プロローグのような春の日

 立海に入って三度目の春が来た。この季節には慣れたつもりだけど、並ぶ桜と大量のクラス表に慣れる日が来るとは思えない。

 既にわっさりと群がっている人の塊にため息を吐くが、このまま眺めていたって後続に押し流されるだけだ。既にピークに達しかけた疲労を振り払って顔を上げる。文句ばかりも言っていられない。
 見上げる位置のクラス表は、現在地点からは微妙に遠く、正面が何組かの判別も面倒くさい。とりあえず、端から見ていった方が楽かと判断し、A組の方を目指しつつ人混みをかき分け進んで行くことにした。

 随分進んだはずの頃に顔を上げれば、正面はB組。あと少しという気持ちと、まだ進むのかという脱力に挟まれ足を止めた一瞬、人混みに投げたままだった腕の半ばが突然捕まれたからギョッとした。

「俺じゃ俺、そんな警戒しなさんな」

 覚えのある声が、チカンという単語に囚われかけた私を現実に引き戻す。そういえばここ、生徒しかいないわ。
みっちりと詰まっているはずの、満員電車もかくやの生徒の隙間から滑るように現れたのは見慣れた銀髪、仁王。

「どっ……どうしたの、そんなチェシャ猫みたいな」
「チェシャ猫じゃと言うんなら、理由を語る訳にゃあいけんのぅ」

 猫とするよりは狐に似たにんまり顔は、いつも通り……よりは楽しげに笑っている、ような?
 どうかしたのかと問おうとするも、A組にもB組にも己を見付けられなかったらしい誰かが背中側を泳いでいき、目の前の彼にむぎゅり押し付けられ。

「んぶ。ご、ごめ……」
「おっと。冗談はここまでにした方が良さそうじゃのう……荷物は全部持っとるか?」
「え? うん、一応」
「量があるわけでもないしの」

 小さく笑ったのは、彼に押し付ける形になってしまった、抱き抱えていた薄っぺらな学校指定鞄に気が付いたからか。部活があったら道着が入っているし、邪魔以外の何者でもないから無くて良かったと思う、本当に。

「なら、行くナリ」

 中途な位置を掴んでいた仁王の手が離れたかと思えば、しっかりと手を握ってきて。その上、人混みから連れ出すように強く引かれた。

「ちょ、待っ……私、まだクラス表見てないんだけど」
「B組」
「へ?」
「B組ぜよ。俺も、おまんも」

 食い気味に発した仁王の言葉が終わると同時、すっぽ抜けるように下駄箱に出る。春の風物詩たる桜の花びらが奥の窓でひらり落ち、背後の人の群れからは女子の悲鳴が上がる。同じクラスだったのかな、つんざくような声が鼓膜に刺さる。
 手を繋いだままの仁王が、手をひらひらさせながら私を覗き込んだのは、思わず足を止めてしまったからか、それとも呆けて言葉を失ってしまったからか。そんなことよりも。

「それ……って、もう奇跡の域じゃない……?」
「ははっ、それもそうじゃなぁ」

 きょとりと丸められた琥珀色をすぐに狐の形に戻し、珍しく肩を揺らして笑う仁王。
 だって、連続三年目のクラスメイト。小学校なら有り得なくもないそれは、およそ2000人が所属する立海ではまさしく奇跡だ。運良く隣のクラスだったら良いな、とは思ってたけど。でもマジか。同じクラス。

 明らかに上機嫌な仁王に手を引かれるままに歩き出す。向かう先は新たな教室。
 ──のはず、と言葉を濁してしまいそうになるタイプの信用を背負う彼は、いつも通りに尻尾を揺らしていた。



 下駄箱からそれなりに遠いB組が見えるようになった頃には、大分冷静になっていた。落ち着いたことによって何が変わるのかといえば、手を繋いでいることへの羞恥が発生するのである。

 未だ多くの生徒が外でひしめいているせいか、校舎内の人影は少ない。けれど先導するは立海テニス部レギュラー様。どうやったって見られる。主に女子に。
 なのにご機嫌な仁王はしっかりと私の手を握っていて、離そうとする気配も感じられない。こっちは遮るように指ガン開きにしてアピっているのにも関わらず!

 どうしたものか。空いた手で顔を扇いでみるも、勝手に熱せられた頬が冷めることはない。心臓が喧しいせいで、そう長くないはずの距離もまだまだ遠い場所であるように思えてきてしまう。長い。教室はまだか。

 ふと、くふりと息の抜ける音。発生源らしき男は振り返る。いつもより柔らかく、深く口角を上げている仁王。
 ぱちりと視線がかち合うと同時、するりと絡まる感覚。指に。開きっぱだった指に暖かいものが、絡む。

「……!?」
「どういた?」
「いっ……や、手、あの、これ……」
「んー? きちんと言葉にしてもらわんと、何が言いたいかさっぱりじゃのう」

 くすくすと笑う仁王は、意地悪にも手に込める力をそっと強める。絡まれた指と指、それはいわゆる恋人繋ぎ。
それが恥ずかしくて、驚いて、くすぐったくて、それからほんの少しだけ嬉しくて俯く。いつだってどんな顔をすれば良いかわからないのに、こんなこと。
 けれど、確かめるように二、三親指で撫でてきた彼は、構うことなく足を進める。仁王がわからない。それはいつものことだった。

 不意に、彼と話すようになった頃のことを思い出す。
 あのときは振られたすぐ後で、ただ言葉を交わすことだけでも泣きたくなるくらいの幸運だった。奇跡みたいなことだったんだ、私みたいな人間が好きな人と話せるだなんて。
 それが今はこうして連れ立って歩いて、手まで繋いで! あの頃が奇跡だとするなら、今は何だろう。夢? けれど、手にも頬にも感じる熱は現実だ。

 ふわふわとした心地のまま、まるで子供の手に繋がれた風船にでもなったかのような心地で、仁王に付いていく。
B組の引き戸を開けた、そのまま中に入るであろう背に付いて入ろうとした、のだけど。

「おっと」
「んぶ」

 その薄めの背中がぴたりと止まったものだから、見事正面衝突をかましてしまった。デジャヴ。

「あ、わり。邪魔だったな」
「おん。……川端、鼻付いとるか?」
「縮んだ……」
「はは、それはすまんかった」

 聞き覚えのある声が視界の外から。一瞬でこそそちらに意識が行くものの、直ぐに痛みを訴えだした鼻に注意は逸れる。
 ぽふぽふと頭を撫でてくるのは、ついさっきまで繋がれていた手。なんだだかんだと言いはすれど、ほどかれてしまうとそれはそれで寂しい。わがままな人間だ。

「朝っぱらからいちゃついてんなぁ」
「羨ましかろ?」
「ウェッ!?」

 肩に腕が回され、機嫌の良い顔がぐいと近付く。変な声が出た。近い。
 自己嫌悪をしていた人間を、肩を組むような形で引きずり出さないで頂きたい。ちなみにブルーな気持ちは一気にレッドになった。いや、ピンクか。高低差に目眩がする。近い。色々近い。死ぬ。

「死にそうになってんぞ」
「生きとるし大丈夫じゃろ」
「ざつ……」
「ほれ、文句も言えとる」

 解放はそこそこ早かった。ならなんで肩組んだ。仁王を理解できる日は来るのだろうか。
 最早寂しさすら吹き飛んだ私はとぼとぼと、どこか覚えのある銀と赤の後ろを付いていく。席確認しないとだからね、そうだね。まだ顔が熱い。

 意識を逸らすため、ふわふわした赤髪の彼をどこで見たのかを考える。……あぁ、そうか。
 浮かんだのは三月のあの日、その朝のこと。私は一言として交わしてはいないけれど、確かに横を通っていた。名前は、マルイ。くん。前よりは早くに思い出せた。

 噂に疎い私でも知る程の有名人。詳しくは知らないけれど。そっとため息を吐いたのは、噂の恐ろしさと不確かさを知っているから。情報は本人とその周囲から得るに限る。
 出来たことはないという事実には、そっと目を伏せた。

「どういた?」
「え? うぅん」
「そうか」

 ため息に気付いたのか、不思議な顔をした仁王が振り返る。会話になっているのか怪しい応答をしつつ顔を上げれば、知らずのうちに黒板な、席順の紙の前に辿り着いていたらしい。
 既に自分の席を見付けていたという二人が空けてくれた場所から、他の人の邪魔にならないように表を指先で辿る。

「──あった……本当にB組だったんだ……」
「あれ、外のクラス表見てなかったのか?」
「え? い、いや……見る前に仁王に、教室まで連れてこられた…っていうか……」
「ふーん」

 まさか自己紹介より先に話し掛けられるとは思っていなかったせいで、捻り出した言葉はしどろもどろ。それでも、彼がそこをイジるタイプでなかったことに内心で胸を撫でた。
 これが……コミュ力かぁ……

「あぁそうじゃ、クラスといえば」
「いえば?」

 運動部って凄いんだなぁ、他人事にも程がある感想を浮かべるのと同時、先程よりも深く肩を組まれて心臓が潰れた。

「こいつと俺な、これで三年間同じクラスぜよ」
「は!? なんだそれすげーな!?」
「ひぅ……」
「つーか、また死にそうになってっけど」
「知っとる」

 ちくしょう……鬼だ、人たらしだ、悪魔だこの詐欺師……すきだ……
 メソメソというには子供染みた言葉を内心に並べていると、漫画のようにポンと手を打ったマルイくんは「そうか」と呟く。

「なーんか見たことあると思ったらお前あれか、仁王に狙われてたヤツ! 修了式ン日の!」
「え? な、え? 仁王に狙われっへろうい……」
「丸井、おまんはいっつも一言余計じゃのぅ」
「はぁ? なんでだよ」

 どういうことなの、と続けようとした口の両端を仁王につまみ上げられる。組まれたまま故に近い隣からの圧に唸ってみるも、小さい笑いが聞こえるだけ。聞かなくて良いってことなんだろうけど、言葉にしてもらわなきゃわからないことだってあるんだよなー、もー……

「狙っとったんは俺じゃないしな」
「それってどういう……」

 察していることを察したのか、ただ頬を上に下にと遊ぶだけになっていた仁王は、からからと笑いながら私の知らない範囲の話を呟いている。

「らんへもいーへろいふぁい」
「んー」
「あ、自己紹介してなかったな」
「ってて……えっと、川端 空です」
「俺は丸井 ブン太、シクヨロぃ!」

 仁王が離れ、丸井くんから伸ばされた手が強めに握られる。真っ直ぐな笑顔、眩しくすら見える新しい……友人。
 そう呼んで良いのかは分からないけれど、口先だけだったはずの目標が達成された気持ちが目の奥に熱を生む。情けないなぁ。

 誤魔化すように教室を見回せば、入ってきたときよりもその生徒数は増えていた。
 知らない顔、知らない声。そのうちの幾つと仲良くなれなるのか、なれないのか。分からないけれど、丸井くんのように真っ直ぐに笑ってくれる人もいるんだ。

 風が強く吹いたのか、カタカタと音を立てた窓を見やる。その向こう、澄んだ青空に散らされた桜色の欠片が本当に綺麗で、眩しくて、祝うようなそれに目を細める。
 あぁ、中学最後の一年が始まる──

18/08/11
20/01/13 修正、公開
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