「好きです先輩、付き合ってください!」
放課後、夕陽、正門。学校という狭い世界の境界、それを踏み越えるのを引き留めるようにぶつけられた声。生まれるため息。声の源を振り向けば、照らす陽のそれとは別の朱で頬を染めた少年が、期待の星で満たした瞳で射ぬかんとばかりに立ちはだかっていた。
まるで少女漫画のワンシーン。カットの声を受けた画面みたいに止まる世界に、現実の帳を下ろす方法は簡単だ。
「──付き合いません」
たった一言。それだけで一瞬途切れた音は戻り、同じく足を止めていた、主に女生徒のはしゃぐような声が響き始める。見せ物じゃないんだよ。そう言いたいものの、私とて目の前でこんなものが繰り広げられたら動揺を友達にぶつけるだろう。仕方のないことだ。
とすれば、次にすべきことはここから立ち去ること。そもそも私は帰るために門をくぐろうとしていたのだから。
だがしかし、ここで終わる訳がないのもまた確か。背を向けた少年の顔に、純粋な落胆の色はきっとない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ名字先輩!」
現に、途端に悲痛さのこもった声は私の後をついてくる。いつものことだ、慣れたくはなかった。耳に響く足音は二人分。いつからこうなったんだったか、物事の始まりというのは存外朧気だ。
騒がれるのは好きじゃない、賑やかなのは嫌いじゃないけれど。誰に向けるでもない、言い訳じみた言葉は胸の中でだけ反響する。あの子が騒がしいのか賑やかなのか、判じるのは私なのは分かっている。それでもどうしてか、もう少しの材料を求めて結論を先伸ばしにしてしまって。
思考の最中も背後から響く声に、元々遅くはなかった足の回転がもう少しだけ早まる。あくまで早歩き。これもいつものこと、角を曲がりながら身を翻せば、私の後ろをぴったり付けていた彼はぶつかる寸前で急ブレーキ。泣きそうに歪められていた顔もすぐに華やいだ。
「先輩! 俺──」
「ストップ。何度も言っているでしょう、毎日付きまとったところで良い返事などしないと」
「へへ、いーんスよ別に。俺が名字先輩のことを好きだから好きっつってるだけなんで!」
にっかりと笑う彼の言葉に嘘偽りはない、んだろう。断言出来るほどの関わりはないというのに、一体何が彼を駆り立てるのか。
見やるたびに嬉しそうに緩む顔から目を逸らした、こういうところが殊にやりにくい。
「もう何回目なんだか……」
「切原の名字に対する告白の回数は、先程のものを含めておよそ36回だな」
上部から落とされた声、余っていた足音の主のそれに今度こそ頭を抱えた。
「……久々に柳くんが怖いんですが」
「そうか? 俺はただ回数を告げただけだろう」
けろりと言い切りノートを閉じるのは柳くん。何でいるんだろう。『何も分かりません』、いや『何もおかしいことはありません』とばかりにすっとぼけた顔を傾けているけれど、どうして今ノートを閉じたんでしょうね。言って閉じたってことは、開いて確認したってことですものね貴方。その記録はプライベートが過ぎるでしょう。
「そういうところがだよ」
「そうか」
嫌味を強めて言ったところで暖簾に腕押し。柳の木にフルスイング決めたらこんな気持ちになるんだろうか。
「こないだからこうやって、切原くんと顔を合わせる度に……その、告白? されるようになって」
「何で疑問系にするんスか」
「なんとなく。それで、土日とか会わなかった日はあった分は省くにしろ、先月から先々月からでしょう? この流れ」
言葉の途中からちょこちょこと隣に寄ってきた切原くんから、抗議にも似た声が弱く響く。
別に遠ざける必要もない、そう思いながらもそれが当たり前になっていた自分に戦きながら言葉を続ける。
「その全部に居合わせて、挙げ句カウントしてるっていうんだからそりゃあ怖いよ」
「……昼休みン時、いつも柳先輩いねッスよ?」
「切原くんは静かにね」
「はぁい」
いないから怖いんだよ。この子がそれに気付くのはいつになるのかな。ははは。
傍らに目を向ければ、素直にお口チャックを実行しているクセっ毛くんが一人。こういう素直な所は可愛いんだよなぁ。勿論後輩として。勿論。
……可愛い後輩、だと思うのだけど。
何度目かもわからなくなったため息。その合間に、切原くんとは真逆の髪質をした頭が寄ってくる。
「それにしたって、いい加減返事をしてやったらどうなんだ」
「……返事なら、してる」
「ふむ」
さらりとしているのは吐かれる言葉もまた同じ。耳元に寄せられた口許は満足はしていない息を洩らし、その雰囲気に思わず短い会話を思い出させた。
少し、意識を過去に傾ける。
その日の切原くんは、大胆にも教室にやってきて告白の言葉を響かせた。死ぬほど恥ずかしいから二度としないでくれ、そう強く言い聞かせたんだったか。
この時既に恒常のものとしていたため息を纏わせながら自分の席に戻る私を迎えたのは、隣の席の柳くん。小さく肩を揺らすオプション付き。許すまじ。
「随分と情熱的な告白だったな」
「ただ鉄を焼いただけ、情熱ってより加熱的だと思います」
「熱しやすく冷めやすい。それが切原だった筈なんだがな」
「……柳くんがそこまで楽しそうなの初めて見たよ。っていうかあの子、柳くんの部の後輩くんでしょう? 何か言ってあげてよ」
言外にどうにかしてくれという願いを込めるも、言葉を受けた直後に下がった眉が答えである。
「すまない」
「あぁいや、もう言ってるなら……うん、そうだね」
「……今度、俺から言っておく」
「言ったんじゃないの?」
「別の言葉を思い付いた」
「そう」
他人に縋るのは許されないとばかりに散る希望。何かを思案する柳くんへの応答も曖昧になり、どうしても現実から逃避したくなってしまう心境からは逃れられない。
そも、データの権現たる柳くんだって恋愛に関しては専門外だろう。私だってそんなものは専門外だ。専門の人がいたとして、信用できない気がすることには今になって気付いた。
「そんなに嫌だというのなら、俺を通じてではなく、はっきりと言葉にして断ればいいんじゃないか?」
「嫌……っていうか、その」
途端に言葉が濁ることが分かっていたのか──いや、彼の場合は分かった上で言っている──柳くんの口角が軽く持ち上がったのから視線を外して舌を転がす。長いことこの席のままだから、柳くんの性格が良い時と悪い時があるのは知っていた。
「その……嫌では、ないんだよ。真っ直ぐに好意を向けられることそのものは嬉しい。けど……」
「……。けど?」
「……だけど、切原くんのことが好きなのか聞かれたら、それは違う。……んだと、思う。すくなくともこんな中途半端な状態で返事をするなんて、切原くんに失礼だと思うから」
着地点は結局変わらない。それでも、柳くんならこの曖昧な言葉の転がりを拾ってくれるという信頼は持っていた。傍観の色を纏っていた彼が口を開き、私の言葉を促した事実もそれを支えている。
「……それを、切原本人に言ってやれば相当喜ぶだろうな」
「だから言いませんって。……あぁもう、ちゃんと最初に考える時間が欲しいって言ったのに……」
「……押して駄目ならもっと押せ、か」
「え?」
「いや」
不穏な言葉を呟いた柳くんが首を振って、予鈴が鳴って。そこで会話が終わったのを覚えている。
ふと顔を上げると、不穏の解を出さないままの彼の背が分かれ道に消えていくところだった。神出鬼没とは、きっと彼のためにある言葉だ、柳くんはいつだって中途に問いかけたまま消えてしまう。
「……名字先輩、今日はなんかぼーっとしてましたね」
「そう? いつもぼーっとしてるって言われるけど」
「まぁ確かにいつもぼーっと……じゃなくて! ごまかさないでくださいよ!!」
俺は心配して言ってるんすよ! などとだもだも文句を垂れる切原くん。気にしないでと一撫でしてあげれば、こう表すのも申し訳ないけれど、面白いくらいに赤くなってしまった。静かだ。
「……先輩、そーゆーのズルいッス」
「そっか、ごめん」
「あ、いや! 別に嫌とかじゃないんで! むしろもっと撫でて欲しいっつーか!! 撫でてください!!」
「うーん、そう言われると嫌だなぁ」
「何で!?」
そういえば。口を開いた先では、彼との分かれ道が迫っていた。会話のある帰り道というのは存外短い。
「どうして好きになったのかは前に聞いたけど、私のどこが好きかは聞いてなかったよね?」
なんて、殆ど勢いで言った質問がどれだけ自惚れたものだったかに気付いたのは息を吐ききるのと同時で、変に勢いよく吸った喉を鳴らしながら思考停止。ほぼ同時に上がる羞恥。
余計なことを考え、意味もなく紡いだ「そういえば」を無理に枕詞とした結果がこれだ。馬鹿め。
「……何でもない、忘れて」
「えー、全部っスよ」
「忘れてと言ったでしょう」
「俺が言いたいんで言います! 名字先輩のことは全部が好きっスけど、やっぱ可愛いとこっスかねー」
「……は?」
足が止まった。
冷めていると言われる。ぼーっとしているから何を考えているかわからないというのも、よく。人付き合いだって苦手だ、切原くんと何度も話せているのが不思議なくらいには。
だから、だからそんな私が、かわ、うん、そんなこと……いやいやいや。審美眼が腐っているとしか。人にそんなことを思ってはいけない。だけどやっぱりその感想はない、よ。
「ま……って。い、一応具体的な話を」
焦りが墓穴を掘る音がした。こんな分かれ道のど真ん中に墓を建てたくはない、こちら名物の名字墓標でございます。死にたい。穴があったら埋まりたい。無限ループ的思考。
こちらの焦りに気がついている様子のない切原くんは、普段通りの笑みを浮かべて言葉を続ける。
「んー。やっぱ最初は一目惚れだったんで、クールだなーかっけーなーとか思ってたんスけど、先輩とこうやって話してくうちに笑った顔がカワイーなーとか……あと話し方とか? 先輩ってテンパった時敬語混じるじゃないっスか。そういう時にちょっとだけ赤くなるとことか──」
墓穴から間欠泉が立ち上った。湯水の如くどころの話ではない。普段はわちゃわちゃとアホを並べ立てるばかりだというのに、どうしてこういうときに限って口が回るんだこの子は。
「ちょ、ちょっと……待って。うん。もう大丈夫です、十分」
「ホラ今とか」
「切原くん」
「あ、はい」
強めの言葉が間欠泉に栓をする。止めようと思えばもっと早くに止められたはずなのに止めなかったのは。
ああどうしよう、顔が見られない。
「もう分かれ道ですし、これ以上はまた今度話しましょう。良いですね?」
「はーい! また明日、です!」
「はいはいまた明日!」
やけくそのように吐き捨てて始まる早歩き。こんなの私じゃない。あぁ、あぁもうなんてことだ! らしくないとかそういう話じゃない!
足を早める理由なんてない、追いかけてくる影なんてない。
『それを、切原本人に言ってやれば相当喜ぶだろうな』
必要のない時に甦る言葉。そのまま記憶の片隅にでも寝かせておけば良かった、起こしたのは誰でもない。分かってるんだ、全部。
いつの間にか熱を持っていた頬を扇ぐ。熱い。ずっとだ、果たして今は夏だったか。そうじゃない。もしかしたら切原くんにもバレちゃったかな、夕陽の色だと勘違いしてくれてると良いんだけど。あぁ、神様。お願いします。
沸き上がるような熱は、胸の内側から叩くような痛みは突然褒められたからであって、それ以上でも以下でもなくて。
だけど、この痛みはまるで──
18/01/01
19/06/11 修正
19/08/14 公開