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 彼とは最寄駅が同じなわけではない。それどころか方向的には逆なので「一緒に帰ろう」とはならなかった。部活に入ってるわけでもないから、朝早くも夜遅くでもない。そんな時間帯に一緒に登下校したら確実に目立つだろうから、それは避けたかった。彼は時間ギリギリどころか、遅れて教室に来ることもあった。帰りも直ぐに帰るどころか、勝手に早退している時もあった。そんな人と一緒に帰るなんて夢のまた夢だと、そう思っていた。
私は割と教室に残る方だった。家だとどうにも勉強しないからだ。高校生になってから、もう塾に通うことをやめてしまっていたので、自習できるスペースは学校くらいだった。教室とは別に自習室もあったけれど、自習室の、少しでも物音を立てたら許されないような雰囲気が得意でなかった。だから比較的それが許される教室でお菓子をつまんだり、時折立って歩いて気分転換をしながら勉強する方が性に合っていた。たまに教室に残る人がいたりすると、その人と会話したり、質問し合ったりした。そういう時間が好きだった。いつものように残ろうと、バッグと中身を整理していると珍しく教室に残った彼が声をかけてくる。
「今日も残るの?」
「うん」
「じゃあ俺も残ろうかな」
彼は私に倣っていくつかテキストや参考書を引っ張ってくると問題を解き出した。数学だった。ちらっと覗くと今やってる範囲よりもずいぶん先の内容であるように思う。私はなんとなく理系に行きたいと思っていたけれど、他教科に比べればあまり数学は得意でなかった。来週末までの課題を解いていくとやはり応用問題で躓きはじめる。解答と照らし合わせていくしかないかな、と思ってから、ふと彼の方を見た。集中力がすごいなと思う。私の視線に気付いたようにこちらを向くと「なあに」と聞いてくる。
「聞いても良い?」
「もちろん」
彼の説明はとても分かりやすかった。あまり人に教えるのが得意なタイプに見えないのに意外だなと思う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
きっと何度も声をかけたら邪魔になるだろうなと遠慮して、たくさん話しかけはしなかったが、どうしても行き詰まった時には彼に尋ねた。彼は嫌な顔ひとつせず丁寧に教えてくれた。私が納得行かなそうな顔をしているともっと前の内容に戻って教えてくれた。
部活の人が帰り始める少し前の時間に、私は帰るようにしていた。単純に電車までの道が混み合うからだ。一人で静かに帰るのが好きだから、あまり人に会うのが好きではなかった。
「私そろそろ帰るね」
キリの良さそうなところで彼に声をかけると、彼は「じゃあ俺も帰るから、ちょっと待って」と手早く机のものを片付けた。彼は私と帰るために残ったんだろうなと思った。あたりはすっかり陽が落ちてきていて、オレンジ色だった。告白の日を連想させる日だ。あのときもこんな天気で、放課後の教室に二人きりだった。実はあの日以来ちゃんも二人で話をしていなかった。私が少しだけ避けていた。どうしたら良いのか分からなくて。元々携帯で連絡を取り合う仲ではなく教室で話すことが多かったから、教室で一人にならないようにすれば必然と彼とはちゃんと話すことにはならなかった。だから、私は少しだけ緊張していた。
「お待たせ。帰ろっか」
彼の鞄は軽そうだった。かくいう私もほとんど置き勉していて人よりは重くないと思う。方向は逆だけれど駅までは同じだから、二人で同じ道のりを歩いた。いつものように他の人とズレた時間帯だから同じ高校の人と会うことはなかった。私たちは特に会話もなく並んで歩いた。私たちはもちろん雑談もしたけれど用事のある時にしか話しかけなかったから、無言なのに隣にいるのはなんだか不思議な感覚だった。よく考えてみれば互いに無言で隣の席に座っている時間など無限にあったのに、今この場はなんだか変な感じがした。駅に着いたら彼と別れて家に帰ると思っていた。彼は駅か近付くと「このあと時間ある?」と聞いてきた。別に用事はないし親に連絡すれば問題はない。「まぁ、うん」「じゃあちょっと寄ってこ」彼が指差したのは駅前のゲーセンだった。なんてことない、普通のゲーセン。私も行ったことはあると思うけれど、あまり記憶にない。プリクラくらいは撮るけれど、ゲームセンターで遊ぶ発想がなかった。彼は慣れたように店内を進むとシューティングゲーム系がずらりと並んだところまでやってきた。
「どれが良い?」
そんなことを言われても、私は詳しくなかったので「おすすめで」とお願いした。するとホラー系のブースに連れて行かれそうになったので「それ以外で」とリクエストした。彼は笑っていた。ゴーストを退治するものだったり、怪物を倒したり、バスケだったり、カーレースをしたりした。世の普通の学生はこれにハマっていくんだろうなと思った。一通りプレイした後、私たちはUFOキャッチャーを見て回った。シューティング系はまだ見かけたことややったこともあるけれど、こっちは本当に経験がなかった。取れるはずがない、お金の無駄だ、というのが我が家の風習だった。取れるはずがないのだけれど、見ている分には楽しかった。魅力的なものがたくさんあったから。特に大きめの私の好きなキャラクターのぬいぐるみは心惹かれた。「やったことない」と私が素直に言うと、「やってみれば?」と軽く言う。「取れないし。お金の無駄だから」私は笑ってそう返した。
「…欲しいのないの?」
「えーあれかな」
さっきまで見ていた、少し大きめのぬいぐるみのケースを指差した。
「オッケー」
彼は素早くお金を入れると、操作を私に任せてきた。
「え、無理無理!できないって」
「良いから」
見様見真似でレバーを動かし、ぬいぐるみの真上へレーンを持ってくる。クレーンはぬいぐるみを掴むけれど上に持っていく時に力が緩んで落ちてしまう。
「ほら」
「まあまあ。まだ一回だから」
彼はまたお金を入れた。今度は一気に入れたようだった。
「ちょっと、!」
「もう入れちゃったから。ほら」
彼は私を急かすようにして操作を促した。彼はただぬいぐるみを毎回ちゃんと掴むようにすると良いよと言った。確率機だからと。分かっていてもその確率がいつ来るかは分からないじゃない、と心の中で悪態をつきながら操作を続けた。掴んでいくうちにぬいぐるみがズレて出口に近づいたり遠ざかったりした。次第に掴みにくくなって、彼は店員さんを呼んで位置を戻してもらった。私はそこまでしなくても、と言ったが彼は止めなかった。欲しいんでしょ、と。本当はこのキャラクターがとても好きだったから、とても欲しかった。シューティングゲームに行く前も、この台を見かけて良いな、と思っていた。引くに引けなくて「まあ……」と曖昧に返した。けれど私が欲しくて、私がやるのだから私が支払うべきだと、追加のお金は自分で入れた。まだ私は戦うという、意思表示でもあった。そして。
「……あ、うそ?!」
「おお〜」
クレーンの力が弱まることなくそのままぬいぐるみは運ばれていった。
「うそ!やった!」
「良かったじゃん」
金額としては彼が出してくれた分も含めて1500円弱くらいで、このぬいぐるみひとつ取れたなら悪くない採算だった。店員さんがおめでとうございますと事務的に袋を渡してくれた。けれど私はこの子が取れたことが嬉しくて、しばらく抱いていた。お金が3回分余っていたから、他の台に回せますと言われた。私は特に希望はなくて、彼に任せた。彼はそれを、私が取ったぬいぐるみと同じキャラクターの、可愛くデフォルメされた小さなキーホルダーのある台へ移した。3回だし無理だろうと思っていたら、きっちり3回目で目当てのものを取ると、私にくれた。
「…良いの?」
「俺が持っててもしょうがないし」
「…ありがとう」
可愛かった。彼は予想通りというか、ゲームが上手くて面白くなかったけれど、楽しめたのは間違いなく彼のおかげであったので咎めないでおいた。

散々遊んでから、彼は夕飯食べて行こうよと言った。私は親に連絡をして、彼の提案に頷いた。今から格式の高いところは行きたくないなと思っていたのでファミレスに入ろうと言われてホッとした。制服姿でぬいぐるみを持った格好もあるし、限られた高校生のお小遣いに無理はできないということもあった。
席に着いたとき、彼と向かい合って座るのは初めてだと思った。こうして見ると本当に綺麗な顔をしている。ぼーっとしていると彼と足がぶつかってしまうのが嫌だった。変に意識してしまって。
「何にする?」
「んー、ドリアとパスタで迷ってる。そっちは?」
「俺もドリア食べたいから、分けない?」
「え、最高」
「ドリアと、このパスタと、あとハンバーグも頼むから、食べたかったら言って」
「食べたい!一口ちょうだい」
「良いよ」
彼は手際良く注文を決め、頼むと「水取ってくる」と言って席を外した。周りを見て、何人か椚ヶ丘の制服を見かけたけれど、知らない人たちだった。当然か、と思う。あんなに生徒がいたら知り合いがここにいることの方が少ない。恐らく皆んなは部活帰りなのだろう。彼は戻ってくるとお手拭きも一緒に持ってきてくれた。やけに乾いた喉を潤すために水を飲む。私たちは再び黙っていた。だが先ほどより幾分か気まずくなかった。私は彼のことをあまりよく知らないなと感じていた。仲良くなったのも、なんとなく会話のテンポが良くて軽口を叩けるというだけで、互いの情報を言い合う場面はさほど多くなかったし、恋バナをする程の仲でもなかった。こと彼の恋愛観について、何も知らないなと思ったので。そしてそれは彼も同じだろう。
「赤羽ってさあ、元カノいたことある?」
噂には聞いたことはないけど、いたとしてもおかしくない。特に他校に。気になっていたわけじゃない。いや、うそだ、少しだけ気になっていた。だがそこまで深刻な話題だったつもりはない。恋愛話をするにあたって、まずはじめに軽い世間話のようなものを振ってみたのだ。
「まさか。名字さんは?」
「いないよ。そんな暇なかったし」
「良いね、今は余裕なんだ」
「そんなことは一言も言ってないんですけど?」
笑いながら言い合っていると料理が運ばれてきた。私は最初にパスタを手元に置いて食べ始めた。少し食べたら交換しようと言った。
「てか俺たち、いつまでこの呼び方?」
口にものを含んでいたので、言葉を発さず首を傾げると彼は続けて言った。
「名前で呼んで良い、名前」
一瞬ドキ、として、でも友達から呼ばれることもあるから、と平常心を保とうとパスタを飲み込んだ。
「良いよ。…業」
その名前は、意外とよく口に馴染んだ。彼がよくその名前で呼ばれているからかもしれない。彼はにやりと笑っていた。ある程度食べ進めたのでドリアが欲しいと強請ると、彼はすんなり交換してくれた。ハンバーグと一緒に食べたかったので先にハンバーグを切ってもらって、何切れかをドリアの皿に移動させた。美味しかった。どちらも知った味だが合わせるとより美味しく感じた。
私は焦る必要はないなと思った。彼のことはまた、これから少しずつ知っていけば良い。私のこともゆっくり知ってもらえたら良い。どうなるかは分からないけど、そんなに悪くない関係なんじゃないかなと結論づけて、私は笑った。彼は「何、急にニヤニヤして」と笑っていた。
「業こそ、いつもニヤニヤしてるくせに。…パスタ美味しい?」
「美味いよ。もう食べないならタバスコかけて良い?」
「良いよ」
彼はいつも甘いジュースを飲んでいるから甘いのが好きだと勝手に思っていた。
「辛いの平気なんだ」
「適量ならね」
まるで適量でない量を知ってるかのような口ぶりだ。それを指摘すると彼は悪い顔で笑っていた。私はまだまだ彼を知らないらしい。


辛いものは好きだけど少し苦手


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