2023/05/14
Be peaceful
徹夜プトを寝かしつける話
S16のストーリーネタバレ注意
* * *
恋人の珍しいメガネ姿に、私の胸はキュンと甘い痺れを覚えた。が、その直後。つぶさに彼の姿を確認し、私は戦慄いた。
「……いつから寝てないの?」
「いつの間にか意識が飛んでいる事があるからな。小刻みに寝てはいる」
「それは気絶してるんだってば!」
とんでもない事を言い出す恋人をモニター前から立たせ、寝室まで背中を押した。
途中テジュンは「まだキリが」とか「せめてシャワーを」だとか言うけれど聞こえないフリをした。体を酷使した人間に急激な負担を掛けたらとんでもない事になるのは火を見るより明らかだ。
柔らかなベッドの上に座らせ、掛け布団をせっせと掛ける。テジュンは不満気だが限界なのだろう、抵抗する事なく大人しかった。
「パソコン周りは触らないし、掃除して軽食も作っておくから。ゆっくり寝てね」
「いや、だが……」
私はテジュンを安堵させる為に必要最低限の言葉を告げ、部屋の照明を消そうとしたが、やけに必死な彼の言葉に手を止めた。
いつもはテジュン自身、無理をしている自覚があるのか渋々眠りにつくのだが、今日のテジュンは普段よりも切羽詰まっている様に見えた。
「急ぎなの?」
彼はハックのメンテナンスだったり、はたまた資金作りなのかよく分からないプログラムを組んでいて、売れっ子作家の様に絶えず締め切りに追われている。
元来の真面目な性質からいつも彼は精神的に追い詰められているが、それとも違う神妙な顔付きだった。
「……一週間後にシルバ邸でパーティーがあるだろ。その時にライフラインがシンジケートの情報を奪うのに協力してくれる事になった」
「アジャイが……」
アジャイとオクタビオはかなり付き合いの長い幼馴染らしい。けれどここ最近の二人はどこか気不味そうで、どことなく探ってみるとアジャイからテジュンと話す場を設けて欲しいと頼まれた。
更に彼女から事情を聞くと、今のシンジケート体制になってから大きな問題点を発見したが、父に代表であるドゥアルドを持つオクタビオとその処遇に関して意見が決裂したらしい。
そして、彼等に立ち向かう為に仲間を探していると彼女は力強く言った。
「遂に、ここまで来たんだね……」
「ああ。だから、彼女に万全のツールを用意しなければ……」
テジュンは自らの潔癖を証明する為に、そして復讐をする為に、シンジケートの弱みを探している。
またとない機会だ。いや、これを逃したら二度と彼等の深層に接する事はないだろう。だからだろう、テジュンの血走った目はいつになくギラギラと野生的な光を湛えていた。
「そうだね。完璧に仕上げなきゃ……だからこそ今は休まないと」
「だが」
テジュンの顔色は青い。体はとっくに限界を訴えているはずで、普段の冷静沈着な彼なら流石に休養を摂るだろう。けれど、大きな流れに珍しく焦っている。
「だって、テジュンが明らかにずっと寝てない様子で、更には反シンジケートの皆がソワソワしてたら動きを勘付かれてもおかしくないし」
「それは、」
「試合のスケジュールもあるんだよ。いくらツールが完璧でもテジュンが試合中に、もし……」
この先は言葉にしたくない。躊躇いがちにテジュンに視線をやると、呼応するかの様にゆっくりと彼の顔が近付く。
メガネのフレームが私の頬に触れ、カチッと小さな音が鳴った。気にせず押し付けられた唇は乾燥し切っていてカサカサしている。
決して感触は良くない。けれども、啄む様に口付けを交わす度に、温かなものが私の胸を満たしてゆく。
「その先は言わなくていい。……君の気が済むまで寝るさ」
「そっか。……有難う」
メガネをサイドテーブルの上に置くと、テジュンは大人しくベッドの上に体を預け、目蓋を閉じた。
警戒心が強い彼の、無防備な姿に愛おしさが急速に募る。辛抱ならず、私は慈母の様にテジュンの頭を優しく撫で上げた。皮脂の所為で指通りが良くない髪でも、何故か全く気にならなかった。
「目を閉じて、しばらくするといつも俺は雑踏とした汚い街を走っているんだ」
彼は私の手を止める事なく、目を瞑ったままぼそりと言った。
「同じ様な雰囲気の場所で、いくら走っても風景が変わる事はない」
「怖い夢だね……」
一人で寝る時、私もどこか漠然とした不安に襲われる事がある。そんな時見るのは決まって恐ろしい夢なのだ。あの孤独感は、辛い。
テジュンと私では経験して来た事が全く違う。だからどんなに頑張っても、完全に彼の事を理解し切れる日は来ないだろう。
夢に出て来る地獄の質も深さもきっと違う。
けれども、私はテジュンに寄り添いたい。側にある体温だけは貴方が望む限り永遠に存在するのだと、彼に伝えたい。
「夢は記憶を整理する為に見るんだろう?眠りにつく度に、この選択をした事について俺は考えているらしい」
テジュンは自嘲気味に笑うが、誰が彼を笑えようか。運命に抗おうともがくテジュンは誰よりも高潔な存在だと私は信じている。
「ひたすら前を向いてるって事じゃない。今は見えないかもしれないけど、ゴールは必ずあるよ」
いつの間にか黒褐色の瞳が私をじっと見ていた。その視線に私のものを余す事なく絡ませると、照れ臭くなったのか誤魔化す様にテジュンは曖昧に笑った。
「……手、握っててもいいか」
「ご飯と掃除はいいの?」
「起きてから一緒にやればいい。だから、」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
シングルとしては広いがダブルとしては狭い寝台に私は乗り上げ、彼の隣に収まった。
スペースを作る為に、彼の体を奥に詰め、無理矢理押し入って来た私が面白かったらしいテジュンはクスクスと笑った。
「この展開は流石に予想外だ」
「でも、これだけ近かったらテジュンの夢に私が出て来るはず」
彼の最初の要望通りに手と手を繋ぐと、再びテジュンは目蓋を閉じた。その顔は穏やかに見えた。
「ああ。そうだろうな」
「おやすみ、テジュン」
しばらくすると規則的な寝息が私の耳に届いた。彼を起こさない様に用心しながら、私は繰り返し触れるだけのキスを贈る。
無神論者だけれども、これくらいの祈りは許して欲しい。
どうか大切な人がいい夢を見られますように。