世界一幸せな女



(醜いと嬉しいと強がりの続き)



「……で、壁ドンされたいの?」
「え?」

触れるだけのキスをした後、黒尾先輩はぼーっとする私から一度離れた。あまりのかっこよさに距離を取れてホッと一息吐いたのも束の間。急に大きな影に覆われ、不思議に思い上を見れば、そこには大好きなお顔がありまして。
イケイケのおふざけ顔ではなく、真剣な面持ちの黒尾先輩がおりまして。じーっとこっちを見ておりまして。

「……」
「……」
「……っ」

思わず目を逸らしてしまいました。だって!こんなの耐えられない!真剣な顔をしてる黒尾先輩が目の前にいるのも、そんなイケイケなお顔をずっと見るのも、じっと見つめられるのも、好きな人の視界に自分が移ってるのも、何も言わずただこっちを見ているのも!その色気たっぷりなオーラも全て!!!耐えられない!!!!!

「ちょ、みょうじちゃん。全部漏れてる漏れてる」
「はっ!?どこからですか!?」
「こんなの耐えられない、から」
「最初から!?」

勢い良く口元を手で覆うも全て吐き出し終えた今では意味がない。今度は勢い良く口元から手を離し、漏れてると教えてくれたときに、黒尾先輩に戻った視線をまた逸らした。そして、口を尖らせながらこう言う。

「あの……壁ドン、されたいです」

視界に移るのはいつも使っている体育館の外壁。今、相手の顔なんて見る余裕はない。普段だったら素直に頼めていたと思う。けれど、嫉妬して、泣いて、ヤケクソになった後では普段通りが難しい。

「……ふっ」
「え……?」
「はい」
「!?」

小さく吹き出す声が上から聞こえ、自然と見上げてしまえば、すぐ目の前に黒尾先輩の顔。はい、と同時に壁に腕を預けて壁にドンされた。そして、口角を緩く上げた先輩は言うのだ。

「みょうじちゃん、ほんとかわいいね」
「っ!?!?!?」

心臓が飛び跳ねて叫びすら出てこない。いつもより低音の少し籠った声。至近距離で聞こえる必殺・色気のボイスに耐える装備は私にはない。思わず鼻に手を持って行けば、「えっ」と黒尾先輩は驚いた表情を見せる。きっと鼻血を出すと思ったのだろう。でも、今の嫉妬もりもりの私はいつもと違う。鼻血より未だお腹の中に残っている醜い嫉妬の方が勝ってしまった。

先輩の前でよく鼻血を出すようになってから黒尾先輩はティッシュを常に持ち歩くようになった。出るのを察しポケットに入ったティッシュを取ろうと一瞬私から離れようとする先輩の手をガシッと掴めば、また驚き目を丸くさせた。鼻血は大丈夫。それよりも。

「さっきの子はもっと近かったです」
「……」
「壁ドン、してる時、もっと近かったです」
「……」

ずるい。私も同じくらいの近さがいい。ううん、あの子よりもっと近い方がいいもん、なんてわがままを曝け出してしまう。瞬きを数回して今日何度目か分からないくらい黒尾先輩を驚かせてしまって。驚きながらも、いつもと違ったポカンとした表情になりながらも、素直に近寄ってお願いした通りしてくれる彼氏に、更に甘えという名のわがままを口にする。

「ここ、暗闇じゃない」

どうしてそんなわがままを言ってしまうのだろう。室内に戻れって言うのか!?それじゃあ、最初からこっちがいいとお願いしたらいいでしょう!自分で自分が発したわがままに怒る。
ドロドロに甘やかしたくなると言われ、醜い嫉妬を嬉しいと思ってくれる。わがままを言えば嫌な顔せずやってくれる。そこまでやってくるのに、私は更に私への想いを確かめたいらしく、どこまで心の中にあるわがままを言っていいのか、聞いてくれるのか試しているみたいだ。なんと、醜い。

「やっぱ」
「っは、はぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?」
「!?」

今のなしで!ごめんなさい!と頭を下げようとするのを割って、先輩は大声を発し頭を抱えた。今度はこっちの目が点になる。頭を抱えた先輩は私から少し離れてしまい、もう少し近くにいたかったと驚きながらも心がシュンとなる。

「せんぱ」
「ちょ、まって。まってまって」

今度は右手で顔を覆い、左手をこちらへ突き出し、動揺しているようにも見える姿をする先輩に段々不安になってくる。もしかして怒らせてしまった?これ以上近づくなって?

「それはちょっと難しいかもしれないです!」

近づけないなんて嫌ですよ!あんなことやこんなことが出来なくなるなんて!やっ、まだあんなことやこんなことし終えてないけども!
目に力をいっぱい入れて見つめながら近づけば、「ちょっとまって!?」と言われる。

「難しいです!」
「ナンデ!?」
「大好きだからです!」
「ありがとう!?でも一回待っ……」

ガッと効果音がつくような勢いで思い切り黒尾先輩に抱きつく。あんなことやこんなことが出来ないと思っている私。何かを待って欲しい先輩。お互いの思いがぶつかり、相手に伝わらないことでお互い動揺し、混乱する。会話になってないやりとりをしてから強行突破をしてしまう。これは思い込みと相手の話を聞かない私が100%悪いと後で反省することになるが、今はそれに気づけない。だから、抱きついてしまうのだ。

黒尾先輩のお洋服の匂いを嗅ぎながらゆっくり見上げると、そこには腕はしっかり私を包みながらも、酸っぱい梅を食べたかのような顔をして目を瞑り、首を横に背けてる先輩がいた。か、かわいい。

「〜〜っっはぁぁぁぁ…………」

そして、大きな大きなため息を吐いた後、横を向いていた顔を私の首元に埋めて、抱きしめている腕もぎゅーっと力が込められた。そして、また大きなため息。

「はぁぁぁ…………」
「……」
「……しぬ」
「え!?死ッ!?」
「うん。待ってって言ったのにみょうじちゃんが待ってくれなかったから」
「!?ごめんなさいっ!」

ため息と一緒に放たれた言葉に間髪入れず謝罪をすると、「いや謝らなくていいんだけどね」と言われ、続けられる。

「そんないきなり可愛いことたくさんされるとですね、黒尾先輩心が持たなくてですね」
「?」
「それに、みょうじちゃんも危険なのです。だからこれからは待ってください」
「はい!」
「ぜってーわかってねぇだろ」

危険、とはどういうことなのだろうか。とりあえず、これからは「待って」と言われれば待てばいいんだと思い、大きな声で返事をすれば、分かってないとまた弱々しい声が耳元で響く。それに肩をビクつかせてしまえば、気付かれたようで。どういう訳か更に先輩は唇を私の耳に近付けてきた。

「わかった?」
「っ」
「みょうじちゃん」
「……っわか」
「なまえ?」
「!?……わかっ、わかりましっっ、た……!」
「ほんとに?」
「はいっま、待ってくださっ、タンマ、タイム……!」

わかった。わかりました。黒尾先輩が言ってた「待って」の意味、なんとなくわかりました……!私が今思ってる「待って」が黒尾先輩も同じ「待って」なのかは信じられないけど、多分そうなのだろう。
え〜、なんて愉しそうに耳元でエロエロな声を放つ先輩にタイムと離れようとするも力強く抱き締められているから離れられるわけもなく。

「降参!降参です!!」
「ん〜」

むり、無理です。ほんとに鼻血出るかも。目をキョロキョロ動かし、この状況の打開策を考える。このままでは先輩の服に鼻血が付いてしまう!考えろ、考えるんだ!………………うーん!?ない。ない!!全然思い浮かばない。

「……あ」
「……」
「ん?」
「……」
「こ、づめくん。助けて」

通りかかった孤爪くん。冷たい目で何も言わずこっちを見つめ、すぐ逸らしスタスタ歩いて行こうとしている。私達が今いるのは体育館の外。でもこの時間は人通りが少ない、出入口からは死角になっている場所だから今までのやりとりをしている時は誰も通らなかった。
黒尾先輩に抱きしめられながら、手を伸ばして自分の鼻周辺を指さして必死に親友に伝える。鼻血が出そうだと。

多分伝えたいことは伝わっただろう。けれど、返事は「面倒くさ」。口には出していないけど、顔にそう書いてある。

「……クロ。そろそろみょうじ、倒れるよ」
「え」

孤爪くんの発言に先輩はこっちの状態を確認すべく離してくれた。孤爪くん〜〜〜!!心の友よ!!!親友のおかげで先輩に鼻血をつけなくて済んだとホッと息を吐く。

孤爪くんの前では何をしていても黒尾先輩は止めたりしない。今も顔は離したけど、私を抱きしめたままだった。流石に倒れると聞いたら先輩は離してくれてたけど、さっきまで感じていた体温がなくなっていくとそれはそれで寂しいと思ってしまう私はわがままだ。

「みょうじ」
「はい!」
「……球彦が探してたけど」
「え!たまたまが!?」

それは大変!直ぐに行かなきゃ!黒尾先輩に一度声をかけてから走り出した。








奇妙な走り方をするみょうじの後ろ姿を見送る二人。チラリと視線だけを黒尾に向けた研磨は数秒幼馴染の顔をガン見していた。何故見られているのか。その答えを察しの良い黒尾は気づいており、苦笑する。

「みょうじちゃんのこと、泣かせちゃったんだよね」
「……」

別に聞いてない。理由も予想がつくし、と思うも声には出さない。見ていたのはみょうじを泣かせたからとかではなく、ただ黒尾が何かを考え込んでいるように研磨は感じ取ったからだった。

「色々悩ませて、我慢させて泣かせちゃったんだけど」
「……」
「それが嫉妬でってわかったら嬉しくなったの、やばいよな?」
「聞かないでよ」

みょうじちゃんには笑顔でいて欲しい訳で。決して泣かせたい訳では全くなく。とブツブツ自分に言い聞かせてる独り言を吐く黒尾はまるで泣かせたいと思ってしまったのを必死に否定しているように見える。

「みょうじはクロが理由で結構泣いてるからね」
「あー……うん。それはもう本当反省してます」
「文化祭の時とかよく」
「え?」
「え?」
「……は?」
「……あれ、言ってなかった?」

きょとんとする研磨に段々目が大きくなる黒尾。反省してる、を指していたのはバレンタインの時のことだったのだろう。

「文化祭って」
「準備期間とか、あと当日は確実に。多分春高終わってからも結構な頻度であったと思うけど」
「……」

思い出すように空を見上げて平然と話す研磨の横顔を見つめながら、冷たい汗が流れ出る。そんなの知らねぇよ、みょうじちゃん何も言ってなかった……いや、あの子が言うわけねぇか、と過ぎてしまったことだとしても泣かせてしまった事実に焦る。

「なんで気付かなかったんだよ」

頭を抱え、自分の不甲斐なさに力のない声が零れる。まあみょうじも気付かれないようにするの結構上手いしね、という幼馴染のフォローではない事実を述べただけの言葉は黒尾にとってより胸に刺さった。








「ふんふんふーん!ふふんふんっ!」
「みょうじさん、黒尾さんいるからいつにも増して元気ですね!」
「うん!元気!」

自主練後。今日は黒尾先輩と一緒に帰れる日。先輩が高校生に戻ったみたいで嬉しくなるけど、隣を歩くのは制服姿じゃない先輩で、それもまた新鮮すぎてドキドキしちゃう!

ジャージから制服へ着替え終えてから、外で待っている大好きな人の元へ走って行く。

「お待たせしました!」
「……お、おう」
「?」

なんだか黒尾先輩の様子がおかしい気がする。孤爪くんと体育館に戻って来てからずっと変。待って事件の時は普通だったし、私は鼻血は出さずに済んで倒れもしなかった。他になにかしてしまったのだろうかと首を捻るも思い出せない。隣を歩く先輩はそわそわしているようにも見えて、もしかしてお花摘みに行きたいのでは!?と答えが出せた気がした。

「先輩!遠慮なくお花摘みに!!」
「え、お花摘み?」
「はい!コンビニがすぐ側にありますので!」
「……」
「ささあ!」
「男はお花を摘みに行きません」
「え!?」
「男はキジ撃ちって言うらしい」
「へー!」
「……なんの話してんだ?」
「おトイレの話です!」

目を見つめながらはっきりそう言えば、数回瞬きをした先輩がフッと小さく吹き出した。そして、優しく頭を撫でられる。

「わわっ、……へへぇ」

黒尾先輩の優しくて大きい手に撫でられるのは大好き。思わず変な声が口から溢れ出てしまった。

「ごめんな」
「え?」
「いや、そのさ、泣かせちゃって」
「えっ、え?……全然大丈夫です!」
「今回だけじゃなくて、今までのことも」

今まで……。

数秒考え込み、理解出来た。黒尾先輩と付き合う前の話をしているのだろう。急にその時のことを思い出して、少し恥ずかしくなり顔が段々と赤くなっていった。

「え?みょうじちゃん?」
「わっ、ちょっと見ないでください!」

急に黙った私に不思議に思ったのか顔を覗き込まれ、赤くなった頬がバレた。どうしてこんなに恥ずかしくなったのかわからないけど、必死に両手で顔を覆う。

「あの時は心がバイオレンスだったので」
「心がバイオレンス?」
「なので、ちょっと毎日おかしくて!」
「毎日……」
「私の心の問題なので大丈夫です!しかも今隣には黒尾先輩がいますので!!幸せです!」

あの時の自分は自分じゃないくらい心のコントロールが出来ていなかった。だからよく泣いていた。春高が終わって部に黒尾先輩の姿がなくなってからは特に。
そこまで考えて、ハッとする。これじゃあ、あなたのせいで泣きましたって言っているようなもの。

「違います!恋する女は毎日おかしいのです!」

何が違うのか。フォローになってない意味不明な言葉を並べるだけじゃ、先輩を混乱させてしまうだけ。もっと気の利いたことは言えないのか!小さい脳みそをフル活用し、段々目が回って来たところで、両頬を優しくて大きなあの大好きな手で覆われた。

「ほんと、ごめんな」

眉を下げた黒尾先輩がキス寸前までの距離まで近づき謝罪をする。あまりの近さに首を軽く縦に振ることしか出来ない。でも、私は黒尾先輩の彼女なので。この近さにも慣れてみせます!
今、黒尾先輩の心はきっと青色だ。晴天の青じゃなくて、悲しい青色!私は黒尾先輩の彼女!!!この青をピンクに変えてやるんだっ!

包まれている両手にそっと触れ、口を開く。

「では、あのっ、そのっっ、わがまま聞いてください!」

では、あのっ、そのっっ、わがまま聞いてください…………?

私がピンクになってどうするの!?思考がどんどん進み、脳内ピンクを考えれば考えるほど先輩にあんなことやこんなことされたいなぁ〜になり、気付けば謝っている相手に「謝るなら私のわがまま聞いてよ〜」みたいなことを言ってしまった。最低だ。先輩だってほら、また目が点になってる。

「すみません!間違えました!」
「……っぶふ、そうだな。なんでも聞きます」
「え!いいんですか!?」
「うん」
「じゃあ、あの、そのままおでこにちゅーとか」
「……」

謝ったもののなんでも聞くと言ってもらえて喜ぶ私はなんて欲深い女なんだ。前髪を上げ、お願いすれば無言になる先輩にまた我に返る。

「だめですよね!?すみませっ……ん!?!」

触れるだけの柔らかい感触が額にある。あとは?と小首を傾げて問われれば、喉の奥がヒュッとなった。私がピンクになってどうする!?と思いながらも、「手を繋ぎたい」とさっきも繋いでいたのに、お願いをしなくても毎回してくれることを頼んでしまう。

「たくさん言ってちょうだいね」

と手を繋ぎながら優しい顔で温かい声色で言われてしまえば、心がギューっとなるのは当たり前で。欲深い私は「じゃあずっと一緒にいてくださいね」と言ってしまうのだ。


「こちらこそ」


そう言って繋いだ手に力が込められた。

私は世界一幸せかもしれない。