7月10日9時24分
カブトガニのいる水槽にはりついて「化石じゃんっ!」と声を張り上げる、孝樹くんの横顔は水族館独特の青っぽい光に暗くあぶり出されて、なのに太陽の下よりも輝いて見えた。
日本海にぽっかりと浮かぶようにして建っているこの水族館には、小学二年生の遠足で行った地元の動物園にはいなかったような生き物がたくさん、たくさん泳いでいる。いよいよ台風が近づいてきたせいか外はあいにくの雨だけれど、わたしたちでほぼ貸切状態の水族館の中には、みんなの興奮と笑顔があふれていた。臨海学校最終日なのに海に入れなかった、と考えれば少し残念なような気がするものの、七月上旬の海はまだまだ冷たくて寒かったから、やっぱり水族館になってよかったな、とも思ってしまう。
なによりも、孝樹くんの笑顔がまだわたしの隣にある、ってことが、とても、とってもうれしい。
「二階行こうぜ」
孝樹くんのその一言で、わたしの班はそろって階段を上っていく。わたしの所属する水泳班(班カラーは紺)は、泳力的に一番下に位置しているはずなのに、スポーツ万能な孝樹くんがなぜか混じってリーダーをやっている。班構成は先生たちの案だから確信はないけれど、もしかしたら「どんくさい子ばかりじゃ事故が起きるかも」なんて計らいがあって、それで孝樹くんがぽつんと組み込まれてしまったのかもしれない。だとしたら孝樹くんにすごく申し訳ない、でも孝樹くんは、動作の一々が下手くそなわたしたちを見捨てず馬鹿にせず、ちゃんとリーダーをやってくれていた。学年で一番、というレベルで運動音痴なわたしのバディを、最後まできちんと務めあげてくれた。男の子にめったに呼ばれないわたしの名前――「村田由香里」を、「村田」って縮めて、何度も何度も口にしてくれた。わたしの名前を、覚えていてくれた。
だからわたしはこの三日間で、孝樹くんのことが大好きになってしまった。
二階の一角には人だかりができていて、そこはヒトデやナマコに直接さわれるふれあいコーナーだった。孝樹くんたちもその輪に突撃していく。学校名がローマ字でプリントされた体操着の背中、そのうちの一つは加奈ちゃんのものだった。同じ班の敦司くんとなにやら話しながら、水の中に腕を沈ませている。腰だけで器用に敦司くんを小突いて笑う加奈ちゃんは、転校してきたばかりなのに、わたしなんかよりずっとみんなに馴染んでいるように見えた。とっさに目をそらす。
もし加奈ちゃんが転校生じゃなかったら、わたしたちはきっと友達になんかなっていなかったと思う。加奈ちゃんは本来、わたしみたいな子の隣にいるべき女の子じゃない。明るくて気さくで、やさしくて、かわいくて――「孝樹くん側」にいなくちゃいけないはずの女の子なんだ、絶対に。自分から人と関わっていけない、ろくに目も合わせられない、存在が軽すぎていじめられもしない、そんなわたしが加奈ちゃんには声をかけることができたのは、友達になれたのは、そういう「わたしがきらいなわたし」を、ただ一人、知らないでいた女の子だったから。
わたしが友達でいいの? いつまで友達でいてくれるの? 隣にいるのがわたしなんかで、加奈ちゃんは心の底から楽しんでいてくれている? うじうじ悩み続けてしまうわたしに、それでも加奈ちゃんは笑顔を向けてくれる。花でも太陽でもない、本で読んだどんな比喩も当てはまらない、加奈ちゃんオリジナルの笑顔を。
――友達になってくれてありがとう。
だからあれは本当に、わたしが言わなくちゃいけない台詞だったんだよ、加奈ちゃん。
「ヒトデ」
はっとした時には、わたしの目の前にはヒトデが差し出されていた。孝樹くんの右手に収まったヒトデは、青を中心に点々とオレンジ色が混ざった体で、表面はでこぼこしている。屋外のペンギンコーナーにつながるドアは開け放されていて、潮の香りがつんと鼻を刺した。
固まってしまったわたしに、孝樹くんは言った。
「あ、こういうのムリな感じの人?」
前に向き直りかけた孝樹くんを、遮るように勢いよく首を横に振った。両手を出す。孝樹くんは一度まばたきをしてから、わたしにヒトデをくれた。受け渡しの時、一瞬だけふれた孝樹くんの指は、たちまちにナマコの方へと伸ばされてしまう。
手の中でぬるぬるとヒトデはうごめく。わたしに気づいた加奈ちゃんが「由香里ちゃん!」と手招きをしてくれて、わたしはそっちへ駆け寄った。きもっ、という孝樹くんの声は相変わらずみんなのまんなかから上がって、わたしは彼の笑顔を遠くから、ひっそりと見つめる。
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