地獄篇



地獄というものを、見たことがおありでしょうか。
こうお伺いすると、大抵の人は怪訝そうな顔をなされます。ええ、当然でしょう。地獄というのは、死後に行き着く場所です。逝き着く、場所です。そんなところを見たことがあるか、など、私と対面をし、会話をしている人、つまるところ今現在を生きている人間に聞いたところで、さしたる意味はないのです。
そう、そもそもこの質問自体にさしたる意味はなく、また大して興味もありません。残念ながら。
だって、私の見ている地獄というのは、私にしか見られないものなのですから。なのでこれは、ただの気まぐれです。手遊びです。独り言と、そう大差ありません。誰に聞かせるつもりもなく、また、慰めてほしいわけでも、悼んでほしいわけでもありません。
ええ、そうです。
私は知っています、地獄というものを。見たことも、行ったこともあります。艦である私が、人の形をとるようになってからもう幾年経ったか分かりませんが(数えることも、やめてしまいましたが)、私がこの地獄を知ったのは、まだ私が幼い姿をしていた時のことだったと記憶しています。今にして思えば、その“幼い姿”だったからこそ、地獄は私の目の前に、ぽっかりと大口を開けたのでしょう。落とし穴のように。一度足を滑らせてしまえば、もう決して這い上がってくることはできない、そんな深い深い穴に、私はまんまと落ちてしまったのです。
そう言うと、皆は口を揃えて「なぁんだ、地獄というのは、ただの比喩ではないか。本物の地獄に落ちた、というわけではないんだな」などと仰います。ええ、たしかに。例え話としての、表現技法としての地獄、という見方もできるかと思います。私の見た地獄、私が、見続けている地獄というものを。
だけれど、私の世界は、その日を境に一気に折れ曲がったのです。折れて曲がって、ひしゃげてしまったのです。それを地獄と言わずに、なんと言いましょう。
私は確かに、地獄を見ました。そしてずっとそこにいるのです。私の世界は、地獄足りえるのです。
あの日の夜から、ずっと、そしてこれからも永遠に。

私は、夜空というものが嫌いでなりません。夜はいつだって私たちを暗く包んで、その一寸先まで見通せないようにしてしまいます。そして極め付けに、毎日毎日私たちの身体に子守唄を囁き掛けてくるのです。まるで、これから後ろめたいことをするから、私たちの目があると困る、とでも言うように。
夜は優しい安穏のベールを被り、私たちをいとも容易く欺いてくるのです。そして幼い頃の私は、それを分かっていながらも、あの囁き掛けに、負けてばかりいるのでした。
夜が隠していた、後ろめたいこと、というのはなんだったのでしょう。私はそれを、未だに知ることができません。そう、絶対に知ることの出来ない夜の神秘。それがもしかしたら、私の姉に関係のあることなのかもしれない、と幼い私が思いいたるまでに、そう時間はかかりませんでした。

「寒くない?」
その日、私たちは揃って夜の海を見つめていました。私たちの居場所である海の上から、ではなく、ただいまと言うに相応しい、鎮守府から。
そこは、かつての私たちのお気に入りの場所でした。今はもう、新しい艦の着任により、増えた寮の建っているその場所が、私と彼女の秘密の場所だったのです。
まだ妹が生まれる前の話でしたので、随分と前のことです。私たちは未完成で不完全な姉妹でした。姉は私を膝の間に抱え、己ごと毛布に包みこみます。それが私たちの作法で、こうする時のお決まりのポーズだったのです。
姉さんには内緒なのですが。私はこの時間のことを、とても怖いものだと思っていました。なるべくなら、避けて逃げたいイベントだったのです。私と姉さんの出撃がない時にだけ行われる、その秘密めいた儀式。私はそれが嫌いでなりませんでした。
姉さんが私を呼ぶ声の、なんと穏やかなことでしょう。姉が、大好きな夜を前に、そんな落ち着いた瞳をしていることに、こちらの気持ちの方がそわそわと浮き足立ってきたことを、私はよく覚えています。何か、よくないことが起こる前兆なのではないか。幼い私は、そう考えざるを得ないのでした。
そしてその予感はばっちりと、当たってしまったのです。
「神通が生まれた日も、こうして海を見てた」
姉さんは、夜の海に目を奪われたままでそう言いました。それはこうした時に、必ず話す姉さんお得意の寝物語だったので、私は曖昧に相槌を打ちました。だって、分かっていたのです。彼女が、私をどれだけ愛してくれているか。そんなことをわざわざ言って聞かせてもらわなくとも、私には実感として、その確信があったのです。姉は、おそらく私という妹をなくしては生きていけないでしょう。
大切なものが増える、というのは、とても喜ばしいことで、そして同時に、とても恐ろしいことです。かく言う私ですら、もう、妹なくしては生きて行けはしないでしょう。どんな地獄でだって――こんな地獄でだって、生きていけるでしょう。彼女の輝きを、見失わなければ。
「神通」
彼女は、私の姉は、たくさん私の名前を呼びます。物心ついた時からずっとこうなのですから、きっと、私が私という人格を形成するその遥か以前から、彼女は私の名前をたくさんたくさん呼んだことでしょう。
それでも、姉は私の顔を見てはくれません。彼女の視線は、暗黒のように黒々として海へと釘付けになっています。もちろん、だからと言って私よりも海の方が大事だということにはなりません。そう、私は分かっているのです。私は姉の宝物で、かけがえのない存在であるということ。
その、塩辛い水の塊を見つめる時の姉の瞳が、私は嫌いでした。いいえ、嫌いでした、ではなく、今でも嫌いです。過不足なく、なんの疑いもなく。彼女のその瞳を見つめていると、なんだか今にも海に身を投げてしまいそうな気がするのです。絵本の中の、あの哀しき乙女のように。
もちろん、人のかたちをしていても、私たちは艦です。船です。だから、今私が走り出して海面へと飛び込んだところで、私の身体は沈んだりしません。それくらいはちゃんと、知っています。知っていて、なお。
私は、姉が連れ去られてしまうのではないかと、思うのです。あの真黒い海の、底意へと。
姉がいなくなってしまえば、私はきっと生きてはいけないでしょう。彼女が、私をなくして、また、私が妹をなくして生きていけないように。私は姉をなくして、生きていけないでしょう。これはきっとそういう呪いなのです。末の妹だって、きっとそう。あのこだって、私たちなくして、生きてなどいけないのです。そう、決まっているのですから。
私にとって世界とは姉であり、妹が出来てその世界がより強固に完結した、それだけのことなのです。三人であるために、生まれてきたのです、私たちは。
そんなことも知らない当時の私にとって、姉が、姉だけがどれほど大きい存在だったでしょう。そしてそれを連れ去ってしまいそうな海が――夜が、どれだけ恐ろしいものだったでしょう。
よせばいいのに、私は姉の胸に、しっかりとしがみついていました。こういう時は、眠いふりをして部屋に戻ってもらうのが定石でしたが、私はこの日に限って、そうしなかったのです。そう、この日に限って。
常とは違う私の様子に、姉はすぐに気が付いたでしょう。そして私の指から、背から、怯えを即座に感じ取ったことでしょう。姉は、聡い人なのです。
その時、姉は何を思ったでしょう。奈落の底のような海に、漆黒の弾丸で染め上げたような夜に、私が怯えていると、思ったのでしょうか。だから、私の頭を、優しく優しく撫でたのでしょうか。

まさか、私が彼女に、姉自身に怯えていると、夢にも思わずに。

私はひどく傲慢な子供でした。失うことへの恐怖を、私に与えたもうた彼女を、狂おしいほど愛し、そして、心の底から恐れていました。想えば、それは予感だったに違いありません。私を地獄へと突き落とす、たった一つの方法。その鍵を握る姉が、恐ろしくて仕方なかったのです。
いいえ、誤解のないように言っておきますが、私は彼女のことを深く愛していました。失うことを、恐れるほどに。それはだから、矛盾。私は彼女を愛し、そして彼女から愛されていることを知ったからこそ、彼女にひどく怯えていたのです。だから、そんな予感があったならば。
私のこの夜の行動は、愚行と言って差し支えないものだったでしょう。私は、姉に悟られるべきではなかった。この恐れを。痛みを。
「神通」
大丈夫。姉は、慈愛に満ちた声で言いました。何にも怖いことなんて、ないんだよ、と。その言葉に、私がどれだけ怯えたことでしょう。怯え、恐れ、そして、どれだけ、救われたことでしょう。
「神通のことは、私が一生守ってあげる。一生私が、傍にいてあげる」
姉は、私の頭上で笑ったようでした。そして私は、とうとう顔を上げてしまったのです。
それが、一歩。地獄へと至る、一歩であるとも知らずに。
その時見た姉の目を、私は生涯忘れることはないでしょう。
夜の空を背負い込み、私の顔を見つめていた、姉の顔を、私は生涯、忘れることはできないでしょう。

「神通」
姉さんは未だに、私の名前をよく呼びます。だから、この先もずっとそうなのです。一生傍にいて、一生守ってくれるのです。彼女にとって、私は妹でしか、足りえない。
それが、私の、地獄。
そうです。私はその地獄の名前を、恋と名付けました。