NOTE



たまひ

メイドさんプレイをしようとする話

「ほ、本当にこれ着るの?」
「着るって言ってたのはまひろだよ?」
ベッドに腰を落ち着けてにこにこと笑う環を見つめ、まひろはぐうと言葉を詰まらせた。思わず、手にしたメイド服に皺が寄る。
昨夜からの記憶が曖昧で、気付いたら見知らぬ古本屋にいたのが数時間前のこと。荒々しく縛られ喚く男を放置して颯爽と帰ろうとする環に肩を抱かれ、家に向かう道中、彼が手に持つ袋が目についた。見たことのないロゴの印字された袋は、まひろと共に買ったのだと言う。思い出そうにも辿り着く記憶はなく、彼がきっと似合うと言うものだから浮かれた気持ちで了承したのが悪かった。まさか、その袋に入っていたものが、安い布地で作られたメイド服だなんて想像できるはずがない。
環が言うには、メイド服を欲しがったのは他でもないまひろらしい。正気を失っていたときに言ったことなど無効にしてくれてもいいだろうに。そうは思えど、恐ろしく整った顔で綺麗な笑みを象る恋人を前に、まひろは抗議することができなかった。
美人の笑顔が恐ろしいとはよく聞く話で、事実、美しく笑う環から言い表し難い威圧を感じることもなくはない。とはいえ、まひろの前で浮かべる環の笑みは柔らかく緩み、細められた双眸に滲むのは慈愛であることが殆どだ。まひろを愛しく思うその心を彼の瞳は雄弁に語るものだから、見詰められると恥ずかしさが照れが勝るのが常である。
今は、環が気に入って身に付けるサングラスは外され、深く透き通る海色を阻むものはない。それなのに、まひろは環の胸のうちを探りあぐねていた。呆れや焦燥、不安。それらが彼の瞳に滲むさまを見たこともある。しかし、環の瞳は日頃から宝石を埋め込んだかのように美しく、どのような感情であろうとも、その宝石をより一層美しく飾るだけだ。そのはずなのに、うつくしさは変わらなないはずなのに、胸の奥がざわつく心地がした。
「どうしたの、まひろ」
ゆったりとした柔らかな声音もいつも通りであるはずなのに、読めないだけでこうも不安になるものなのだろうか。人を騙すことに長ける環の心を全て読み解けるだとか自惚れたことを思っていたわけではない。それでも、少しは、理解できていると思っていた。
「……着替えてくる」
「うん?ここで着替えたらいいのに」
「それは、さすがに、恥ずかしいんだけど……」
「ここで着替えて。まひろ」
優しい声音は強請るようで、底知れない冷たさを帯びていた。怒っている、のだろうか。変なことに巻き込まれ、環にまで迷惑をかけてしまったことは理解した。反省もしている。
羞恥と負い目がぶつかり合い、後者が勝った。
まひろはリボン帯を解き、ひとつひとつシャツのボタンを外していく。環の前で素肌を晒すことはなにもはじめてではない。しかし、こうして彼の前で自ら衣服を脱ぎ落としていくのははじめてだ。ましてや、そういった雰囲気のなかで、自ら脱ぐようにと促されたわけではない。どちらも冷静さは保ったままで、部屋の電気も消されてはいない。シャツを脱ぎ落として、スカートのホックを外す。ぱさり、と床に布が落ちる音は、気のせいだろうか。
下着のみを残してメイド服を手に取り、少し手惑いながら身に付ける。その間、環はじつとまひろを観察するように見つめるだけで、口を開く様子はなかった。
着なれない服に少しばかりの時間を掛けて着替え終えると、環が漸く口を開いた。
「おいで」
甘く誘われて、まひろは素直に環の元へ向かう。
恥ずかしさに頬が染まり、瞳には涙が滲む。こうなった原因を探ろうと思考を巡らせても答えは導き出せず、ついには俯いてしまったまひろに、環は困ったように吐息で笑った。
「そんな怯えた顔をしないで。意地悪をし過ぎたかな?」
「……きらいにならないで」
すん、と鼻を鳴らして、まひろが泣きそうな声で呟いた。
「どうしてそうなるのかな」
「環くんに、迷惑掛けたから。……怒ってる」
「……まひろに、怒っているわけじゃない」
環は目の前で立ち尽くすまひろの手首を優しく握り、膝に誘うように緩く引く。彼女は抵抗することはなく、環の足の上に乗り上げた。
随分と、彼女は素直になった。感情を露わにすることもそうだが、頑なに環を拒むことも少なくなった。少し前のまひろであれば、環が腕を引こうとも立ち尽くしたままで、ついには手を振り解こうとすらしたかもしれない。
素直に環の腕のなかに身を寄せるまひろの腰を抱き寄せ、反対の手で俯いたままの頬を擽るように撫でる。小さく肩を跳ねさせたまひろは、おずおずと、涙に濡れた瞳を向けた。
「まひろ。私はね、これくらいのことで君を嫌いになったりはしないよ。ずっとそう伝えてきたつもりだったのだけど、伝わっていなかった?」
小さい子どもに言い聞かせるように、努めて優しく、言葉を紡ぐ。
まひろは否定するように小さく首を振るが、瞳に揺れる不安が消える様子はない。
「突然、君が知らない人のようになってしまったんだ。そのうえ、ひとりで危機感もなく変な店に行っていたようだし。君が正気を失っていたことは理解している。不可抗力だろうということもね。けれど、……それでも、私だって肝が冷えたよ」
「……ごめんなさい」
「うん。私も意地悪をしてごめんね」
宥めるように頬をなぞり、涙を浮かべる目元に唇を寄せる。こんなときでも、環に触れられると彼女の頬は淡く色付いていく。今にも泣き出しそうな顔をしていたのに、恥ずかしそうに視線をさ迷わせている。
「いつものまひろだ」
「……ん、」
彼女はどこか虚さを纏っている。かんばせを崩して満面の笑みを浮かべることはなく、淡々とした物言いに溌剌さはない。それでも、まひろは、瞳で、声で、仕草で、そのすべてで、環への好意を語る。
「ねえ、まひろ。名前を読んで」
「環くん?」
「そう。……もっとたくさん、呼んでくれる?」
「環くん。……環くん、好きだよ」
頬に、鼻先に、唇を寄せて、甘く環の名前を紡ぐ唇を塞ぐ。触れるだけのキスを繰り返し、下唇を舌先でなぞると、まひろはうっすらと口を開いた。何度もしたことがあるはずなのに、まひろから伸ばされる舌先はぎこちなく、それが愛しくて唇で挟むように食んで吸い上げる。
びく、と大きく肩を揺らし、まひろの両手が躊躇いがちに環の背中に回された。
舌先を擦り合わせながら、唇の隙間を割り開くように舌を差し入れる。まひろから緩く絡められる感覚に環の双眸が細まり、根元から形を確かめるように舌先で辿ってから粘膜を擦り付けた。
「っん、……ふ、」
上顎を舌先で擽ってやればあわいから上擦った吐息が漏れ出した。
片腕でまひろを強く引き寄せながら腰を浮かせ、環は器用に身を反転させた。ベッドの上にまひろを組み敷き、わざと水音を響かせるように舌を絡め取る。背に回された指先に力がこもり、上着を握り締められたのがわかった。
最後に唾液を飲み込むように舌に吸い上げて顔を離す。はぁ、と熱を孕んだ息を吐き出したのは、どちらだったのだろうか。
先ほどとは違う涙で、まひろの瞳が潤んでいた。環が触れるだけで恥ずかしげに身を捩る彼女はいつまでもうぶなようで、環を捉える双眸には確かな欲が揺らめいている。
「ぁ、……環くん、」
蜂蜜を煮詰めたようにとろりと甘い声が、環を呼んだ。
「ご主人様って呼んでみて。まひろ」
「え、……ご、ご主人様?」
いつもと同じベッドのなかで、普段であればしないような格好をした恋人が、物欲しそうな顔で環を見上げている。
「うん。正気の君に言われるなら、悪くはないね」
にっこりと笑って、環は再び、まひろの唇を塞いだ。
2021/12/29 - 星野