この冬で終わらせはしない

 立海大附属中テニス部の全国制覇の支えに、また連覇の導にすらなってみせた新たな部長。奴の肩に輝く“神の子”などという大仰な二つ名はしかし飾りではなく、その実力を示すのに相応しいと表す以外にはない。その上で指導者としての技術、人格も十二分に備わっているというのだからお手上げだ。
 けれどそんな人間でも──いや、だからこそなのか。いかに“神の子”と称えられようが所詮は人の子、足音もなく現れた病に勝てはしなかった。


 二年の冬、幸村は突如搬送された。

 誰もが口々に「きっと大丈夫」「すぐに戻ってくる」などと根拠なく囁きあったものの、その甲斐虚しく終わりの見えない入院生活が始まる。
 部活の方は幸村に代わり真田が率いることになった。とはいえ、一大戦力及び精神的支柱が病により姿を消したことは大いに響く。1日経ち2日経ち、やがて一週間が過ぎる頃には部内の空気は沈みきり、そんな中にアイツの怒号が響く様は息苦しさを越えて笑える程だ。

 などと言ってはみるが、俺もまた幸村を無意識に絶対のものと捉えていたのだろうか、言い表しきれない居心地の悪さがまとわりついて離れない。部活をフケることだけはなかったが、その代わりとばかりに屋上にいる時間ばかりが増えていった。



 その日も中休み過ぎに登校した流れで錆び付いたノブを捻り、座り込んだまま眠りについていた。


「──……ん、…おーくん」

 ゆさゆさぐらぐら。遠慮など知らないとばかりの横揺れが意識を引き摺り上げる。

「なん、じゃ……ゆらすな、止めい」
「ごめん」

 上げた視界は滲んでいる、上げた声は掠れている。朧気に捉えたのは黒い塊、次第に定まる外ハネ頭。乾いた空気のなかで耳が曇ることはない、変わらず汲みにくい声が響いた。

「……川端、か」
「うん、おはよう」

 二、三の瞬きを経てようやく戻ってきた世界は件の人間を写し、思わず大きめの息が一つ。

「何か用か」
「ここで寝たら冷えるよ」
「……それだけか?」
「一応、お昼休みだし……覗いてみたら寝てたから、声掛けた」

 どこに感情があるかわからない応答。ありふれた表面的な文句のようでいて、その全てが本心なんだろう。それはいつも通りの川端で、だからこそ平穏無事な日常に浸かっていることが透けて見えて。
 普段であれば、寝起きでなければ。仮定を泡と潰すのは臓腑を撫ぜる苛立ち。ささくれだった胃が握られて、喉を通る蕀が既に冷えきった空気を震わせる。

「寝てたんじゃから放っとけ、お前には何の関係もないろう」

 刺が裂いた隙間から赤色の後悔が滲んで、吐き出せないそれはありもしない胸の合間に沁みていく。痛みすら錯覚する程に冷えた声は最大の失態で、それでも『こうなるから放っておけば良かったのに』と浮かべる程度には磨り減っていた俺。

 しかし、川端。

「どうしてそんな無理してまで学校来るの」
「──は?」

 余りに想定外──何かを想定外出来る気力はなかったが──の言葉に、いつの間にか下がっていた顔が上がる。俺の前で片膝を付いていた川端の顔は普段とさほど変わらず、だというにどこかしかめられているような気配があって、続く言葉を受け止める以外の行動が取れない。

「動けなくなるくらい重いのに、それを引き摺ってまで学校来なくても良いじゃん。……と、言いますか……その、一人になりたくて来てたんだったら、邪魔してごめん」
「……『邪魔してるかもしれん』っちゅう可能性が浮かぶんに、何で俺に声掛けた」
「それは……仁王くんが、苦しそうに見えたから」

 踏み込み過ぎじゃ。喉を震わすことのなかった言葉は透明なまま通り抜け、落とすように額と膝とを合わせた。

「え、えっと……仁王、くん?」

 黒い世界の外では不安げな声が揺れている。右に左にとオロついている川端を思い浮かべれば口の端と体が軽くなったような気がするのを何と言い表せるんだろうか。

「誰かから話、聞いたんか」
「え? いや……教室の雰囲気が違う、のが関係してるかわかんないけど……それよりまず仁王くんが気になって、それ以上は何も」
「……そうか」

 大きく吐いた、ここ数日とは別の感情が含まれた息は熱い。
 川端は基本嘘を吐かんし、無意味なことは殊にしない。なら言葉の通り幸村のことは知らず、本当にただ俺だけを見てここに現れたんだろう。なんというお人好し、その癖して人との距離を図るのが下手。不器用。馬鹿。
 だが今は、それがどうしようもなく有難い。

 がしかし──いや、やはりと言うべきか。丸まるように踞ったままの俺を好意的に捉えられる思考が川端にあるはずもなく、不安と動揺の抜けない声はその高さを上げてしまう。

「あ、の…えっと……それじゃあ私、戻るね? 邪魔しちゃってごめッ──!?」
「すまん」

 割るように言葉を差したのは、川端のバランスが崩れたから。川端のバランスが崩れたのは、俺がその腕を引いたから。俺が腕を引いたのは、川端が立ち去ろうとしたから。落ちるように崩れた先は、俺の腕のなか。
 言い訳なんてない、理由なんてない。互いの体勢が整っていないせいで息苦しい、構わない。あぁ、でも、拒まれるだろうか。らしくもなければ纏まりもしない思考が渦を巻く。

「にお、くん。これは」
「……も少しだけ、こんままで」

 戸惑い、困惑が見える声。その主の肩に埋まり溢した一言が震えないようにとなるたけ努めはしたが結果に自信はない。元から深い色をしたブレザー、その緑を更に深める俺の後ろで手が空を掻く気配があったから全部バレていただろうか、それとも純粋な驚きだったのか。
 なんにせよ、黒い世界の外側のことは分からない。ただその手が優しく一定を刻むようになってからの思考は安定しなかった。



「……悪い、肩濡らした」

 どれぐらいが経ったのか、中途に回しかけたままだった指先は冷えているが首から上は端々までが熱を訴えている。それでも溢れるものはなくなっていて、乱れた呼吸と滲む気恥ずかしさから埋めたままだった顔を、そうしてようやく持ち上げた。

「目元、布の跡ついてる」
「…あー……」

 吸われなかった分を拭いつつ触れれば、確かに。指先が拾うのは普段はない凹凸、“逃げ”が形になったようなのと時間を教えられているようで居心地が悪い。けれど目の前にへたりこんだ川端が「ウサギみたい」と笑むものだからどうでも良くなった。

「大丈夫……とは言わんが、お前さんのお蔭で大分楽になった。ありがとの」
「それなら、良かった」

 「安心したよ」口はそう動いてはいるが、不安に満ちた目が俺を見上げている。不器用なんだか器用なんだか、呆れの息を吐こうとして吸い上げた空気の冷たさに痛みを覚える鼻先を撫で、それよりも先に冷えて欲しい瞼とその重みが思考に割り込んでくる。
 冷えたコンクリートの壁、下階に繋がる扉の為の箱に凭れれば、段々と強まってきた風を避けるためか目の前の川端もまた同じようになったのを認識。重みに任せ目を閉じる。

「本当、引き留めて悪かったのぅ。授業まで後どんだけじゃ?」

 その直前、傍らの手首に時計が巻き付いていたのを確認していた辺り、俺の生き方は変えられないんだろう。

「え? えっと、後10分──」
「うちの部長が入院した」

 手首のそれに目を落とした隙に答えを溢した、跳ね上げられた瞳に映らないように顔を背けていた俺の、何と狡いことか。
 あぁ、今日も痛い位に空が青い。

「そ、れって……」
「いやなに、そんな深刻な顔しなさんな。お前さんは噂に疎いき知らんのじゃろうが、あいつは“神の子”とかいう詐欺師なんぞじゃ遠く及ばん二つ名を持った男での。入院したと言っても、直ぐに出てくるじゃろうよ」

 からり笑い吐いたのは、いつも通りの詐偽混じりの言葉。欺く為でなく、願望にまみれた偽りのそれはしかし俺の本心で、結局俺もあいつらと何ら変わりはしない。
 自嘲を込めた息を軽く抜けば、変わらず心配そうな顔が覗き込んできていることに気付き。わしゃりと混ぜるように撫でてやるとどちらともなく頬は緩み、それた思考は久々に上を向く。

「さて」
「……うん?」
「どんな尾ひれ付きが游いどるのかは知らんが、俺が本当のことを話したのはおまんだけぜよ」
「う、うん」

 先ほどまでと調子が変わったのに気付いたのか、表情の作り方が分からないとばかりに困惑が浮かんだ顔がこちらを向いている。それで良い、それを作るのがいつもの俺だ。

「つまり、俺とおまんはとーっても仲良しっちゅう訳じゃき」
「え? ちょ、ちょっと仁王くん」
「それじゃ」
「はい」

 狙っていた発言に合わせ指差せば、まるでうたた寝の最中に指名されたが如く身を強ばらせるものだから笑みが溢れる。

「仲良しさんなんじゃから、そんな皆と同じな上に若干距離を感じる『仁王くん』呼びは良くないと思うナリ」
「は、はぁ……」
「やき、たった今から『仁王』と呼ぶよーに」

 いや下手くそか、乾いた笑いが内心に響く。不調も不調、絶不調だ。水分の絞られた頭が常より回らないのはそうだが、これじゃ突飛な我儘を越えて剥き身の欲じゃないか。オブラートもフェイクもありゃしない。

「え……っと。それは、今は関係ないんじゃ……」
「呼ばんのなら、おまんが部長のこと『ピーナッツ』ち呼んじゅうことを広める」
「何で知ってるの!!」

 ごうと吼えた川端は流れるように倒れ伏し。その表情に先までの大人しさはなく、握った紙のように歪められた顔はそうそう見られるものでもない。部のことが絡むと本当に意外さの塊になるな。

「呼ぶ……わかった、呼ぶ……でも仁王くっ──仁王、に知られてた事実のダメージが一番大きい……」
「ちなみにこの系統の揺すりネタはまだあるき」
「嘘でしょ……?」

 俺に知られているということは相当なショックだったらしい、寒さと冷たさを物ともせず流動体の如く身を伸ばしたのを眺める。ちらりと見えたのは体育着か、なるほど。一つ頷いたのを見計らったかのように飛び起きるものだから、軽く焦りつつ視線をズラした。

「元気じゃな」
「ごめん。授業まで後5分ない」
「なるほど」

 冷却された表情、その頬についた砂粒を払いながら言う川端のスイッチはもう切れたらしい。普段通りの淡々とした言葉に頷いてやれば、座ったままの俺と直ぐ傍らの扉の方とを見比べている。

「……えぇよ、俺はこんままサボり通す。川端は戻りんしゃい」
「でも、その……私も、とかは」
「サボり魔に付き合うて皆勤賞逃す気か?」

 小さな唸り声。お人好しにはこれだけだと足りないのだろうか。それでも立ち上がった川端を見上げる。

「俺、まだ飯食うとらんし。今からやと確実に間に合わんぜよ」
「……分かった」
「明日からはちゃあんと出るけぇ、気にせず勉学部活に励めばよかよか」
「そッ…………最後の、態とでしょ」
「何のことやら」

 去り際の低い声には嘘臭い笑いで返す。僅かに残ったその余韻は、重い重い扉の閉じる音に弾かれ消えた。
 にわかに静けさと冷たさのみに包まれる屋上。いいや、俺が黙っただけか。空を横切る鳥の声、弱まっても刺すような風の音、それに流されていく傍らの熱。

「……あぁ」

 知らず、声が漏れる。

「これ以上縋っとったら、おまんが居らんと立てんくなってまう」

 ぎちりと音を立てたのは握り締めた制服からはたまた。




 傍目に起こった変化とはまた異なるそれを迎えた一年間。何よりも変わった感情を抱えた少年は、柔らかく深まった気持ちを抱えた少女はやがて、二度目の“その日”を迎える。

18/06/04
19/03/16 修正、公開
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