そうして夏が終わっていく
二年に上がってからも、特に代わり映えのしない日々が続いていた。
登校して、教室に入って、座って、少し焼けてきた本を開いて、先生が入ってきて、ホームルームが終わったら授業、それも終わればショートを挟んで部活。家に帰って軽く勉強して、一通りが終われば就寝。起床すればまた登校して──
こう表すと機械か何かのスケジュールじゃないかとも思うけど、これが一年の時から変わっていないというんだから何とも言えない。自虐を込めてため息を吐くのと同時、チャイムと共に滑り込んできた人影を見て慌てて吸い戻した。
「危ない危ない……ギリギリ間に合うたぜよ」
「おはよう、仁王くん」
「おう、おはようさん」
わざとらしく額を拭った彼に汗は見られない。けれど軽く肩が上下しているのを見るに、ギリギリだったのは事実なんだろう。
今日の一時間目についてのやりとりを二言三言交わし、そしてSHRが始まる。
あぁそうだ、変わったことはあった。あの仁王くんと少しだけど話せるようになったこと、話しかけられるようになったこと。今は隣の席でもあること。
じわり暑くなってきた日常の、細やかな幸せだ。区切るだの諦めるだの言っておきながら、結局燻ったままの私の身に余るくらいには。
あの日「答えはいらない」と逃げようとした私に、それでも応えを返してくれた仁王くん。しばらくは悲しくて苦しくて涙が止まらなかったけれど、散々水分が搾り取られた頭にはそれでも『好き』がこびりついていて。ならばもう仕方ないと吹っ切れた。
どれだけ擦っても削っても叩いても剥がしても消えてくれない恋心なら、刷りきれて錆び付いて風化して忘れてしまうまで、未練たらしく大切にしがみついていよう。
そう思えた矢先に同じクラスになったのは驚いたけど、日々を楽しめているならなれでも良いんじゃないかな。なんてのは、さすがに吹っ切れ過ぎだろうか。
朝のショートの終わり際、ふと同じ部の子がテニス部について溢していたのを思い出す。練習を遠目に見ることしか出来なかった私はそこまで情報を集めてはいないし、元々その気もない。
私のどうでもいい事情はさて置いて、授業の準備に動き出した教室に意識を戻す。隣の彼は大あくびをしているところ。さりげなさを捨てて声を掛けた。
「仁王くん、レギュラーになったんだって?」
生理的な涙の向こう、琥珀色が二瞬姿を消す。
「よう知っとったの」
「や、噂になってた…し?」
吐く相手がいなかったせいで嘘は下手だ。
……原因が多いから、言い訳が自由自在なのが逆に悲しくなってくる。
「ま、そういうことにしといちゃる」
「んん、何か含みがあるけどおめでとう」
「いやいや気にしなさんな。それと……ありがとの」
一瞬は目を丸めた彼は、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて肩を竦め。彼に嘘が通じるはずもない、自分に呆れていたらわしゃり。一度だけ、突然頭を撫でられた。
「そういや、お前さんは何部だったか」
「ぃ…………秘密」
何事もなかったように、間を置かずに話が続いたもんだから言葉が詰まった。なんだ「ぃ」って。
たじろぐ私に気付いているのかいないのか、いつの間にか体を向けていた仁王くんは緩く目を細める。
「この詐欺師たる俺に、秘密とはのう」
「……ペテンし?」
「最近そう呼ばれとってな、コート上の詐欺師なんじゃと」
「何したの……」
珍しく呆れを声に込めても、何が面白いのか、目の前の彼はからからと笑うばかり。彼の掴み所のなさ、そこだけを見れば確かに詐欺師と呼べるのかもしれない。上手いラベルを貼り付けられたもんだ、どこか他人事のまま思った。
「そうでもなくとも、俺にとって秘密っちゅうんは暴くためにあるもんだぜよ」
「非道」
「詐欺師じゃからな」
言って、互いに笑う。
踏み込まないままに冗談を叩きあえる関係、それがぬるま湯のようでただただ心地よかった。
*
中途に温い風が頬を撫ぜ。心地よいとは言えないそれが急に煩わしくなって、何かを締め出すように窓を閉める。
「秘密」の話をしたのも忘れ始めた頃、秋色になってきた空を蜻蛉が泳いでいった。
今年の全国大会も我ら立海の勝利に終わり、テニス部から先輩の姿が消えた。その代わりとばかりにに密かに、あるいはあからさまに目を光らせている後輩たちが求めているのはレギュラーの座だろう。全く、退屈がないというのも退屈だ。そう溢したら真田に睨まれたのが納得いかないが……まぁいいか。
あの日の熱はゆらり薄れ始め、けれど高揚は刻み付いて消えてくれそうにない。願わくば──いいや、必ずもう一度あそこに。
ざわりと揺れた胸の内を確かめていた俺の眼前にプリントが現れた。いかんいかん、ぼんやりしとるからと眼前で振り回されるのは勘弁だ。夏の日に飛びかけていた無意識を引き戻し、同じように目を通しながら後ろへ回す。どうやら各部活の大会結果やらをまとめたものらしい、テニス部の項がデカすぎて笑えてくる。
後でで良いじゃろと捲りながら裏のマス目を見やり、文化部一覧から浮かんだのはあいつ、川端。もし大会に出るような人間だったなら、ここに名前がるんだろうか。教師の声を流しながら辿ったそこに名前はなく。
イメージで決め付けたが、文化部と決まった訳じゃないしな。ふすと息を抜きながら運動部の項に目線を送ったところでその名が目に入った気がして動きが止まった。
噂をすれば何とやら? どちらかと言えば赤也とかが言うフラグというやつか。とかく気のせいではなかったことを確かめるため、そっとページ内全てのマスを辿る。
女テニ? 違う、女バス? ソフト? ……違う。
剣道でもなければ弓道でもなく。段々と縮んでいく欄に焦りと見間違いの可能性が浮かび始めたのと同時にようやくその名を、間違いなく見付けた。
「(柔道部、川端 空……県大会出場、か)」
他の武道部が全国に進んでいたためか、それども個人戦の結果だったからか。前述の二つよりは割かれているスペースは少ない。
いや、それ以上にあいつが柔道部で、初戦敗退とはいえ一人勝ち抜く力があったという事実への驚きの方が大きい。
なにせあの抜けた顔にどこか読めない性格をしている女だ。常に本を携えていることを加えれば、美術部か文芸部と言われた方がまだ納得できる。
先生の話を聞いているのかいないのかわからない、ぼんやりというよりは表情のない横顔を盗み見ながら、まさに一本取られたと息を吐いた。
「県大会、おめでとさん」
「ッ……!?」
武道場に近い、人通りのない階段で声を掛けたそいつは今まで見たこともない程に目を丸めていた。後ろから話し掛けたせいか、完全に臨戦体制で振り替えられたのに笑いながら掌を見せる。
「そんな警戒しなさんな、泣くぜよ?」
「……あ、そっか。今日のプリント……」
「そうじゃ」
弾き出された答えは冗談を流したが、気にせず頷きで返す。その応えも冗談と同じく流されると思ったのだが、意外にも川端は疲れきったようにため息を吐いて傍らの壁に凭れた。
そんなに嫌だったのだろうか、意外にも大きく表情を崩したそいつを見ながら思ったのはそんなことで、だからこそ口が緩み。
「お前さんが秘密にせんで教えてくれとったら、応援の一つでも出来たんじゃがのう」
言って、瞼を下ろした。言葉選びを間違ったことはその直後の空気でわかるものだ、それから相手の顔。
調子に乗ればミスをするのは誰だって同じで、だからこそ俺は誰よりも慎重になるべきで。だのに溢した失言は、川端の眉をひそめさせた。
「……いいよ、別に。目立ちたくてやってる訳じゃないし」
「ふぅん?」
言葉と同時、スイッチが切れたように表情が消える。否、半ば無意識で強ばらせただけだ。いつもの乏しさに近付いたせいで消えたように見えただけで、その顔は未だ雄弁に物語っている。
何事もなかったかのように背筋を伸ばした川端の、僅かに寄せられたままの眉がそれを示していた。
「じゃあ訊くがお前さん、何でここで柔道をやっとる?」
「聞いて、答えて。誰に利があるの?」
ミスをした後、それをなかったことにすることは出来ない。威嚇するように苛立ちを滲ませたそいつに肩を竦めながら笑ってやる。
しかし俺は詐欺師だ。過去を消すことは出来なくとも、初めから意図的だったことに書き換えるくらいはしてみせんと。
「あぁ、予想通り俺の好奇心が満たされるだけやき。川端に還るもんは何もありゃあせん」
「なら、その義理はない」
「そうか」
再び頷いてやれば、なら良いだろうとばかりの顔をした川端は背を向ける。決して狭くはない、やや張ったブレザーを纏ったそれは、よくよく見てみれば確かに力のない人間のものではない。
次の言葉を組みながら浮かべたのは、切り替わりの瞬間。半ば無意識ということは、残ったもう半分には意識がある。そしてその結果がいつもの乏しさに近付いたということは。
「君にわかってもらいたくてやってるわけじゃないから」
突き放すような言葉を寂しそうに吐き付けた背中を眺める。あぁ、どうしてこうも俺の心に引っ掛かる言葉を残せるんだ。
踊り場を通り、また下っていった影が見えなくなって、ようやく俺は踵を返した。
言葉が心に残るのと、それを理解し飲み込むのとの間には別の行程を挟む必要がある。
理解とまではいかなくとも納得する必要があるか、思案に首を傾けた。
そもそもあいつは、何のために部活をやっているのかという話だ。
「目立ちたくない」という言葉は普段のあいつを見ていれば納得できないこともないが、ならばどうしてわざわざ私立の中学に入ってまで柔道部に入ったのか。一度認識したささくれは中々意識から外れてはくれない。どうにも気になる、集う筈の意識がほどけて揺れる。
ふと意識を戻したコートでは、絶対数が減ったせいか涼やかな風が通り易くなったからだろうか、ただでさえ通る皇帝の怒鳴り声が目立ち始めた杭に飛ばされていた。あれもまた期待の形か、形にならない息を洩らした俺の傍らには幸村が。
「のう」
別に真田の目を逃れようとした訳ではない、けれど何故か勢いの出なかった呟き。それでも傍らの神の子には届いたらしく、緩くウェーブの掛かった髪が揺れる。
「どうかしたかい?」
「ちくと、気になることを確かめてくる」
「……休憩の終わりまでには戻ってくるように」
「プリッ」
新部長サマは、やや手厳しくはあるがどこぞの堅物よりは融通が効くからありがたい。あの二人が古馴染みってのが驚くな、よくこうも別系統に育ったもんだ。同い年とは思えない、それぞれ別種の貫禄を出す二名を振り返り一つ思った。
早く行きな。口だけの、しかしはっきりと読み取れる言葉にひらり手のひらを見せてから背を向けた。
喧騒が遠く響く、人気のない校舎内にて歩を進めながら去年と今とを比べる。たった半年ながら、随分と話すようになったものだ。
一年の時も同じクラスだったとはいえ、互いに口数が多くはないため言葉を交わしたのは必要最低限。いや、本当に交わしていたかも覚えていない程度だ。
けれどあの日を経て、二年に上がってからは異なる。一番あいつと話している自負がある程度には距離が縮まっている、ような。いや、誰と張り合うわけでもないが。
現実、クラスメイトによく話が続くものだと軽口を叩かれたこともある。むしろ意識はそこからか、別段何か目的があって話していたわけではないから。
とかく、あんなでも川端は俺らと同い年である事実は変わらない。文学少女というイメージではあるものの普通にテレビも見るし、ありふれた漫画にだって目を通しているらしいぞ、なんて応えはさすがに返さなかったものの、あの“ふわついていてよくわからない人間”は意外に地に足着けた言葉を放つ。が、それと同時に薄っぺらく不透明な言の葉を受け取る時もあるのは愛嬌の一種だろう。
こう言えば話が続く、こう声を掛ければどんな顔をする。そんなことばかりが軽やかに浮かぶ辺り、どこか無意識のうちに特別に思う心があったのかもしれない。
ようやっとそれに気付けたのは、足を伸ばした先、賑やかな柔道場入口手前で道着を身に纏ったそいつが、見知らぬ男の隣で、初めて見る、弾けるような笑顔を見せているのを目撃したときだった。
呆然と立ち尽くした、時間の止まった俺に気付かないままの二人は柔道場へと姿を消していく。
置いていかれたような形を取っている俺は、確かに気になっていたことを認められたはずの俺は、言語化しづらいモヤが胸中にて頭をもたげはじめたのを感じていた。
布の擦れる音、強ばる体。止まったくせに、動けないくせに、つい指を立てた手は胸元の刺繍ごとユニフォームを歪める。去りきらない熱をはらんだ秋の風が、煩わしい。
あぁ、そうだ。特別に思う心があった。特別意識。俺の方がと。
人の機微を察するのは得意な方だ。なら自分のそれを手繰り寄せるのも同じく。
「──あんな顔、俺には見せんかったのにな」
追い掛けてくるものを眺めていたはずの俺は、いつの間にか追い掛ける側になっていたらしい。
18/05/22
19/02/08 修正、公開
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