「不登校」の菜々子



 菜々子のかき氷はいちご味で、とっくの昔にどろどろに溶けきってしまった。
 小学校のグラウンドから、ド素人の下手くそなウクレレ合奏が聞こえてくる。その下にかすかに、すぐ向こうの川を流れる水の音。この地域の一日限りの夏祭りはもうすぐ終わろうとしていて、空はとっくに夜の色に変わっていた。それでも、ここ――小学校のすぐ裏手、プールの隣に静かに所在する忠霊塔と小さな公園には、祭りのにぎやかな雰囲気、ばかデカい歓声やBGM、油っこいにおい、あちこちに臨時で設置されたびかびかに明るい照明その他いろんなもんが全部流れ込んでくるから、俺は落ち着かない。隣の菜々子は、二の腕同士がくっつきそうなほど俺に接近しているくせに、でも絶対にくっつかない程度のスペースを俺との間に置いている。偶然じゃなく、確信犯で。それがわかるから、俺はますます落ち着かないし、いらいらする。
「もういらない」
 水になったかき氷をしばらくぐるぐるとかき混ぜていた菜々子が、とうとう言って俺との隙間にカップを置いた。忠霊塔の足元、石段に腰掛けた俺たち以外に、この場に人はいない。みんな、入口ンとこに張り巡らされた「立入禁止」のロープを律儀に守っているらしい。すぐそばの道路をチャリでかっ飛ばしていく音が時々するものの、向こう側からは死角になっている位置に隠れた俺たちのことなんて、誰一人気づかないらしかった。
「おごらせといて、それかよ」
 頭の皮膚から汗が湧いて、うなじをゆっくりと滑っていった。俺を横目でちらと見た菜々子は、濡れた手をスカートの裾で拭いながら、ごめん、とつぶやいた。
「でも、しょうがないじゃん。もういらないんだもん」
 投げやりに言った菜々子に対して、俺は瞬間的に衝動を抱く。怒鳴りつけたいような、掴みかかりたいような、とにかく乱暴でたちの悪い衝動。でも今の菜々子にそんなもんをぶつけたらしゃれにならない。代わりに、両手でこぶしを作る。きつくきつく、強く。

 菜々子は「不登校」だ。
 いや、正確に言うと学校には一応来ている、らしい。中学の北校舎の三階、その端っこには相談室という部屋があって、勉強とか家族とか友達とか部活とか、いろんな悩みを専門のカウンセラーに相談できるようになっている。でも、「普通」のやつらはそんなとこ利用しない。相談室は実質、教室に通えない、「普通じゃない」やつらのたまり場と化していて、菜々子もその住人の一人だ。よって「不登校」は正しい表現じゃないわけだが、「普通」の俺たちからしてみたら、相談室にいようが保健室にいようが職員室にいようが、教室にいない時点でそれは「不登校」と変わらない。中三になってすぐ「不登校」になった菜々子の席は、埋める人間がいないことがもう当たり前になっている。教室に菜々子がいないのは、日常だった。
 菜々子に何があってそうなったのか、俺は知らない。菜々子と一番仲の良かった俺の双子の姉貴、葉月も、何も聞いてないと言っていた。誰にもなんにも告げないまま、怪しいそぶりも見せないまま、菜々子は不登校になった――いや、相談室登校になった。
 だから俺と菜々子が付き合っていることは、学年の誰もたぶん気づいてない。
 二年の一月だ。部活が終わって体育館を出たところで、先に出ていったはずの菜々子が俺を待ち伏せていた(俺と菜々子、それに葉月は同じ剣道部で、体育館の地下にある道場で練習をしていたのだった)。
 すっかり日の沈んだ真冬の空気はしんと澄みきって、玄関灯の明滅が普段よりも鋭く地面を照らし出していた。その明かりの届かないスペースまで俺を引っ張っていくと、菜々子は辺りをきょろきょろと見回してから、口を開いた。
「ちょっと、耳貸してくんない?」
 俺と菜々子は特別親しいわけじゃなかったけど、普通に話す仲ではあった。だから俺は特に疑問を抱かず、チビの菜々子に合わせて身をかがめた。
 次の瞬間、俺の口に菜々子の口がくっついていた。
 さらにその一秒後には、目の前の菜々子の唇から真っ白い息がぶわっとあふれ出して、やつはけらけら笑っていた。
「飛鳥、頭いいくせに超単純」
 俺はかなりむっとして、菜々子の肩を掴む。学校指定のジャージに覆われた薄っぺらい肩は、俺の片手であっけないほど簡単に包み込んでしまえた。
 けれども菜々子はするりと逃げて、俺の額を小突いた。
「あんためっちゃ汗くさいよ」
 そう言った菜々子はぱっと身をひるがえして、駐輪場の方へと階段を駆け上がっていった。肩のエナメルバッグを揺らしながら去っていく菜々子の後ろ姿で、一本に束ねられた髪が左右にぶんぶん振れていた。

 菜々子が普通に学校に来ていたのは、それから二ヶ月と少しの間だけだ。その期間、俺たちはカレカノっぽいこと――一緒に帰るとか、テスト勉強するとか、昼休みに二人でだべるとか、そういうことは一切していない。しないまま菜々子は教室からいなくなって、そこからまた何日も何日も過ぎて、夏休みのまんなか、町内夏祭りの今日、俺たちはあの日以来初めて二人きりで会っている。だからもしかしたら菜々子には、俺と付き合っている意識など、全くないのかもしれない。
「受験、どこにするか決めた?」
 しばらく続いた沈黙の後で、菜々子が訊いてきた。俺が「別に」と答えると、「余裕かよ」と苦笑する。
「どうせ後高でしょ。担任に受けろって言われるんじゃん?」
 後高は市内、さらには県内で一番レベルの高い高校だ。男子校で、うちの中学からは毎年一人くらいしか合格できない。
 お前はどんなんだよ、と言いかけて、途中でやめた。授業もろくに受けていない今の菜々子にそんなことを訊くのは、野暮ってやつなのかもしれない。それに俺はこんな話をしたいわけじゃない。菜々子だってそれはわかっているだろうに、すっとぼけて知らんぷりをしようとしている。俺を、ごまかそうとしてる。
「向こう行くぞ」
 俺は立ち上がって、小学校の方に目をやった。でも菜々子はそっぽをむいて「やだ」とつぶやいた。
「見つかったらやべえだろ。ここ一応、立入禁止だし」
「だったら見つかんないよ。立入禁止なんだもん、誰も来ないって」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
 菜々子が、俺を見上げる。横に流れた前髪の奥から、微妙にデカいニキビが覗いた。
 菜々子の視線は、すっと尖っていた。俺をはねつけるように目玉を光らせて、でもその中に一滴、わずかなにごりがある。こいつは、確信を突かれることを恐れている。俺にびびっている。
「お前、なんでフトーコーなわけ?」
 だから俺は、そういう菜々子を思いっきり踏みにじってやりたくなってしまった。
 菜々子が一瞬唇を噛み込んだ、その仕草が、薄明かりにあぶりだされる。俺を憎しみこめて睨み上げる、やつの瞳から俺は目を背けてやらない。負けじと睨み返していると、「まもなく三河手筒花火が始まります」というアナウンスが、俺たちの間に割り込んできた。
「……つーか、不登校じゃないし」
 ややあって口を開いた菜々子は、あくまで憎まれ口だった。
「同じだろ。なんで普通に教室来ねんだよ」
「普通ってなに? あたしは普通じゃないってわけ?」
「普通じゃねえよ」
 違う。何が普通で何が異常だとか、そんなことはどうだっていい。ただ俺は、菜々子にむかついているだけだ。
 そう、むかつくんだ。勝手に一人で閉じこもっておいて「あたしかわいそう」みたいなパフォーマンスをするこいつが。相談室で、前までだったらつるみもしなかったような陰キャ連中ときゃーきゃーはしゃいでいるこいつが。教室に空席を作っておいて平然としているこいつが。
 俺に何を言ったところで無駄だと、諦めていやがるこいつが。
「ちょっ、」
 俺は菜々子の胸めがけて右腕を伸ばした。それは触れる前に叩き落とされる。だから左手でスカートの上から太ももに触ってやった。そのまま膝を掴んでやってみせたら、どん、と勢いよく突き飛ばされた。俺は二、三歩後退する。靴の下で砂利が鳴った。
「なんなんっ」
 菜々子が叫ぶ。けれどもそれは、佳境に差し掛かった祭りの騒めきにあっけなく掻き消される程度には、力がなかった。菜々子は自分を抱きしめるように両手を交差させてうつむく。湿気がむさっくるしく、俺のてのひらには、菜々子の汗ばんだ体の感触がくっきりと残っていた。
 弱い風が吹く。学校にいる時より若干高い位置で結ばれた菜々子のポニーテールがそれにさらわれて、でもすぐに元に戻った。
 菜々子は顔を上げない。やつの、渦巻き状のつむじを見下ろしながら、俺は乱れた呼吸を整えるように、意識して肩を上下させた。
「――お前、なんで俺にキスしたの?」
 ぴく、と菜々子の体が震えた。俺はさらに続けた。
「モテない俺がかわいそうだから? ただなんとなくしただけ、それとも痴漢か? なあ、どうなんだよ。意味わかんねえんだよお前のやってることがっ、俺には全然、」
 まくしたてる。心臓が、体力テストで一〇〇メートルを走りきった後みたいにばくばく動いている。グラウンドから、ひときわ大きな歓声が聞こえてきた。花火が始まったらしい。
「わりぃけど、お前に哀れまれるほど飢えてねーよ。お前が俺のことなんかどうだっていいってんならさっさと他探すだけだし。はっきり言えよ、いらいらすんだよ」
 菜々子は何も言わない。頭を垂れたまま、俺と目を合わせるそぶりすらない。
「菜々子、」
「あんただって!」
 ふいに、俺を遮るようにして菜々子が大声をあげた。
「あんただって同じじゃん。あんただって、あたしに好きとか付き合ってとか全然言ってこないじゃん。それって結局あたしのことなんかどうだっていいってことっしょ。だったらマジで他探せば? そんなこと思ってるやつとなんか一緒にいたくないし」
 ところどころ舌をもつれさせながらも、バケツの水をひっくり返したみたいに菜々子は一気にぶちまけた。
「あたしがなんでこんなとこにいんのか、なんでグラウンドの方行けないのかだって全部わかってるくせに『行くぞ』とか言うし。あたしといんのがヤなら近づいてこなきゃいいじゃん。興味ないんなら、こっち見なきゃいいんだよ」
 菜々子の声量はデクレッシェンドを描いていく。最後のつぶやきは、鼓膜だけに神経を集中させていなかったら、リリリリ、と鳴く虫の声にすら押しつぶされてしまいそうなほど、小さなものだった。
「……飛鳥に、あたしの気持ちなんてわかんない」
 反射的にこぶしを振り上げる。でも、こいつにとって俺はその程度なのだ、簡単に切り捨てたって、切り捨てられたってしかたない、と自分を納得させられてしまう程度には執着がないのだ、と思ったら、キレる気力もなくなった。俺は浮かせたこぶしをゆっくりとおろして、開く。遠くの県道を走る車のエンジン音が、絶えずにぶく聞こえている。

「知らないよ」
 菜々子が「不登校」になったばかりの頃、俺は葉月に訊いたことがある。
「いじめもシカトもないし、成績だって別に。何回か家行ったことあるけど、問題があるって感じじゃなかったし。まあ誰がうぜえとかテストめんどいとかはよく言ってたけど、そんなんうちらだってそうじゃん」
 ダイニングの椅子に片足を乗せた状態で座った葉月は、枝毛をちぎりながらしゃべった。俺の方は見向きもせず、投げやりに。
「単純に、めんどくさくなっただけなんじゃないの。受験がどうのとか引退試合がどうのとか、うちだってうぜえって思う時あるもん」
 葉月の脇に立ちながら、俺はフローリングを踏む足の裏に力を込めた。電源を落とされたテレビの黒い画面に、俺たちが薄く映っている。
「……でも、友達だろ、お前、」
 葉月は片眉をつりあげて俺を見上げた後、吐き捨てるように言った。
「友達ったって、心ン中透視できるわけでもあるまいし」
 菜々子が何も言ってこないんだから、あいつの行動で判断するしかないじゃん。
 なおも顔を強張らせてしまっていた俺を、見透かしたように鼻で笑って、葉月は俺の目を射抜いた。
「そんなに気になんなら、飛鳥が連れてくれば」

 持ち帰られることのないプリントでいっぱいの机。たった一つだけ空っぽなままの教室ロッカー。そこに空席のあることが当然であるかのように振る舞うクラスの連中。一人足りない、それが日常になりつつある三年三組。
 選んだのだと思っていた。そういったもの全部、菜々子が自分の意思で決めて、自分から選択したんだと。でも違うのかもしれない。菜々子が選んだんじゃなく、俺が――俺たちが、選ばせたのかもしれない。
 別に、だから菜々子は被害者だ、とは一切思わない。だってこいつは加害者になろうとしている。自分は切り捨てられたんじゃない、切り捨てたんだ、そう自分に言い聞かせることができるように、俺を切り捨てようとしている。
 自分を守るために、菜々子は俺を捨てようとしているのだ。それこそ、「もういらない」と。
「――ふざけんなよ」
 自分でもびっくりするくらい低く重たい声が出た。菜々子ははっと顔を上げて、それからまた目をそらす。
「なに悲劇のヒロインぶってんだよ。お前、世界中で自分だけがかわいそうだとでも思ってんじゃねえの? ふざけんなよ、俺や葉月みたいにどんだけヤなことあったって逃げないでいるやつのがよっぽど偉くてかわいそうなんだよ、甘えてんじゃねーよ」
 背中や鼻に脂汗の噴く感覚。前髪が湿って額にへばりつく。
「わかってもらおうともしねえくせに『どうせお前にはわかんない』とか、ガキみてえなこと言ってんなよ。わかるわけねえだろ、俺はお前じゃないんだよ」
 そうだ。俺には菜々子の考えていることが、抱えているものが全くわからない。それを、菜々子みたいに「しょうがない」と諦めることができない。それがむかつくし、そんなことを「むかつく」と思っている自分にまたむかつく。
 俺は菜々子の二の腕を引っ張り上げた。強引に立ち上がらされた菜々子は、幼稚園に行きたがらない駄々っ子みたいに俺を振り払おうとする。いやいや、と首を振りながら。
「やめてよ!」
「お前花火見たかったんじゃねえのかよ、こんなとこいたら見れないだろ」
「見たくないっ、」
「じゃあどうしたいんだよ、」
「わかんないよ!」
 菜々子は俺を突き飛ばすと、その場にうずくまった。膝を抱いて顔を伏せる。
「普通がどうだったのか、もうわかんないんだよ。前のあたしがどんなだったか、もう思い出せないの。あたしだってわかんないの」
 薄闇に、菜々子の白いうなじが光る。目をこらすと、菜々子の髪先も汗でうねり、肌にはりついていた。
「……怖いの。それだけはわかるから、余計どうしようもないんだよ」
 ずっと、菜々子がわからなかった。でも今、やっとわかったことがあって、それは菜々子が、蔑まれることを恐れているわけではないということだ。
 同じ学年のやつらが大勢集まっているだろうグラウンドに出ていって、「不登校のくせに」と陰口叩かれるのが怖いわけじゃない。今更教室に戻っていって奇異の視線でじろじろ見られるのが嫌なわけでもない。みんなが自分の姿を久しぶりに認めたところでなんのアクションも起こさず、いつも通りに振る舞うこと――自分がいてもいなくても何も変わらない、それをはっきりと突きつけられることが、こいつは怖いのだ。
「菜々子、」
 呼びかけても、菜々子は微動だにしない。俺は菜々子の体を無理矢理引き寄せると、あの日と同じように身をかがめた。
 あの日と違うのは、俺の唇が菜々子のそれにあっさりと重なったことだった。菜々子の肩に指を食い込ませても、菜々子の唇の隙間を俺の舌で割っても、菜々子は俺を弾き返さなかった。ただ黙って、俺を受け入れていた。
 口を離すと、菜々子は泣きながら俺を見つめていた。飛鳥、と消え入りそうに細い声でささやく。川風が俺たちの熱をさらっていく。
「菜々子、」
 馬鹿だ、こいつは。なにもかも勝手に、決めつけんなよ。決めつけておびえんなよ。
「俺はお前を、必要ないなんて思わない」
 菜々子が目を見開く。俺はしゃがんで、菜々子と視線の高さを合わせる。そうしてもう一度、菜々子を抱き込むようにキスしてやった。
 告白だ、こんなの。でも、負けたとは思わなかった。こいつがもう二度と、俺が菜々子をどうでもいいと考えているなんて妄想に取りつかれないように。「もういらない」なんて死んでも言わせないように。俺をむかつかせないように。
 捨てられたくない、と俺は菜々子に願わせたい。
 手筒花火の火花が散る、さらさらとした音を遠くに聞きながら味わった菜々子は塩辛くて、俺は俺が歯痒かった。