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降谷零の朝は早い。

むしろすでに朝だ夜だという概念はないに等しく、朝方少し横になってからまた一日が始まるなんてことも珍しくない。二徹三徹当たり前で、それでも昨夜は三時間ほど眠れたのだからかなり寝た方だ。

布団からのそりと出て服を着る。顔を洗ってから昨夜の夕食を少しアレンジして、かきこむように食べれば準備完了である。

喫茶ポアロでの潜入アルバイトを始めて二日目の今日。安室透の自宅である「MAISON MOKUBA」を出た降谷は、ポアロに向かって真っ直ぐ愛車を走らせた。




***




夕方、空が夕焼け色に染まり始めた頃。学校帰りと思われる子供たちがポアロの前を走り抜けていく。店内は先程退店した常連客を最後に、束の間の静けさを取り戻していた。

同僚の梓はこの時間を利用して買い出しに出掛けている。アルバイト二日目にして一人での店番だが、これも初日から優秀ぶりを見せつけた安室だからこその扱いだろう。

そんな中、カランとドアベルを鳴らして「こんにちはー」と慣れたように入店したのは安室もよく見知った少年―――江戸川コナンだ。対象に近しい人物が早々に来店したことに内心ほくそ笑むが、それをおくびにも出さず安室はにこやかに口を開いた。

「コナンくん、いらっしゃ……」

い、と言い切る前に、再度ドアベルが軽快な音を立てる。
おや、お友達かな、とそちらに目をやって、安室の手元でコーヒーカップがみしりと音を立てた。

「こんにちは〜」

明るく染まったピンクブラウンの髪はふんわりと巻かれ、トレンド感のある濃いめのメイクが華やかな顔立ちを引き立てている。オフショルダーのブラウスで陶器のような白い肌を惜しみなく晒しているのに、上品で控えめなアクセサリーも相まっていやらしさを感じない。

成人はしていそうなので、大学生くらいだろうか。爪の先まで一分の隙もなく、アイドルやモデルとして雑誌を飾れそうなほどに完成された佇まいの女性だった。

「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか」

安室がにっこり微笑んでカウンターを出ると、こちらを見た女性が大きな目をパチパチと瞬かせた。

「わっ、イケメン。新しい人ですか?」
「昨日からお世話になってます、安室透といいます」

名乗ると、頬を紅潮させながら「はわ〜」と目を輝かせる。

「名前姉ちゃん、僕喉乾いたー」

安室透の皮をかぶった降谷に見惚れる女性を、コナンが服の裾を引っ張って促す。

「あ、ごめんねコナンくん。あの、安室さん、私たちいつもあっちの席に座らせてもらってるので」

名前と呼ばれた女性が奥のテーブル席を指したので、「かしこまりました。お水とメニューをお持ちしますね」とカウンターの内側に戻る。常連なのか、二人は真っ直ぐに目的のテーブル席へと向かっていった。



安室が水やおしぼり、メニューを携えて席に向かうと、二人は額を突き合わせるようにして一つのタブレットを覗き込んでいる。

「お待たせしました」
「あっ、ありがとうございますー」

顔を上げた女性がへにゃりと笑う。明るい色の髪を耳にかける姿すら、様になっていた。
メニューを差し出すと、そこに目をやることなく「えっと、アイスコーヒー二つください」と返してくる。

「おや、コナンくんもコーヒーなんだね」
「あ、うん…」
「こんなに小さいのにすごいですよねぇ。でもカフェイン入ってるからいつも一杯だけなんです」

ね、コナンくん。
笑顔のままコナンに問いかける彼女に対し、コナンも子供らしく「うん!」と笑い返した。

「なるほど。ではすぐにお持ちしますね」
「お願いしまーす」

ぺこ、と小さく会釈した彼女に背を向け、注文の品を用意すべくカウンターの内側へ戻る。メニューを差し出す際にタブレットの画面が視界に入ったが、どうも新発売の推理小説の特集記事のようだった。手を止めず意識だけ彼らに向けると、他に客がいないのもあって会話の内容がぽつりぽつりと聞こえてくる。

「18日かー、結構先だねぇ」
「この人の小説すっごく面白いんだ。上巻が気になるところで止まってるから早く読みたいな」
「グロい?」
「普通の推理小説だよ。名前さんも読めると思う。貸そうか?」
「いいの!?読む読む」
「名前さんリアルな殺人描写とか苦手だもんね」
「グロいのはちょっとねー」

グロい何かを思い浮かべたのか、整った眉を寄せた彼女がはあ、と息を吐く。

内容だけ聞くと、一回りほど離れた大人と子供の会話とは思えなかった。コナンも彼女には気を許しているようで、あからさまな子供らしさを装う様子もない。

出来上がったアイスコーヒーを二人に提供した辺りで梓が戻り、徐々に客足も戻ってくる。そろそろ会社帰りに食事を取りたいサラリーマンやOLたちで混み始める頃だろう。それを察したのか、アイスコーヒーを飲み終わったコナンと女性がレジにやってくる。

「ごちそうさまでしたー」

二人で行儀よく挨拶をし、料金を払い、店を後にする。店外まで見送った安室も店内に戻り、他の客の対応をするのだった。





***





そうしてつつがなくポアロ二日目の勤務を終えた安室は、MAISON MOKUBAに帰還する。洗面所で手を洗って鏡の自分と目が合ったところで、

(いやいや、待て待て)

何かがおかしい。というか、何がおかしいのかは安室―――もとい、降谷自身よくわかっている。

安室透としてポーカーフェイスを貫き通した結果、うっかりそのままスルーしてしまいそうになった。危ない。

(何やってんだ、あの人は…)

降谷の脳内には、今日の夕方コナンとともに来店した華やかな女子大生の姿が浮かんでいる。小学生の子供とのんびりしたティータイムを過ごし、終始ニコニコ微笑んでいたあの女性である。

取り出したのは「降谷零」名義のスマートフォンだ。登録されていない番号を慣れた手付きでダイヤルすると、3コール目を数えたところで呼び出し音が途切れた。

『遅かったじゃん、降谷くん』

バイトお疲れ様、といたずらっぽく笑う顔が見えるような物言いに、降谷の形のいい眉が跳ね上がる。

「説明してくれますね?苗字さん」

そう。何を隠そう、その彼女こそ警察庁警備局警備企画課―――通称「ゼロ」の同僚である、苗字名前その人なのだ。


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