「じゃーん!」

 よく見れば安っぽいつくりの、ガーリーなデザインのジュエリーボックス。名前がその蓋を大仰な仕草で開けてみせれば、チープな箱に似つかわしくない輝きが大袈裟じゃなく溢れ出した。
 正方形に区切られた9つの枠に並ぶのは、どれも正真正銘本物のフサエ・キャンベルのブローチだ。

「ちょっと、どうしたのよこれ…!?」

 哀が戸惑うのも無理はない。到底、一介の女子大生が揃えられるラインナップではないのだから。
 予想通りの反応に、名前は悪戯っぽくふふっと笑った。

お仕事・・・で、ちょっとね」
「! ……ふうん、そういうこと」

 一瞬驚きながらも納得した様子の哀。名前の正体を知っているわけではないが、ただの女子大生でないことは東都水族館の一件で承知済みである。
 知らない人間が聞けばパパ活でもしていると勘違いされそうな会話の後、名前がブローチの一つを手に取った。スミレのモチーフとパールの組み合わせが大人びた少女に似合いそうだ。

「哀ちゃんさえよければ、どれか好きなのもらってくれる?」
「えっ!?」

 再び困惑する哀だったが、その頬は思いがけない申し出に紅潮していて、隠し切れない期待感が見て取れる。
 彼女には珍しいほど少女めいた表情に、このサプライズを企てた名前も心の中でこっそりガッツポーズである。

「これは私からのご褒美ってことで」
「ご褒美?」
「うん。八丈島のホエールウォッチングも、園子ちゃんから哀ちゃんへのご褒美だったんでしょ?」

 聞いたよ、と続ければ、ご褒美の理由に思い至ったらしい哀が目を瞬かせる。

「それに私ね、諸事情で服やジュエリーは同じものを何回も使わないようにしてて。だからもらってくれるとすっごく助かるんだけど……」

 諸事情というか変装する上でのセオリーというか。同じものを使わないなんてどこのセレブだ、と心の中でセルフツッコミをかましながら、名前は気安い女子大生の顔で笑いかけた。
 気を遣わせないようにという意図を察してか、哀もまた「仕方ないわね」と冗談めかして言う。

「それなら遠慮なくいただこうかしら。本当にどれを選んでもいいの?」
「もちろん!」

 気を遣わないでくれるなら全部あげてもいいくらいだ。名前がそれを軽いトーンで伝えようとしたその時、小さな足音が近づいてきた。

「……なーんか、盛り上がってんな?」
「あ、コナンくん」

 足音の主は博士の部屋から出てきたコナンだった。彼はそのまま「どれどれ」と哀の手元を覗き込む。

「なんだ、ブローチか。女ってホントこういう光りモン好きだよなぁ」
「光りモンってあなたね…!」

 新作の整理券配布に行列ができるほどの人気ブランド、フサエ・キャンベル。それを「光りモン」扱いされて哀の額に青筋が浮いた。
 そういうところだぞ、コナンくん。名前は彼のデリカシーのなさをひそかに憂いた。そして怒れる哀となんで怒られているのかわかっていないコナンという構図は、名前が「そういえばコナンくん、大学のミス研で新作トリックの検証してくれる人探してるんだけど」と精巧に加工した捜査資料の束を取り出すまで続いたのだった。




***




 阿笠邸を出た名前は、迷いなく米花駅に向かって歩いていた。空は生憎の曇り空。天気予報では曇りとなっていたが、雲の状態を見ればいつ雨が降り出してもおかしくはなさそうだ。
 とはいえブローチを哀に譲り、コナンに勘づかれないよう本物の暗号を解かせた名前の足取りは軽い。そして残る予定を頭の中で整理しながら歩いていると、聞き覚えのある音が聞こえてきて歩調を緩めた。
 聞こえたのは特徴的なロータリーサウンド。案の定、路側帯に停まったのは白のRX-7だ。

「こんにちは、名前さん」

 通る声がエンジン音に混ざって耳に届く。名前が目を丸くしながら言った「安室さん」は腹に響くようなエンジン音に負けてしまった気がしなくもないが、安室は構わずにっこり笑って「送りますよ」と促した。

「えっ、でも」
「この空模様ですし、僕ももう帰るところなので」

 そう言って微笑まれてしまえば、イケメン好きの女子大生には断る理由もなくなってしまう。
 そして助手席のドアがバタンと閉まったのを確認してから、安室は可愛らしささえ感じるほどの爽やかな笑みを張り付けたまま、「お疲れ様です」と声のトーンを僅かに落とした。毎度のことながら切り替え方が器用すぎる。

「お疲れ様」
「行き先は?」
「警察病院で」
「了解」

 短いやりとりの後、車体が滑らかに動き出す。

「それで、今日は何を? またコナン君との密会ですか」
「それは内緒」
「つれないな」
「パシフィック・ブイの女子トイレ情報と交換でならいいよ」
「………まだ言ってるんですか? それ」

 ハンドルを握る降谷がひくりと口元を引き攣らせたのを見て、「ごめんごめん」と上っ面で謝る名前。その顔はわかりやすく緩んでいて、安室らしからぬジト目を向けてくる降谷にもどこ吹く風である。

「降谷くんをイジれる貴重なネタだから、つい」
「わりと普段からイジられてる気がしますが」
「え、そう?」
「まさか自覚なしですか……」
「あはは」

 こうやって軽いノリで揶揄うから「そういうところですよ」とか言われてしまうのだろう。つい追撃したくなるのをグッと堪え、名前が話題を変えようとした時のことだった。

「そういえば降谷く」
「!」

 前触れなく踏み込まれたブレーキに「うわっ」と上体が傾ぐ。が、即座に差し出された腕がそれを支えた。

「ボール?」

 てん、てん、と跳ねながら車の前を横切るボール。そしてそれを追いかけて子供が飛び出してきたのを見て、名前は急ブレーキをかけた理由を察した。
 ぺこっと頭を下げてから戻る子供に(もう飛び出しちゃダメだよ)と心の中で諭しながらにっこり笑って、再び動き出した車の中、先程支えてくれた褐色の左腕に視線を移す。

「さっきの、安室さん!って感じだったね」
「え?」
「ブレーキの時に支えるのって女性がきゅんとする行動の一つでしょ? モテ仕草っていうか」
「……そうなんですか?」

 訝しげな横顔に「そうそう」と頷いて返す。
 安室透はそういうことをサラッとやりそうだし、降谷はつんのめる姿を横目で見ながら「体幹の鍛え方が足りないんじゃないですか」とか言って支えてくれなさそうだ。
 そう続ければ、整った顔が呆れたように歪んだ。

「あなたは僕をなんだと思ってるんですか」
「だってやらなそうじゃん、降谷くん」
「やったじゃないですか」
「だから意外だなって」
「苗字さんだからしたんですが」
「そんなに体幹弱そう? 私」

 鍛えてるけどな、と首を傾げる名前に、数秒沈黙した降谷が「もういいです」と溜息を一つ。

「そういうところですよ」
「えっ?」

 今それを言われる場面だっただろうか。素で驚く名前をよそに、RX-7は無事目的地へと到着した。

「ありがとう」
「苗字さん」

 お礼を言って降りようとする名前を降谷が引き留める。

「親子丼、ご馳走してくれるの楽しみにしてますから」

 ――"まだ言ってる"のは、果たしてどちらなのか。
 未だ実現できていない約束に苦笑しつつ、名前は今度こそ降谷に別れを告げて目的地である警察病院へと足を踏み入れた。
 面会申込書を偽名で記入し、その足で入院病棟に向かう。そしてある個室の前で待っていた部下と手荷物の交換をし、その個室には入らず隣の部屋へ。警護の都合上、常に空室にしてあるそこは名前の着替え用の部屋も兼ねていた。

(よし、と)

 変装を解き、スーツに着替えてからようやく隣の個室のドアを開ける。
 途端に強くなる消毒液の香りと、抑揚のない電子音。ベッドの上に横たわる人物は一度だけ名前に視線を向けて、それからすぐ、興味を失ったように逸らしてしまった。

「起きてたんだ」

 声掛けに反応はない。
 頭部には包帯が巻かれ、布団から覗く両腕にはいくつもの管や点滴が繋がっている。覆われていない素肌は熱傷の痕が痛々しく、一目で重症患者とわかる状態だ。
 名前はベッドを通り過ぎ、窓を覆うカーテンを開けた。太陽が厚い雨雲に隠れている今、カーテンを開けたところで室内の明るさに変化はない。

「降ってきたね、雨」

 病室の窓を開ければ、ひやりとした空気が雨の匂いを連れてくる。そろそろ梅雨入りも近いだろう。背の高い庭木の葉にパタパタと雫が当たるのが見えた。

「わかる? 雨の匂い」

 好きなんだよね、私。そう続けながら振り向いたところで大した反応はない。せいぜい、垂れた目が訝しげに細められた程度だ。
 名前は苦笑してベッドへと近付いた。

「ごめんごめん。まだわからないよね」

 規則的な呼吸に合わせて曇る人工呼吸器。それを装着しているうちは空気の匂いなどわかりようもない。

「もう少しよくなったら、車椅子で庭でも散歩して――、!」

 横たわる男に笑いかけた瞬間、鋭い痛みとともに言葉が止まった。いつの間にそこまで回復していたのか、勢いよく伸びた手が名前の髪を無遠慮に引っ張ったのだ。慌ててシーツに手を突っ張っていなければ、男の上に無様にも倒れ込んでいたに違いない。
 男は反対の手で口元を覆う人工呼吸器を無造作にずらすと、焼けた喉で「なあ」と低く呟いた。

「ご機嫌なところ悪ぃがよ……生憎、何も吐くつもりはねぇ」

 傷だらけだが確かに整った顔が、あからさまに不快そうに眉根を寄せている。

「どれだけ厄介なモノを抱え込んだか、早々に思い知る羽目になるぜ」

 その言葉には嘘も誇張もないのだろう。敵意丸出しの視線に名前はふっと頬を緩ませて、その手に引かれるがままに顔を近付けてみせた。

「、は? おい…っ」

 鼻先が触れ合う頃には男の手も驚きに緩んでいて、力任せに引っ張られていた頭皮がようやく痛みから解放される。

「脅す元気があるなら何より」
「っ、お前」
「まずは怪我を完治させて、信頼関係の構築はそれからだね」
「……はあ…?」

 ゼロ距離でにっこり微笑む名前に、男が目に見えて戸惑うのがわかる。巨大犯罪シンジケートに長く身を置いていたとはいえ、まだまだ年相応なところもありそうだ。
 ――さて、ここからどう懐柔していくとしようか。名前は痺れを切らした男が「さっさと離れろ」と声を上げるまで、余裕の表情で思考を巡らせていた。