結婚記念日
あと5分。壁に掛かっている時計を睨みかける。動くな、動かないで、まだ今日を終わらせたくない。そんな思いを込めてより一層眉を顰めて見つめるが、カチッと針はまた明日へと動き出した。
「結婚記念日なんだけどなぁ」
シンと静まるこの部屋にぼやくように言い放っても返事は返ってこないし、ただ空気が重くなるだけで自分の言葉にまた沈む。
結婚して一年。倫太郎は覚えているだろうか。プロのバレーボール選手として活躍する彼は家に帰ってくることが少ない。今回も遠征に行っており、会えない日が続いている。予定では今日帰ってくると聞いていたけれど、それもあと3分で終わってしまう。
今日送られてきたメールの内容はいつも通りの他愛もない話で、もしかしたら…
「忘れてるのかも。記念日だってこと」
自分の言ったことにまた悲しくなり、う…と胸を押さえた。やめやめ!駄目だよ、こういうのは!私、凄く嫌な嫁じゃんか。倫太郎は頑張ってるんだよ!バレーをしている倫太郎が好きだ!全て好きなんだ!!支えるって決めたんだよ!
「でも何もないのは悲しい…」
そう呟いたところでふたつの針は12の位置で重なる。私達の記念日は明日になってしまった。
そこで先程とは違う意味で時計を睨みかけ、フツフツと倫太郎への怒りが湧いてきた。
「帰って来れないのはいいけどさ!電話とかメールでもいいから何かないわけ!?」
はっ!まさか本当に忘れてる?一年目で?スマホばかり見ているあの男が…?スマホを見ている見ていない関係ないけどさあ!!
帰って来ない、忘れているかもしれないという悲しさは怒りへと変わり、私しかいない部屋で一人ぐるぐるとその場を忙しく動き回った。
「そうだ。お祝いに買ってきたケーキ食ってやろう」
いい。あんなやつ知らん。冷蔵庫を開けてちょっとお高めな以前から気になっていたお店で買ったケーキを取り出す。取り出したところで、ふと動きを止めた。
「この時間に食べるのはちょっと…」
うん。やめよう。倫太郎にムカついて何で私が太らなければいけないのだ。…いや、ムカつくから食べてもいいのか??
悩んだ末、そうだ!どうせならバランスボールをやってダイエットでもしようかな!なんて当初の目的とはかけ離れたことをする。「あれ、太った?」とかふざけたことを言ったあいつに見返してやろう。……実際、太ったんだけど…。
動画を見ながら、ストレッチや体幹トレーニングをしていたらあっという間に一時間程度、経っていたようで。あとひとつ。バランスボールを両膝で挟み、体幹を使ってそのまま維持。あ、いい感じ。これ最高記録狙えるんじゃない?
少しテンションが上がった瞬間、バンッと扉が開く音に驚き、「ブフォ…」という女らしくない声と共に顔面から床に落ちた。
「………なにしてんの」
待ちに待った人物。上から降ってきた声に目付きを鋭くさせて顔を上げた。第一声がそれですか。
「なにしてんのじゃ……わ、!」
バランスボールはコロコロ何処かへ転がり、ソファーの力を借りるべく手を置いて重い腰をあげようとした時、いきなり視界一杯に広がったのは倫太郎のジャージ。これは抱きしめられてる?そう理解した時には上からのし掛かる重さに耐えきれず既にソファに座っていた。
「あー…疲れた」
「……」
「ほんと何やってんの、なまえ」
そう言ってギュッと更に力を込める倫太郎に普段なら頭のひとつやふたつ撫でていただろう。しかし!私は今怒っている。それを知ってか「ごめん…」と弱々しく放たれた。
言い訳なら聞きますけど、なんてトゲのある言い方をしてしまって直ぐに罪悪感が芽生えたが、相手は特に気にしていない様子で口を開く。
「直接、言いたかった」
そう言って私から離れて脱力したように隣に座りソファに体を預ける。それから天井を見上げ数秒経った後、背もたれの上に乗せていた首を起こしてこちらを見た。
「俺と結婚してくれてありがとう」
その言葉に視界が滲み大好きな旦那の顔がボヤける。
「一日遅い!!」
「ごめんって」
優しく頭を撫でられてから、私はバランスボールをやるから!と言って立ち上がった。
深夜、1時。体幹おばけの異名を持つプロのスポーツ選手のご指導のもと行ったトレーニングは数日間、筋肉痛という痛みが体に響いた。
「ねえ!動画撮らないでよ!」
「自分がどうなってるか見るのも大事だよ」
「嘘だ。絶対楽しんでるだけじゃん」
「あ、バレた?」
俺の奥さん可愛いなって思って
スマホ越しから見える目は少しだけ細められていて、何も言われていないのにとても愛おしそうするもんだから、数時間前の悲しさと苛立ちは消え去った。
疲れているのに「見本を見せて」と言えば、何回も付き合ってくれて、テーブルにちょこんと置かれたコンビニのケーキに気づいた時は跳ね上がって喜んだ。
「食べていい?買ってきてくれたの?」
「食べたいって言ってたとこのケーキじゃないけどね」
「それは自分で買った!」
ドヤ顔で言い放つと目を瞬かせた倫太郎は少し黙った後、流石と吹き出す。それから「太るよ」と続けて言われ、結局バランスボールに戻った。