やそうという意味だと受け取り、私もその言葉通りに風呂を済ませた。彼はベッドの上に腰掛けており、私を待っているような雰囲気だった。てっきりダイニングで話すと思ったのだが、違ったらしい。彼は私を手招くと、その誘導の通りに私もベッドに座る。そうして彼が口を開いた。彼は変わらず静かだったが、変わらず、静かに怒っていた。
「なあ、ナマエ。さっきの、説明してくれよ」
「さっきのは…彼にはたまたま会って話しただけで」
「そんなに積もる思い出話でもあったか?」
ネロのことを話していた、と言っていいのか一瞬迷って言い淀む。これが良くなかった。
「はっ、そうかよ。いいぜ、別に。……ナマエは俺“だけ”愛するなんて約束しなかったからな。俺がそう思い込んだだけだ」
だが、あのときの約束の文言をここで責められるとは思ってもみなかった。
「"だけ"って…私言わなかった?」
「言ってない」
「でも思ってたし。魔法使いは心が大事だから」
「約束は、話が別だろ」
「…そうかなあ」
「そうだよ。だからナマエは俺以外の夫は持てないが、夫にしなきゃいくらでも他の男を愛せる。でも残念ながら俺のことも愛し続けなきゃならない。あのとき約束したろ」
「ネロ」
「分かってる。ブラッドの女じゃない、なんて方便だ。俺にはナマエを止める権利もない」
「ネロ、もうやめて」
「勝手に他所で男作ってこいよ」
「やめてってば!」
私が叫んだことで暫く静寂が生まれる。
「…言い訳ならよしてくれ。聞ける気分じゃない」
「違うの、ネロ。違う……」
私はあまりの誤解に、とうとうどうしていいか分からず、途方に暮れる気分だった。そうして頬に一筋の涙が零れた時、「泣きたいのはこっちだよ」と吐き捨てる声とは裏腹に、彼が少し震える手で私の頬を拭った。
「…約束したっていいわ」
「……いい、しなくて。悪かった」
彼は私を抱き寄せて、それ以上何も言わなかった。抱きしめる腕の力がだんだん強くなっていくのを感じながら、私も何も言わなかった。私たちは、互いへの愛情が有り余って、信用が足りていないのだ。多分、私も彼も、ブラッドのことはもっと信用している。唯一の伴侶よりもずっと。
幼いころ、愛は美しいものだと思っていた。何にも代えがたく、それがあるだけで幸福であるような。実のところ、そうではないと気付くまで、私は一体いくつもの年月を要しただろうか。人間よりもはるかに長い寿命は、私に迷いを生じさせ、回り道をさせている。
ネロは日が暮れる前に魔法舎へ帰っていった。それからしばらく、彼が私のもとを訪れることはなかった。
***
ネロに会わなくなってから、どれくらい経っただろう。長くても一週に一度は顔を合わせていたはずだが、ここ一月ほどは彼と会っていない。部外者の魔女である私が魔法舎を訪ねるのも、なんだか他の魔法使いたちに悪いような気がして憚られた。その矢先に、ブラッドに会った。今度は偶然ではなく、私を探していたようだった。
「なんでネロに会わねえんだ?」
開口一番にそれか、と少し気分が滅入ったものの、「ネロが帰って来ないから」と簡潔に答えた。
「私が魔法舎に行くわけにもいかないし」
「理由は?」
「部外者の魔女が予告もなしに行くものじゃない」
「…あいつは何で帰って来ないと思う?」
「……嫌になったのかも、私が。でも良いの。だからって彼が他の女と関係を持つわけでもないし。それが分かってるなら、…良いの。いつか、気が向いたら帰ってくるでしょ」
「本当に?」
本当に?本当は嫌に決まっている。ずっと一緒にいたのだ。そんな急に彼と離れて過ごすなんて、うまくいくはずがない。彼と出会う前__正確には彼と再会する前ならそうできただろう。私に別れはつきものだった。今はもう、知ってしまった。彼と離れて、上手く生きる自分が想像できない。いや、きっと生きられるはずだ。私も彼も。でも互いがあった方が、ずっと、豊かに暮らせるはずだ。彼との生活は、以前より少しだけ、息がしやすい。
「……嫌に決まってるでしょ。でも彼が嫌なら、もう、」
彼が帰ってきたって、それは根本的な解決策ではない。きっと私たちは同じような結末を辿るだろう。それはもう、どうしようもないことだった。
「…だとよ」
彼が私の後ろに声をかける。振り返らないでもわかった。ネロだ。私は後ろを振り返ってすぐに抱き着こうとして、人目は多くないものの、人前だと思い留まった。その思い留まった私の腕をひくと、彼は私を抱きしめた。いつものような、優しい抱擁だった。驚いた。彼が嫌がりそうなことだった。無論、試したことすらない。
「ごめん。ただいま」
「……うん」
私は彼の腕の中でゆっくり息を吸った。ネロの優しい香りがした。
「じゃあな。もう揉めるなよ」
ブラッドがどんな顔でそれを言ったのかは分からなかった。私の背に向かって投げた言葉はきっと、優しいものだった。ネロと彼との間では既に話は済んでいるらしかった。彼が私の家に久々に足を踏み入れると、彼はブラッドとは話をつけた、と簡潔に説明した。自信がなくて帰らなかったことも。互いへの信用が足らないのは、俺のせいだと言って、彼は仰々しい箱を取り出した。
「持っといてほしい。何か、証がある方が安心するかと思ってさ」
それは指輪だった。ずいぶん前から考えてはいたことらしい。人間同士が結婚する際に着ける、いわゆる結婚指輪だった。シンプルだが、精巧な模様が入っていて、ワンポイントに光る宝石。この輝きはイミテーションではないだろう。
「うん。ありがとう」
彼の中ではこの一か月で随分気持ちに変動があったらしい。それはブラッドと会話した成果かもしれないし、私と一旦距離を置くことが功を奏したのかもしれない。でも私はなんだか置いてけぼりになったような気持だった。
「これからはなるべく此処へ帰るよ。行けない日は事前に連絡する」
彼はこの日、こう言ってから、それを守らないことはなかった。何となく、そういうのは嫌いそうなのに。彼は無理している、とまではいかなくとも、随分と性に合わないことをしているように見えた。だが、それを指摘してしまったら、この一連の行動でやっと保っているように見える彼を壊してしまうようで、私は触れられなかった。ただ、彼は変わらず私とは部屋でずっと過ごした。東で暮らしていたときのように。ごく偶に、一緒に出掛けることはあったが、他の賢者の魔法使いと出会うことも、紹介されることもなかった。
尾行されている。そう思ったのはいつだったか。初めは、心配したネロが何か監視の類の魔法動物でも付けたのかと思った。魔法の痕跡があるうえに、拙かったから。しかし、次第に人間のような、もっと言うと“幼い魔法使いのような”気配であることを認めた。気付いてからも少しは見逃していたが、ネロと会う日も近く、放置しておけばネロがどうするかなんて分かったものじゃないし、それでなくとも不安に思うはずだと、重い腰を上げて彼らを嵌めた。魔法で外界と私、犯人らを隔てる。私は彼らに見覚えがあった。賢者の魔法使いだ。私は彼と同じ、東の国の魔法使いをよく覚えていた。それはネロとの関りが少なからずあるだろうから、という安直な理由であったが、それが役立つ日が来るとは思わなかった。彼らは気は引けつつも、最近のネロの様子がおかしいのを心配して後を尾けたことが何度かあって、その行先は全て私の家だったと自白した。
「それで、私が怪しいと?」
「いや。あんたは少なくともこの数日間でおかしな動きはなかった」
「シノ!…すみません、悪気はなかったんですが、結果的に後を追いまわしてしまって」
彼らに悪意がないことくらいわかっていたし、そもそも赤子同然の魔法使いに足元をすくわれるほど衰えていない。
「良いんだけどさ、ネロにバレたら多分あんたたち面倒なことになるから、もう止めておきな」
「…ああ、そうする」
彼らはあっさり引き下がった。このまま帰すのもな、と考えてから、家に入れるわけにはいかないな、と思った。彼の不安を煽るようなことはしたくない。
「ネロは最近どうおかしい?」
「体調が万全でないくせに、平気な顔をしてる」
「元気がから回っているというか…。任務や買い出し以外の外出も増えたので、何かあったんじゃないかと思ったんです」
「それは…一概に私のせいじゃないとは言えないね」
彼はきっと私との時間を捻出するために無理をしているのかもしれない。
「なら止めてくれ」
「……最善を尽くすよ」
彼らとはそれで別れた。一応、口止めもしていたが、どこまで通用するか。次にネロに会ったときに、彼の様子が変わりすぎていないと良いと思った。
その願望は次に彼に会ったとき、すぐに叶えられた。だが、彼は疲れているようだった。私はずっと考えていて、口には出せなかったことを言った。
「ねえネロ」
「うん?」
「魔法舎の人たちから許可をもらったら、私も魔法舎に出入りできる?」
「…そりゃまた、急だな」
「前から考えてはいたの。ネロに毎回来てもらうと負担が大きいし。疲れてるでしょう?神経すり減らしてるみたいだし。……ネロ、私怒ってないわ。この前のこと。別に、償おうとしなくて良いの」
「……あの件は、俺が悪い。けど、まあ、そうだな」
彼は少し黙って、自分の非を譲らず、それから私の提案を飲んだ。
それは彼から迅速に賢者と魔法舎の人たちに伝えられたらしい。私が手伝いたいと言ったから、私が魔法舎に行く日は、ネロと協力してご飯をつくることになった。表向きには料理を手伝ってくれる魔女、ということで許可されたらしかった。そもそも、魔法舎が手薄になったとしても私という、ある程度の強さが保証された魔法使いがいれば時間稼ぎくらいにはなるだろうという北の誰かの思想が透けていなくもなかったが、まあ出入りを許可されたのだから、良しとしよう。私は堂々と魔法舎を出入りするようになったし、ネロの部屋に泊めてもらうこともあった。ただ、基本的にはそれぞれの部屋へ帰ることになっていた。日中に過ごせる時間が増えた分、夜は互いがいなくても大丈夫な日も多かった。週に一度は私の家に泊まる、という習慣は継続された。完全に二人でいる時間を確保するためだった。二人だけで完結していた世界が広がったことで、不安定になるかと思われたこの生活は、存外平和だった。あまりに狭く完結した空間よりも、他の人間、魔法使いがいた方が思いのほか、上手くいくのだと、初めて知った。ネロは私を伴侶だと認めていた。それは指輪からも明らかだし、今更隠すようなことでもない。東の国の小さな魔法使いたちは、こっそり私にお礼を言いに来た。「私は何もしていないし、あなたたちのためじゃない」と言ったのだが、彼らは嬉しそうだった。ネロがすっかり調子を取り戻していたのは、紛れもない事実であったろうから。私たちを揶揄うのは北の双子くらいで、他の面子は私たちが落ち着いた様子だからか、囃し立てるような真似はしなかった。そもそも、他人にあまり興味がないのかもしれない。彼らが、私たち二人だけの世界で生きていたころを知ったらきっと驚くだろうな、と思った。私たちは変わっていないように見えて、絶えず変化している。変化を恐れてしまうのは性だ。でも向き合っていけばそんなに悪いものじゃない。
二十人分の料理を一気につくるのは、慣れているとはいえ、なかなかの仕事量だ。黙って作業しているのにも飽きが来て、ネロが手を動かす様を見ていた。手も良いな、と思う。彼の性格だって好きだ。私がかつて好みとして掲げていたものとは違ったベクトルの、“悪い男”。今ではすっかり彼のような“悪い男”が好みだ。それに、きっと、彼の体も好きだ。彼の空色の髪も、実りの麦畑を閉じ込めたような瞳も、その綺麗な顔立ちも。それでも何より。
「ネロ」
その名前が。そして、それを私が口に出したときにする、あなたの表情が。
「ナマエ。どうした?」
あなたに名前を呼ばれる瞬間が。
とても好きなんだと、漸く気付けたんだ。
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