好きになる瞬間

珍しくマスクをつけて学校に行けば、友達に風邪を引いたのかと心配された。風邪は引いてない。ただ昨日彼氏に叩かれた頬と叩かれた際に切ってしまった口元を隠すためである。いや、彼氏じゃないか。元カレか。昨日、付き合っていた男に嫌気が差し、別れを告げると言い合いになり、最後平手打ちを食らった。年上なのに、容赦がない。平手にしてくれたのは容赦してくれたのだろうか。そんなこと今となってはどうでもいいけど。

数日前から音駒では文化祭準備が行われている。みんな楽しい雰囲気の中、表には出さないものの心の中はドロドロに落ちていた。

「もう、次探そ。次だよ、次」

付き合うなら絶対年上がいい。年上でも高校生は嫌だ。顔も性格も特にこだわりがないけれど、年齢だけは絶対に譲れない。そんな考えだから今まで何度も痛い目を見てきた。でも、絶対年上がいいのだ。

「あれ?一人?」

文化祭で使う部屋から普段使っている自分達の教室に来たら、そこにはバレー部の孤爪しかいなかった。みんなここじゃないどこかで作業しているんだろう。
一人?という私の質問に「うん」と素っ気ない返事をもらう。

「飾り付けのやつ?」
「うん」
「手伝う」
「え」
「……めっちゃ嫌がるね」

黙々と机の上で内職のような作業をしている孤爪の前にある椅子を引き、腰をかけると凄く嫌そうな声を出された。一人でやりたかったのかな。でもそれ、そろそろ仕上げなきゃいけないし、一人じゃ結構時間かかると思うし。嫌がってるのに気付きながらも、まだ完成していないものに手を伸ばした。

今やっているのは同じものを何個も作る作業で、一緒にやっているようにみえて個々で行っている。遠くからガヤガヤと音が聞こえてくるけれど、私達がいる場所は物の擦れる音だけが響いていた。

孤爪、というクラスメイトはいつもゲームをしていて、静か、そしてバレー部に所属している。ということしか知らない。どんな性格なのかも知らなければ、どんな話題に興味があるのかも知らない。知らないところで、知りたいとも思わないのが本心だ。

単純な作業の繰り返し。遠くから聞こえてくる心地よいくらいの話し声。いるかいないか分からない程、気配が薄いクラスメイト。段々眠気に襲われて、あくびが出た。

「いたっ」

大きく口を開けた瞬間、痛みが走る口元。そうだ、切れてたんだと思い出す。急に声を上げた私に目の前にいる孤爪は不思議そうにこっちを見てきた。

「口元怪我しててさ、あくびしたら痛かった」
「そう、なんだ」

そこで会話は終了。まあ、ほとんど話したことない同級生にいきなりこんなことを言われても困るだろう。孤爪に対してクラスメイトであること以外何の感情もないし、何にも思わないけど、それは向こうも同じ。
そういう相手だからこそ、友達にも濁して話した内容を口にしてしまったのかもしれない。

「昨日、叩かれたんだよねぇ。彼氏に」
「え」

ここ、酷くない?ってマスクを外して頬と口元を見せると、こっちを見る孤爪の目が少しだけ見開かれる。

「叩かれたというより殴られたような衝撃でね。まだパーだったから良かったけどさ、頭取れるかと思った」
「……」

頭が取れる。最後にちょっとした冗談を混ぜてみたのだけれど、どうやら失敗だったらしく怪訝な顔を向けられた。なんとなく言いたいことは分かる。

「別れたけどね?」
「……」
「その別れ話の時に最後、ガッと」
「……」

別れたと知った瞬間、硬くなった表情が緩んだと思ったけど、続けて発した言葉に元に戻る。この人ってこういう顔するんだ。関わりがなかったし、いつもいるかどうかも分からないくらいのクラスメイトの意外な一面に触れて、少し面白いと思った。こういう話をすると結構深いところまで聞かれることが多いけど、孤爪はそういうのがなかったから、少し嬉しかった。多分、興味がなかっただけなのかもしれないけど。

こんな話聞かせてごめんね、という謝罪のあとに「孤爪って彼女とかいるの?」と聞いてみた。いなさそうでいそう。

「いない」
「そうなんだ」

会話が終了した。好きな人とかいるの?まで聞いたら、嫌がりそうだったから盛り上がる別の話題を探そうとしたところで、ピタリと手を止める。

なんで私は孤爪相手に盛り上がる話題を探そうとしてんだろう?

別に話さなくてよくない?でもせっかく一緒にいるんだから無言はね……。などといつもなら考えないことまで考え出す。
チラリと前を見れば金色に染めた髪を垂らす孤爪がいる。なんで髪染めたんだろう。ただ理由が知りたくて聞こうとした時、ガタッと教室の扉が開いた。

「研磨!!今日の部活…………ハッ女子っ!?」

扉の音に肩をビクッと跳ねさせた孤爪は、自分を驚かせた犯人である一組の山本を睨む。そっか、山本もバレー部だよね。去年同じクラスだったから覚えてる。
部活が同じじゃなければ関わらなさそうな意外な二人の組み合わせ。どんな会話をするんだろうと興味が湧いた。

けれど、女子と話すのが苦手な山本は私の姿を確認すると、挙動不審な動きをし出す。「研磨が……女子とふたりで……」などとオロオロしてる。何をするか分からない動きのせいで、足元に置いてあった荷物に気付かず、躓いてしまったのだろう。裏返った驚きの声と共に盛大に尻もちをつき、落ちる直前腕が机に当たり、そこに置いてあった飾り付け用の花びらがヒラヒラ舞った。
キョトンと呆けた顔にヒラヒラ花びらが舞い落ちる。なんともシュールな光景に笑いが込み上げてくるのを必死に耐えた。

「……ぷっ」

シーンと静まる中、一番に声を上げたのは孤爪だった。自然と視線をそっちに移してみると、吹き出した後、肩を震わせながら声を殺して笑っている孤爪がいる。
下を俯き笑い、暫くその途切れた笑い声が教室に響いた。

こんなふうに笑うんだ。

ひとしきり笑い終えた孤爪は山本を見て「大丈夫?」と聞くその顔は心配とは無縁で。愉しそうに目を細めて笑うこの男から目が離せなかった。

こんな顔するんだ。

そう思った瞬間、ドクンッと心臓の音が聞こえた気がした。もっと色んな顔を見てみたい。普段どんなことをして、どんなことで笑うんだろう。さっきまで興味なんて微塵もなかったただのクラスメイトのことが今は知りたくて仕方がない。
たった一瞬の、ただ笑った顔を見ただけなのに、こんな簡単に心が揺らいでしまっていいのだろうか。頑なに年上がいいと思っていたのが嘘のようにどこかになくなる。都合が良くて、調子が良くて、単純な不可解な自分の気持ちに不快に思いながら、気づけば声に出していた。

「好きになっちゃった」

孤爪を見て、両手で口元を隠しながら言う。山本を見ていた横顔がこっちを見て視線が絡み合った時、もう一度言う。「孤爪のこと、好きになった」そう言えば、猫目が大きく見開いて「え」と気の抜けた声を発し、間抜け面を見せてくる。


こういう顔もするんだ。
かなり好きかもしれない。