長編「FAKE」黒鉄IF(後日談)
※映画ネタバレ過多
※付き合ってない
※短い



 海洋施設「パシフィック・ブイ」が組織によって襲撃され、その機能を失った日から数日。バーボンとして任された後処理をつつがなく終え、降谷はようやく自宅マンションへと帰り着いた。
 とはいえ滅多に帰らない降谷名義のマンションではなく、すっかり住み慣れてしまったメゾンモクバなのだが、ドアを開けた瞬間漂う畳の香りに無性に癒されてしまうのはもはや日本人の性だろう。

(おっと、だらけている時間はないな)

 迷いのない足取りで部屋中を歩き回り、不在の間に何者かが侵入した形跡はないか、盗聴器やカメラの類が仕掛けられていないかを一通り確認する。問題ないのを確認してからようやく着替えである。

 正直、久しぶりに帰ったのだから早速惰眠を貪りたいところだが、まずは本業の持ち帰り仕事を片付けてしまわなくては。
 背後のベッドに飛び込みたくなる衝動をグッと堪えつつ、降谷は目頭を揉み込みながらPCを開いた。そして起動画面にパスワードを打ち込もうとしたところで、タイミングよく震えたスマートフォンが着信を告げる。ディスプレイに発信元の名称はなく、表示されているのは数字の羅列のみ。

「はい」
『お疲れ様』
「お疲れ様です、苗字さん」

 定型文の挨拶に名前を付け加えれば、今この場にいるのが降谷一人だということが相手にも伝わったのだろう。『降谷くん、眠そうな声してる』と小さく笑う声がした。どうやら彼女も一人らしい。
 電話の相手――苗字名前は合理主義の人だ。意味もなく長電話になることはないし、仕事も電話を終えてからでいいだろう。そう判断して、降谷は開いたばかりのPCを静かに閉じた。

「久しぶりに帰ったところなんです。眠くもなりますよ」
『風見くんには連絡した?』
「風見ですか?」
『この前本庁の近くで会ったけど、「降谷さんの所在が掴めません」って嘆いてたよ』

 可笑しそうに話す名前の声に、思わず苦笑いする。必要な指示は出しているし可能な範囲で連絡を取り合っているつもりだが、どうあっても神出鬼没扱いされてしまうらしい。

『ま、仕方ないよね』
「……後で電話しますよ」

 潜入慣れしている彼女には降谷の苦労もよくわかるのだろう。『風見くんも優秀だし、上手くやるでしょ』と付け加えられたフォローに頬が緩む。
 ここまではいわゆる世間話の類。問題はここからだった。

『それで?』
「はい?」
『女子トイレに入った感想は?』
「ぶっ」

 コーヒーも栄養ドリンクも飲んでいなくて本当によかった。ノーダメージのPCを横目に見ながら、降谷は柄にもなく体を折り曲げて咳き込んだ。自分は今、一体なんの爆弾を投げ込まれたんだ。

「な…っ、なんの話ですか」
『え、もしかして人違い? だとしたら長身金髪褐色肌の清掃員が実在することになるけど……まあそれはそれで』
「ちょっと待ってください。言いたいことは色々ありますが、もしかして苗字さんもあの場所に?」
『あの場所って?』

 逆に聞き返されて答えに困る。カマをかけられているのか、しかしそれをして彼女に一体なんの得が――

「……まさか、見てたんですか?」

 思い至った可能性を口にした直後、電話の向こうで空気が揺れたのがわかった。微かな笑い声がそれが正解であることを示している。

『システムに映像抜くためのバックドアでも仕込めたら便利だと思ったけど、さすがに1ハッカーの処理能力とスペックじゃ施設内の監視カメラに潜るのが精一杯だったね』
「またそういう危ない橋を……それ、感知されたら国際問題ですよ」
『引き際なら心得てるよ。それに私が理事官の許可もなしにこんな無茶するわけないでしょ?』
「な、」

 思わず言葉を失う降谷。独断で散々無茶してきただろ、というのはひとまず置いておいて、相変わらずウラの理事官は食えない男だし、この同僚は相変わらず協力者の使い方がえげつない。
 はあ、と長く深い溜息が出た。

「…二の句が継げないとはこのことですね」
『私だって、同僚の誘拐現場を目撃することになるとは思わなかったけど』
「あれは不可抗力です」

 硬い声色で不本意だという主張を前面に押し出す降谷に、彼女は『だろうね』と笑う。

『で? 肝心の女子トイレの感想は?』
「……まだ続くんですか、その話」
『えー、わりと真面目に気になるのに』

 わざとらしく不満そうに言いながら、『SFっぽい内装とか、海中ならではの設備とか、色々夢があるじゃん』と続ける名前。
 残念ながら周囲を観察するような時間はなかったし、そもそも女子トイレでそんなことするわけがないだろう、常識的に考えて。
 それをほんの少しの嫌味を交えて伝えれば、彼女は全くそう思ってなさそうな声色で『残念』と返した。

 名前としては“老若認証”の情報を耳にした時から哀やコナンの正体が世に知られる可能性を危惧しており、認証システムの運用状況を把握するために理事官をそれとなく誘導した――というのが本当のところなのだが、それをそのまま降谷に明かすつもりは毛頭なかった。
 結局そこまでの情報を得ることは叶わなかったわけだが、結果的にパシフィック・ブイは外部――おそらく降谷が潜入する組織からの攻撃によって壊滅的な被害を受け、他国で再建するにも莫大な金と時間がかかる。不謹慎だが、幼児化組にはいい時間稼ぎになっただろう。

 その一方で降谷も、名前が把握している以上の情報を共有するつもりはもちろんない。互いの手札を全て見せ切らないという点で、二人はどこまでもいつも通りだった。

『この件はこれで一段落?』
「ええ、まあ」
『時間が合えば何かご馳走しよっか。帰還を祝して』
「帰還って……言い方が大袈裟では?」

 この程度、我々にとってはある意味日常茶飯事だろうに。そう思って苦笑すれば『そう?』と軽いトーンで返ってくる。

『降谷くんが無事に戻って嬉しいよ、私は』

 その一瞬、降谷はらしくもなく言葉に詰まった。
 決していつも以上に神経を尖らせていたわけでも、精神を擦り減らしていたわけでもない。いつも通り油断なく、やるべきことを過不足なく果たしてきただけのこと。
 それなのに、その言葉でじわりと胸の辺りに広がるものはなんだろう。

「名前さん」
『ん?』

 呼び方が変わったことに気付いただろうに、それを彼女が咎めることはなかった。

「僕、名前さんの親子丼が食べたいです」
『えっ?』
「フライパンのまま具を出すやつ」
『……降谷くん、前あれに文句言ってなかったっけ?』

 一度だけ食べたそれをリクエストすれば、案の定訝しむように低くなる名前の声。

「あれはあれで安心感があるっていうか。一周回ってその良さに気付きました」
『ねえ、褒められてる気がしないんだけど』
「はは」

 こら、と素で不満そうな声が耳をくすぐる。
 結局はなんだかんだで多忙な二人だ。食事を共にする約束をしたところで、それが果たされるのはいつになるかわからない。

 それでもようやく肩の力が抜けた気がして、降谷は露草色の瞳を穏やかに細めた。