春より先に訪れる

3月、桜舞う修了式。ある二人にとっては殊更特別な日。

どうしたってよく眠れるはずもなかった川端の登校は普段より遅れ、とはいえ他の生徒の平均的な寝坊よりは早いそれのお陰で最も賑やかな時間に校舎に辿り着いていた。
人の溢れる廊下を歩き教室へ向かえば、銀髪と赤髪がその入り口を塞いでいるのが目に入り。不意の光景に心臓と頭髪とがが浮き上がるような緊張すら走るが、すぐに朝練がなかったことによる差異を察して歩調を正す。形だけの平然を繕うことは彼女の得意とするところだった。

「──で、これ終わったら駄菓子屋いかねぇ?」

二人の会話が耳に触れるようになった頃、そこでようやく赤髪の彼もまたテニス部の者だったことを思い出す川端。名前は確か、マルイ。
自分のような人間ですら知れる名とは、いやはや噂とは恐ろしいものだ。さんざ思い知っていた筈の事実を改めて噛み締めながら二人の横を通り過ぎようと。

「すまんの、ちくと約束があるけぇ。──のぅ、川端?」
「え? あっ……お、おはよう?」
「おん、おはようさん」

したのだ、通り過ぎようと。だのにその片割れから声が飛べば不自然に足が止まる、吐こうとした息も詰まる。
たたらを踏んだ足も、一度彼方へ泳いだ視線も、原因はその唐突さだけではないのだろう。それを互いに察せる程に表してしまった羞恥は川端の頬に仄かに頭を覗かせて、瞬く間には消えてくれなかった。

「忘れとらんな?」
「ん。……覚えてるよ、ちゃんと」

頷き、同意。その動きは未だにぎこちなく。それが自分の言動、一つの約束から生まれていると気付いた仁王は軽く笑い、わざわざ足を伸ばしてまで低いとは言い切れない位置にある黒髪を撫ぜた。
初めての感覚、久しい感覚。誰かを撫でるのも誰かに撫でられるのも遠い記憶の中の出来事で、互いの間で前例があった認識はない。それなのに何故、赤まる頬。想像よりも癖は硬い、手に目を落とす。

「う……せ、席行くね。話の途中にごめん」
「おん」

雑念を払うようにぷるり頭を振った川端は俯きがちに、つっかえつつも早口の断りを置きながら、仁王が動いた故に出来た隙間を通り抜ける。
その心臓が、否、臓腑の全てが規則的に彼女を叩いていた。どうしてわざわざ。何で今。子供扱い? そりゃ子供だけど。胸は脈打ち思考は廻るも纏まらず、ただ耳と頬が痛むように熱を持つことと残る感覚とが頭の中を占めていた。


「……仲良いヤツか?」
「んー、クラスメイトの一人ぜよ」
「ふーん」
「今はまだ、な」

一方仁王。逃げるようにも見える背に口の端を歪め、それを認めた丸井はうへぇと声を上げる。

「仁王に狙われるとか、不幸なヤツだな」
「失礼な奴じゃの」
「お前にだけは言われたくねー」

苦虫を吐き出すように舌を見せた丸井だが、しかし詐欺師の心境はそのイメージと異なる。いや、異なりはしないのか。
自分を散々掻き乱してくれた相手が、かつての己と同じような状態に陥っているらしいのが、ただただいじらしいのだ。




普段よりも遅く、もどかしくなるくらいゆったりと時計の針が動いているように思えたのは気のせいだったのだろうか。この日は運動文化関わらず全ての部活に早期下校の連絡が回っていた為、長々とした式を終えた生徒たちはめいめい帰路についていた。


一人、五人、また一人、と不規則にその数を減らしてく教室のなか。群れを成して、またはぱらぱらと去っていく同級生を見送るようにサッシに身を預けていた仁王は、とある主のいない席を眺めていた。
目的の彼女がどこへ行ってしまったのか、それが分かる人間は自分含めクラスの中にはいないだろう。友人なんぞ、そんな深く考えんでも出来るろうに。

暇を持て余して見上げた空に、いつかの厚い雲は見当たらない。それどころか清々しく澄み渡ったそれは心地好く、ほんの少し眩しさを覚えて瞼をすぼめた。

「おーい、仁王ー!」
「ん」

過去に飛ばしかけた意識に割り込む声。離陸前で良かった、視線を教室の中へ旋回させる。
クラスメイト曰く、自身を呼んだ人間が教室の前で待っていると。やっとか。息を抜き、緩みかけていた口許に力を入れながら腰を上げた。中々の遠回りをし、ゴールテープすら見えたがまだ終わってはいない。いや、始まってすらいないのだと上げ直した視界、教室の出入口。そこに立っていた女生徒は、彼の記憶のどこにもかすらない顔をしていた。

「……お前さんは?」
「えっ……と、その……!」

知らないだけで可愛くない訳ではない。その証拠か野次馬根性か、彼を呼んだクラスメイトはにやつきながらその肩を叩いて去っていく。おそらく後輩であろう、見下ろす位置にある女生徒の表情と、それから導かれる言葉はよくよく知っていた。

「す、すいません。私……私、ずっと──」
「おぉっと、その先は待ちんしゃい」

だから、遮る。
目を丸めたのは少女だけだったろうか、己の家族のように背中にも目が付いている訳ではないから、入れ替わりに引っ込んでいった級友の顔まではわかりはしない。などと過ったのにも気付かれないように、息を吐きかけたのにも気付かれないように。

「何を言おうとしたにせよ、名乗りもせんで語り始めるのはいかんぜよ」
「あ、ごめんなさ……」
「それに、お前さんにゃあ悪いが応えてやるわけにはいかん。……先約がおるき」

最後の言葉は彼が目をやった先、廊下の隅にて気まずさにか体を固めている川端へ向けて。
一体何処へ行っていたのか、溢しかけた言葉は押し込めて首を振った仁王は傍らに足を伸ばし、自分達のそれに何処か似た硬めの手を取る。

「ここいらはまだ人が多いけぇ、ちくと場所変えるか」
「え? あ、ちょっ……」

にこり笑いかければ知らぬ後輩と同じ、けれど馴染んだ戸惑いの声が鼓膜を撫でる。耳の端を引く擽ったさと熱は認めるつつ、呆けた彼女の言葉は聞かずに歩き始める仁王。
川端の、痛むほどに高く鳴っている胸の太鼓が彼に届くことはないが、緩く握り返された手の感触は確かに彼の頬を緩ませたのだった。



屋上へ辿り着いた二人。その手はどちらともなくほどけて。そのままあの日の距離を再現するように二歩三歩と足を進め、やがてそれぞれの熱を滲ませた視線が絡み合う。

「……川端」
「私ね、本当は諦めようとしたんだ」

彼女にしては珍しい、相手の言葉に割って入る台詞。その言葉、その目に湛えられている苦しさを受け、息を詰めた仁王というのもまた珍しいものであったが。

「でも……諦めるつもりだったのにまた同じクラスになれたし、話しかけてもらえたし……うまく、割り切れなくなっちゃって」

ぽつり、ぽつり。降り始めの雨のように疎らに続く、纏まりきってはいないものの感情が織り込められた言葉が空気に溶けていく。

「諦められない、報われない。それをちゃんと分かって、それでも気持ちが磨り切れるまで……忘れるくらいになるまで抱えていようって思ったら、好きなものは仕方ないって思えたら、不思議なくらいすっきりしてさ」

一度口を閉じた川端の顔には、直前の言葉の通り一辺の曇りもない。少しだけ眉を下げた、この一年で詰められたはずの距離を開けた先の仁王を見やり息を吸い、「だから」と切り出して。

「ずっと……ずっと、好きでした。好きです」

それはあの日の続きのようでいて違う。差し出す振りをして押し込めていたあの日とは異なり、ほんの少しの恋を滲ませながら、今だからこその言葉を、想いを露にする。端から見れば熱の低い、けれどその実何度も打たれた鋼のごとき恋心。それが川端最後の一刃、改めて誠実とならんとした少女の差し出したものだった。

しかし、対する仁王の顔は晴れぬまま。その事実が川端を内心たじろがせるが、あくまで内心。決して表に出すことはしない。
常時よりも駆け足な脈の音が、互いに冷えを知らぬ耳元で騒ぎ始めていた。

静かに、琥珀と黒曜が向かいあっている。

「俺は、川端が思うような人間やないきに。……それが言えんままじゃったんが、ずっと胸につかえとった」
「……」
「嘘は吐くし授業はサボる。振った相手にもう一度告白させる上に、泣かせとったことも後から知った」
「そ、れは」

再び言葉を差し込もうとした川端は、目の前に現れた掌の主の視線が落ちていることに気付く。男子にしては長めの前髪は普段でこそ日に透けるような銀を見せているというのに、こういう時に限ってすっぽりと表情を覆ってしまう。
けれど、仁王が俯いたのは後ろめたさではなく、自らを見据える少女から逃げるためでもなく──

「付き合うとらんヤツが知らん男の前で笑っとるのを見て、アホほど嫉妬するような男ぜよ」

誰でもなく自分を見つめ直し、今度こそ彼女と向き合うため。

「それでも……こんな俺でも、本当にえぇんか?」

言って、顔を上げた仁王は笑っていた。言葉の初めでこそ自信の白々しさへの苦笑いが多くを占めてはいたが、言い終わる頃には確信も自信も安定せず、ただどうしようもない本音と化してしまったことへの自虐で満ち満ちていて。

けれどそれも再び意識の先となった少女が首までもを朱に染めているのを見るまでの話。
確定事項にも等しかった筈の言葉でそんな表情を見るとは。いや、まさか、正しく伝わっていなかった? 余りの想定外が置かれれば、あれだけ満ちていた筈の自虐なぞは吹き飛ぶ。

「……川端?」
「えっ? あ、うん、ごめん……!」
「ごめん」

柄にもない緊張のせいだったのだろうか。問う声にろくすっぽ回らない頭、熱に時を止められていた体でどうにか返そうとした川端は途端、不安定な声と共に謝罪。同じくらしくもない緊張を帯びだした仁王もどうしてか否定の可能性を拾いかけ。

「そッ、ぅいう意味のごめんではなく!!」

オウム返しに、それを察した川端がすっ飛ばさん限りに首を振る。水を浴びた犬のような様、青くなり赤くなりを繰り返しかねない川端の慌てぶりのおかげで仁王の冷静は多少蘇り、開けていた分の歩を詰めながら触れぬ程度に手を添える。

「わかった、わかったから落ち着きんしゃい」
「う、うん」

真に落ち着くべきは果たしてどちらか、などの戯れ言はさておき。予想を越えて多少のシュミレーションすらもしていたはずの言葉を投げられて溺れかけていた川端は、辺りを漂う冷たさの残る空気を深く吸っては吐いて、気持ちと心拍とを整えている。
周囲すら見えなくなるほどに騒がしい自身の音。胸で耳でと騒ぎ立てるそれは、自分だけがわかるものではない。照れに表情を崩すその様に仁王は頬を緩ませたが、彼女がそれに気付くことはついぞなかった。

そして最後に大きく息を吐いた川端は朱みの引いた、熱は残ったままの目を琥珀へ向ける。

「……本当、ごめんね。その、分かってた…つもりだったんだけど、実際に言われてみたら凄く嬉しくて……ちょっと、頭が止まった」
「あぁ」

長く、短く。続く息は異なれど、互いに噛み締めるように。

「私もね、本当はこんな人間じゃないんだよ。口悪いし、すぐ手出すし、煩いし……見せてないところも、見せたくないところも沢山ある」

それぞれの胸の内に浮かぶのは、相手に見せていない自分の姿。断りも入れず覗き見た相手の姿。

「それでも仁王く──仁王、の…隣に立っていられるなら、私、わっ!?」

どうにか落ち着き始めていた川端の声はしかし、言葉の途中で抱き寄せられるという想定外極まりない行為により上擦り。出来たことといえば目を白黒させることだけ、やがて思い出したようにもがきだした彼女を抑え込むように、窘めるように添えられた仁王の手は川端の頭を抱える。

「はーもう、本当に可愛いなおまん」
「カッ」

短く鳴いたきり止まる川端。その髪にするり指を通す仁王が、既に再加熱された耳元で「回りくどい言い方してすまんかった」と低い音を響かせるものだから、そこに集っていた熱が震え弾けて顔中に。ポップコーンもかくやである。
こんなに熱くて頭は大丈夫なのだろうか、余計な思考ばかりが回る辺り、既にまともな働きは出来ていないらしい。

「──好いとうよ、川端」
「うっ……ん」
「好いとる」
「……うん」

繰り返される確かめるような声。どこか蕩けるような響きを持った応えが人のいない屋上に流れ、彼らにのみ吸われていく。

「川端は?」
「わた、私も……すき。すごく好き、ずっと」
「あー可愛い」
「ぐっ」

唸りというには甘みの強いくぐもった声。不覚にも洩らしてしまったそれにまた顔を赤らめた彼女は、ついに目の前の肩口にその熱を押し付けるのだった。



一つの、一時は散った片想いから始まった二人の関係。まるでハッピーエンドのような空気すら満ちてはいるがここは終点に非ず、むしろようやくスタート地点。
三年という新たな舞台へ向かう、詐欺師と不器用者の愉快なお話はまだまだ始まったばかり。

とはいえ、ここが区切りであるというのもまた事実。確かにあるわけがない人目を気にせず抱き合う二人はさて置いて、物語は一度閉幕と相成ります。

18/06/18
19/05/08 修正
1/1


prev | top | next