What I didn't know


 受験が終わると一気に開放感が溢れた。教師陣も穏やかな雰囲気となった。塾全体で受験後の打ち上げはないのだが、教師たちの飲み会は存在した。毎年恒例である。きっとブッチくんは参加しないだろうと思った。一応彼に「そういえば来週の打ち上げは来るの」と尋ねてみると「遠慮しておくッス」と予想通りの解答が得られた。それから彼は重ねてこう言った。
「実は塾長には言ってあるんスけど、今年いっぱいで辞めるんで。ミョウジさんにはお世話になったッス」
分かっていた。この雰囲気じゃ、きっと彼は続けないだろうと。けれど辞めることも聞かされないなんて。私と彼の距離感はそんなもんだったと分かっていたのに、なんだか悲しかった。彼がいつの間にか先輩、からさん付けになるくらいには仲が良くなった…良くなったのだろうか。分からない。私なりに初めてのバイトの後輩を可愛がりたかったのかもしれない。全然上手くなどできなかったし、何の助けにもならなかったし、最初は面倒だとすら思っていたけれど。この一年、塾での時間を一番共にしたこの憎めない後輩が居なくなるという事実が受け入れ難かった。
「……そう。残念。ブッチくん、優秀だったのに。寂しくなるね」
私は当たり障りない言葉を紡いだ。彼はシシシッと独特な笑い方をして、「光栄ッスね」と言った。だから、彼は今日が最後の塾に来る日だったのだと言った。私は今日彼に会えて、聞いておいて良かったと思った。次に来たとき、塾長から「ブッチくんは今年で辞めたんだ」と聞かされていたら、もっと整理がつかなくて悲しかっただろうから。それとも実感が湧かなくて、もっと平気だったのだろうか。彼は塾長とこの前、最後にご飯に行ったのだと言った。塾長は良い人だったと、そう言ってくれた。私も心からそう思う。塾の人たちも、悪い人ではないんだよと思ったけれど、それは私にとっての話で、彼からしたらそうでないことはよく分かっていたから何も言わなかった。
 彼は珍しくゆっくり荷物を片付けていた。いつもなら私より早くまとめ終わるのに、今日は私と同じタイミングだった。何となく別々に行くのも違う気がして言葉を交わしながら共に外へと出る。この塾のエレベーターに共に乗るのも最後かと思うと不思議な気分だ。
 外に出ると、日は落ちていないが夏にしては風は冷たい。ビルから出ると駅へと向かった。駅が近づくにつれ、このまま別れてしまうのは勿体無いと思い始めていた。そもそも彼と塾から駅までの道のりを一緒に歩くことなど本当に珍しいことだった。彼とは今日を境にもう二度と会えないだろうなとどこか確信していたから、余計に。
「今日このあと、用事ある?」
「いや、ないッスけど」
「じゃあ夕飯でも食べてかない?私の奢りで」
「良いんスか?!」
「お疲れ会ってことで」
彼は奢り、という言葉に大袈裟に喜んで快諾してくれた。大学生の懐なんて高が知れているが、一応何を食べたいか聞いてみると肉、と言われたので、私御用達の半個室の焼肉屋というか、居酒屋のようなところへやってきた。もちろん未成年にお酒は飲ませない。このお店はお酒も頼めるが、別に頼まない人も多い、お肉の美味しいお店だった。手頃な価格の割に雰囲気も良くて気に入っていた。一人用の席もあるので、私はよく一人でもここに来た。彼は初めて来たようだった。というか穴場のお店であるので多くの人は知らないかもしれない。
「良いとこッスね」
「でしょ?おすすめなんだ」
何にする、とメニューを広げながら聞くと「何でも食べていいんスか?」と聞かれたから「まあ、うん。ちなみにどれだけ食べる気なの?」「いや〜、可能ならこのくらい?」その彼の提示した量にびっくりしてしまった。そんなに大きくない体のどこに収まるというのだろう。確かに弁当をよく食べていたイメージはあるけれど。
「嘘でしょう?」
「全然いけますよ。けど値段やばいッスよね」
「値段は問題ないっちゃないけど……じゃあ食べ放題にする?それで良いなら」
「もちろん良いッス!あざーす!」
彼は嬉しそうにシシシッと笑った。彼が笑っているのを見るのは今日が久々だった。笑顔の方が似合うなと思った。思いの外挨拶の勢いがよかったから、結構熱血系の部活とかサークルに入っているのかもしれない。私は彼のことをよく知らなかった。彼に部活の話題を振ってみた。
「ブッチくん挨拶が良いね。何か部活入ってたりするの」
「マジフト部ッス」
「へえ!」
マジフトと言えばスポーツの花形とも言える。魔法、特に飛行術の技術が必要だ。彼はやはり優秀なんだなと思った。
「月並みなことしか言えないけど、すごいね」
「意外ッスか?」
「いや?納得した」
店員さんを呼ぶと二人分の食べ放題を注文した。彼は手際良くものすごい量の肉を頼んだ。私は彼にブッチくんが頼んだ中からちょっとずつもらいたいと言った。彼がそれを了承したので、注文は全てお任せした。届いた順に手際良く肉を焼いて、焼き上がったものから食べていく。ブッチくんは米はあまり食べず、とにかく肉を食べていた。「米食べると腹膨れて元が取れないんで」と。すごい発想だなと思う。そもそも私は食べ放題で元を取ろうとも思わなかった。そこまで量を食べられるわけじゃないから。彼の食べっぷりは見ていて気持ちが良かった。たくさん食べているところを見て胸焼けしたら、と思ったが彼が本当に全て美味しそうに平らげるので何ら問題なかった。
 時間いっぱいまで食べると、私たちは満腹になって店を出た。
「ご馳走様ッス」
「いえいえ。こちらこそ付き合ってくれてありがとう」
再び駅に向かうと今度こそお別れだと思った。そう思うとさっきまでの楽しい雰囲気からの落差で寂寥感がすごかった。伝えたいことは今、全て伝えておくべきだと思った。
「頼りなかったし、何も助けられなかったけど。君とペアで良かったよ。一年間ありがとう。お疲れ様、ブッチくん」
「…そんなに言われると照れるッスね。ミョウジさんは知らないでしょうけど、オレ、ミョウジさんに結構助けられたッスよ」
お世辞が上手いなと思う。私は彼に何かした覚えが一切なかった。心当たりはなかったがあんまり否定しても彼の顔が立たないだろう。
「…そう?なら良かった」
 駅近の店だったので道のりはあっという間だった。彼のNRCは私の家とは逆の方面だった。
「じゃあブッチくん、元気でね」
「…はい。ミョウジさんも」
私の方が電車の発車時刻が遅かったので、彼を見送ろうと思った。彼は自分の列車の方へ体を向け歩き出した。あの大きめの耳ともサヨナラか、と思いを馳せていると、彼がピタリ、と足を止めた。不思議に思っていると、彼はくるっと向きを変えてこちらに戻ってくる。
「どうした?忘れ物?」
「いや…いや、まァ、そうッスね」
「どこに置いて来た?店?塾?良かったら連絡して確認するけど」
「、あーーっと。ミョウジさん、連絡先、交換しませんか」
私は再び目をぱちぱち瞬いた。
「うん?うん、良いよ。確認したらそこから連絡すれば良い?」
言いながら何だか違うな、と思っていた。彼は目線を少し彷徨わせていた。そんな彼は見たことがなかった。顔も心なしか赤い気がする。
「いや、違くて。これが忘れ物。…また連絡しても良いッスか」
勘違いでなければ、そう、なのかもしれない。そんな彼の様子に引っ張られて、私まで段々と気恥ずかしくなって来た。うん、と小さな声で頷いた。彼はまた笑った。連絡先を交換すると、トークの画面に「ラギー・ブッチ」の名前が追加される。とりあえず確認のためにスタンプを送っておいた。彼もまたスタンプを送ってくれた。ちょっと可愛い、動物のスタンプだった。イノシシだろうか。そうこうしてるうちに、彼の乗る電車の出発時刻が迫っていた。
「じゃあ今度こそ。……またね」
「はい、また」
彼はシシシッと笑って今度は立ち止まらずに歩いて行った。だがエスカレーターを降りる前にふと振り返って、もう一度笑って手を振った。それに手を振りかえすと彼は満足そうにホームへ降りて行った。まだ、彼との交流は終わらないらしい。


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