あの日の約束
ジリジリと肌を焼く太陽が、雲一つない青空のどまんなかで存在感を放っている。私にとっての彼みたいだ。研磨はこんなに暑苦しくはないけれど。私は日傘の影に収まるように慣れ親しんだ道を歩く。去年の今日渡されたスペアキーで家に入ると、温度の低い風が肌を撫でて汗が少し引いた。すっと息を吸って大きな声を出す準備をする。どんな仲になったって礼儀は大切だ。
「研磨ぁ、上がるねー?」
いつも通り返事はない。代わりにスマートフォンがピロンと鳴った。これは入っていいよのスタンプだ。ちなみにダメだって言われたことがないから、入っちゃいけないスタンプはまだ知らない。知りたいような、知りたくないような。
お邪魔します、と一言添えて靴を揃えた。ひんやりとした床を少し歩いて扉を開ければ、画面に向き合っている研磨の背中。邪魔しちゃいけないかなと足音を止めた瞬間に彼はくるりと振り返る。
「誕生日おめでとう」
「……へ?」
「今日誕生日でしょ」
この前聞いたおはようと同じくらいの声色に頭がついていかなくて、ひとつひとつ文字を噛み締める。誕生日、そう、誕生日なのだ。覚えていてくれたんだ。理解してようやく喜びが生まれた瞬間、想いがぶわりと溢れ出して、私は研磨のそばまで駆け寄った。
「え!うん!当たり!今日わたし誕生日だよ!」
「うん」
「覚えててくれて嬉しい!ありがとう大好き!後で一緒にケーキ買いに行かない?アップルパイにする?」
嬉しさで舞い上がりながらも、暑いとか嫌だとか、もしかしたらもう買ってあるとか、いくつか思い当たる返事を考えていたのに。
「……いいけど。あとこれ……いる?」
「えっ?ん?なに?」
研磨が言ったのは、その想像のうちのどれでもなかった。自分の首につけていたネックレスのチェーンを首元から引き出して私に見せる。このネックレスが誕生日プレゼントってことだろうか。寄り添うように並んだふたつのリングにチェーンを通しただけのシンプルなネックレスだ。でも。
「あれ?研磨そんなの持ってたっけ」
「は?覚えてないの?」
見る見るうちに険しくなっていく研磨の表情に焦って、私は必死に頭を回転させながら記憶を辿った。無音に急かされ、えと、えと、と口から勝手に出て行く。もういいよと悲しくなるくらい呆れた声で言うものだから、つい大きな声を出してしまった。
「えっ!待って、ごめんごめん!!今思い出すから!」
「別にいい」
丁寧にネックレスの金具を外してチェーンごと私の手に握らせた研磨は、再び画面に向き合ってしまった。もう一度しっかり見て、あの日のことを思い出す。高校生の頃の誕生日の、子供じみた約束のことを。
「どう?似合う?」
「いいんじゃない」
「ありがとう。でもいいの?買ってもらっちゃって」
「誕生日プレゼントなんだから当たり前でしょ」
研磨は私の目をじっと見て言った。清潔感のある匂いと白い壁と明るいライト。高校生が入ったら怒られるんじゃないかってちょっとだけドキドキしながら入ったアクセサリーショップ。誕生日プレゼントを買ってくれると言う研磨にお願いして、時間をかけて選んでもらった小振りなピアスを耳につけた。店内の鏡で何度も見て、ピアスを指で揺らす。何回目かわからないありがとうを言った時、不意に視界に入ったのはペアリングだった。
「研磨はペアリングとか着けないよね?」
確信を持った問いだった。研磨が指輪をしているイメージがそもそも湧かないのに、お揃いだなんて嫌がるに決まってる。そんな予想を裏切って、研磨はペアリングのコーナーを無言で眺め始めた。隣で同じようにリングを見ていると、ようやく口を開いた研磨が私の名前を呼ぶ。
「どんなのがいいの?」
「え?えっと、あんまり凝ったやつじゃなくて……」
混乱したまま並んだ指輪に再び視線を落とした。お店に入ってすぐのところで見たドキッとするくらい綺麗な指輪を思い出す。でもシンプルすぎたら結婚指輪みたいになっちゃうよね、と恥ずかしさを誤魔化しながら言葉を続けると、研磨に見つめられて、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「じゃあ結婚指輪だと思って選んで」
「っ、え、え!?」
「……冗談だけど」
結婚なんて言葉が研磨の口から出てくるなんて、明日は空からスライムが降ってくるかもしれない。そうしたら勇者研磨に助けてもらって、じゃなくて結婚って言った?研磨はいたって真面目な顔で指輪を見ている。こんな冗談を言うタイプではないし冗談って言われたんだけど……本気にしてもいいんだろうか。
「えっ……と、これかなあ、色も可愛いし」
「うん」
「派手すぎないデザインできれいだし」
「うん」
「ねえ、ホントに買うの?」
よかったら着けてみませんか?と綺麗なお姉さんに言われて断ることもできず、ふたりで試してサイズが確定したところで研磨は「じゃあこれで」と何の躊躇いもなく言った。お姉さんが指輪の用意をするために奥に行ったのを見計らって研磨に小声で訴える。
「今じゃない」
「え……?」
「今年のはピアス。これは何年か先の予約」
どうせ買い直すけど。聞き間違いじゃなければそう言った。受け取った指輪をバッグにしまい込んだ研磨の後ろを歩く。研磨、私たち、いつか結婚するのかな。私には高校生じゃない研磨を想像することすらできないのに、大人になってもこうやってふたりで並んで歩いているなんて全然想像できないなあ。でも、一緒にいたい。何年もずっと。
「何年か先かあ、研磨は私に愛想尽かしてるかも」
「どうかな」
「うっ、愛想尽かされないように頑張らなくちゃ……」
「……おれには」
「うん?」
「おれにはなまえしかいないから、これからも」
「研磨……」
「…………今のところは」
「もう、すき、好き!大好き!」
「うるさい」
「指太らないように頑張るね!!指筋トレしなきゃ」
「なにそれ」
ふふ、と笑った研磨の顔を鮮明に思い出せる。指切りこそしていないけれど、そんな子供みたいな約束が冗談じゃなくなる時が来たのだ。どうして忘れていたんだろう。
チェーンから抜き取って片方を薬指に通した。するりと指に収まった指輪の輝きはあの頃と変わらない。きちんと手入れしてくれていたんだと思うと心臓が涙でいっぱいになった。どくんどくんと震えるたびに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
ねえ研磨、どうしよう。言葉にしなくちゃ、あの丸まった背中には届かないのに、ぎゅっと胸が苦しくてどうしたって言葉が出なかった。
鼻をすすった音に気付いて振り返った研磨が驚いたように目を見開いた。私の手元を見て、もう一度私と目を合わせる。綺麗な目に射抜かれて、その瞳も大好きだと思った。
「ねえ、研磨、ごめんね?」
「……なにが?」
「指輪、ネックレスになってて気づかなかった」
「…………」
「あのね、わたし、指、ふとらなかったみたい」
「貰ってくれるの」
「あたりまえだよ……」
もうひとつの指輪を研磨の薬指につけようとして手を取ると、こっちでしょと左手を出された。全然ダメダメだ、泣いてメイクはめちゃくちゃだしこんな時まで締まらない。何度も何度も涙を拭って、やっとのことで指輪をはめた。あの時伝えてくれた想いの返事を、貯めてきた全部を言葉にして伝えなければならないのだ。大きく深呼吸して、さいごの涙を拭った。
「わたしにも研磨しかいないよ、ずっと」
「うん」
「研磨が好き、だいすき。ずっと一緒にいたい」
「……うん」
「研磨は愛想尽かしてない?」
「愛想尽かしてたら家に入れてない」
「結婚指輪のこと忘れてても?」
「……冗談って言ったのはおれだし、それ学生が買えるような安いやつだし、どうせちゃんとしたやつ買うつもりだったから別に忘れててもいい」
「……ううん、私これがいいな」
このリングは高校生のあの日から今日まで、そして今日からずっと遠い未来まで、研磨の隣にいることを許されている証なのだ。二つ並んで寄り添っていた指輪は別々に離れてしまったけれど、指輪の代わりに、指輪と一緒に、私たちが寄り添って生きていくのだ。噛み締めて、これがいいともう一度言った。ふうんと研磨は興味ないふりをして言ったけれど、隠した感情が出てしまっている。
かわいい。そんなところも全部すき。だいすき。
「どう?似合う?」
「……うん。似合ってる」
「うれしい、どうしよう、うれしい!研磨ぁ」
「ふふ」
また潤みはじめた私の言葉に、研磨はあの時と変わらない顔でやわらかく笑った。そんな研磨のことも、ケーキを買いに外へ出た瞬間顔を顰めた研磨のことも、明日からもずっと堪らなく大好きなんだろう。