バニラクリームの唇
いつもと同じ無香料のリップクリームを買ったと思ったのに、私の手元にあるのはバニラの香りをしたリップクリーム。
ちゃんと見て買ったんだけどな。でもまあ、香りがあったところで、いつものと大して変わらないだろう。そう思いながら封を開けて唇に塗った途端、甘い香りが鼻を掠めた。
買い直そうかな。ハンドクリームでも化粧水でも、なんでも香りのついたものをあまり買わなかった。買わない理由は特にない。ただ、「香り」を余計なものと捉えて、何も入ってない方がいいかなって思ってるだけ。
普段、匂いがしないものを使っているからこのバニラの香りがするリップが甘く感じる。というより、甘ったるいとさえ感じてしまう。味はしないのに口の周りに溶けたバニラアイスがくっついているみたい。興味本位で舌を出してみれば、アイスのような美味しさなんて一ミリもなく、食べてはいけないものを口にした罪悪感だけが体内に溶け込んだような気がした。
でも、いい匂い。もし私に彼氏がいたら、このリップクリームを毎日つけようとさえ思ってしまう程には気に入った。だけど、私には彼氏はいないので。元の無香料リップクリームに戻そうと帰りに寄るドラッグストアを脳内マップで検索をかけた。
「なんて顔してんの」
脳内マップが目的地を設定した瞬間。ガタッと椅子を引いた音とバカにしたような笑い声を同時に上げたのは、隣の席の角名倫太郎くん。私は席に着いていて、角名くんは椅子を引いて腰を下ろそうとしている。自然と見下ろされているこの角度からはより小馬鹿にされているとうに感じた。
なんて顔してんの。と言う彼の目に今映っているのは眉を顰め、唇を尖らせている私の顔だと思う。
「この顔は脳内マップ検索中の顔」
「脳内マップ?検索中……?」
なにそれ、と言いながら席に着いた角名くんは頬杖をつき、口角も目元も緩やかな弧を描き笑った。笑う。ではないかも。どちらかといえば、ニヤニヤしてると言った方が正しいかもしれない。
「帰りにこれ買い直そうと思ってね」
「リップ?」
「うん。いつもは無香料のリップ買うんだけど、間違って匂いあるやつ買っちゃったんだ」
「へぇ」
興味あるのか、ないのか。どちらにも取れる反応を見せる角名くんにこの甘い香りを嗅いでもらおうとリップの蓋を開けて、腕を伸ばした。流石に私の唇につけたものを「バニラっぽい匂いするでしょ?」なんて言いながら直接持っていくのは失礼だと思い、薬品の匂いを嗅ぐように手で仰いで角名くんに香りを送ってみた。
興味のない人に無理矢理嗅がせるのは如何なものか。せっかく鼻を近づけ、匂いを嗅いでくれている角名くんに自分本位な考えでリップを手元に引き戻す。蓋をしようと角名くんからリップに視線を向けてすぐ。
「全然わかんねぇ」
と、感想をもらった。
「あれ、しない?」
「うん」
甘い匂いするんだけどなぁ。ここからでも。つけた唇の温度で溶けて匂いがするとか?そういうの……?手で仰いでも匂いはしないのか。
角名くんにやったみたいに手で仰ぎ嗅いでみたら、微妙な匂いしか届かない。手で仰ぐのがいけなかったみたい。
「バニラの匂い、めっちゃするんだよね。きっとこれバニラアイスみたいな味するよ。食べてみる?」
「先にみょうじさんが食べてみせてよ」
「……」
バニラアイスのような味はしない。さっき試したから分かる。先に食べてみてと言う角名くんの顔は企みの含んだもので、黙る私を見てケラケラ愉しそうに笑う。
角名くんは私を揶揄うのが好きだと思う。思うというか前に言っていた。「角名くんって揶揄うの好きだよね」って聞いたら「みょうじさんにだけね」ってまた揶揄われた。
冗談だってよく言ってくる。シャーペンの芯が手に刺さった時は「早く取らないと血液に混ざって心臓にぶっ刺さるよ」とか、私が苦手なグリンピースを見て「グリンピース食べたら頭良くなるらしいよ」とか、お化けが怖いと言えば幽霊が出る噂の場所に行ってみる?なんておふざけのお誘いをしてきたり。
角名くんの揶揄いには慣れて来たけど、ここ最近心を揺るがす揶揄い発言をされてからはどうも調子が狂う。
「多分、ここに塗ったら匂いがより出やすいのかな」
そう言ってキャップを取り、さっき塗ったばかりの乾燥していない唇につけてみる。どうにかしてあっちのペースにならないよう、必死だった。だから、変なことを口走ってしまうのだ。
「嗅いでみる?結構、匂いあると思うけど」
「……は」
目線は蓋を閉めるためリップに。指先は唇を数回トントンと。思考はどこか違う世界に。聴覚だけが目の前にいる彼の呆けた声を拾った。
「嗅いでいいの?」
「……っあ、違う!まちが」
「じゃあ、遠慮なく」
「!?」
違うと両手を使い顔の前でバツを作るも、角名くんの鍛えられた手によって簡単に解かれ、目の前にある自分の腕は一瞬にして消え去った。視界には角名くんの顔でいっぱいになる。
すーっと高い鼻先が唇付近で止まり、息も止まる。ゴクリと息を呑むことしか出来ないまま数秒。向こうが少しだけ距離を取った。といっても、ほんの少し。
「あ、ほんとだ」
甘い匂いすんね。そう言っていつもは上から見下ろされることの多い角名くんの目が今は下にある。上目遣いにも取れるその角度に再び呼吸の仕方を忘れた。……なんかずるい。
そんな私を見て角名くんは自席に座り直し、いつもみたいに揶揄いの表情で怪しく笑った。
「意識してくれた?」
心を揺るがす揶揄い発言。それは、角名くんから告白。「好き」と言われたこと。いつもみたいに揶揄っているのだろうと思ったけど、表情が全然違ったし、初めに「冗談とかじゃないから」というのも言われた。
意識してくれた?なんて、そんなの告白される前からしてる。でも、今の私にとって彼氏というのはこの甘い香りと同じく「余計なもの」なのだ。告白をされて舞い上がったくせに、今の関係を崩そうとはしない。友達にこのことを相談してないけれど、きっと伝えたら面倒くさいと言われるだろう。私だってそう思う。
でも、今は彼氏はいらない。
それなのに、目の前の男は頬杖をついて愉しそうに言ってくる。
「かわいいね」
冗談なのか、本気なのか。私の熱くなった頬に気付いて言っているのか。冗談ならやめて欲しい。角名くんといると、彼氏が必要なものになってしまうから。