こいつは俺におびえている。びくびくと、強盗に監禁された人質みたいに俺の顔色をうかがって、いつもいつも、俺を苛立たせる。

「聞こえねえよ」

 OCの授業中、隣のヤツと教科書の音読をしろ、と津吹に命じられた教室は、だるさを漂わせながらもぬるくざわめきに満ちていた。俺の言葉に、口元を隠すようにして教科書を立てていた櫻木が、大袈裟なくらいに肩を震わせる。俺はペン回しを続けたまま、左隣で身を縮めている櫻木の目玉を凝視する。
 制服のリボンをいじっていた櫻木が、おっかなびっくり、といった感じでまた口を開いた。唇が小さく動く、でも声は他のやつらの音読にまるっきり飲み込まれて、一音たりとも俺に届かない。

「聞こえねえっつってんだろ」

 苛立ちのままにもう一回言ってやると、櫻木は一瞬、目尻を張りつめさせた。そのまま沈黙する。うつむいて、中途半端に長い髪で顔を閉ざす。俺はいらいらして、死ぬほどむかついて、舌打ちして机の脚を蹴った。がん、という金属音に、櫻木は大きく反応して、横目に俺を見た。それからまたすぐにそらす。
 いつからこうなったとか、きっかけはなんだったとか、そんなもん、もうなんにも覚えちゃいない。ただ、いつのまにかこうなっていた。俺は櫻木の全部――表情も仕草もにおいも気配もなにもかもが癇に障って、むやみに腹が立って、苛立ちを抑えられない。櫻木はそんな俺の感情を敏感に的確に感じ取って、おびえる。泣きそうな顔を作る。その、「被害者」みたいな態度に俺はまたいらいらを煽られて、ほとんど憎しみみたいな熱情を櫻木に対して抱く。
 黙ってんじゃねえよ、と怒鳴り散らしてやろうとして口を開きかけた、ちょうどその時に教室を徘徊していた津吹が櫻木の向こう側に立った。読み終わりましたか、と眼鏡の奥の目を細めて櫻木に声をかける。
 振り仰いだ櫻木が、先生、とすがるように囁いた、その水気の多い声を俺の耳はなぜかしっかりと拾えてしまって、瞬間、俺はこいつをぶっ殺してやりたいと思った。

「きちんと、やらなくては駄目ですよ」

 それと福嶋くんはネクタイをしなさい、ボタンも開けすぎです。余計な説教を付け足して、津吹は行ってしまった。でこが後退し始めている津吹の、その背中を櫻木は視線だけで追う。俺と向き合っていたさっきまでとは全く逆に、しゃんと背筋を伸ばして。横髪が流れて、櫻木の輪郭がくっきりと現れる。
 俺はその髪をひっつかんでむりやりこっちを向かせてやろうと思いついたけど、さすがに問題になる気がしたから、できなかった。

「櫻木」

 呼びかける。同時に、津吹が音読タイム終了をアナウンスした。櫻木は俺を見ることなく、津吹を見つめ続ける。窓からの光が淡く投げかけられた教卓の、前に立った津吹を見つめ続ける。俺はきつくきつく、唇を噛む。
 シカトこいてんじゃねえよこのクソ女。
 むかつく。いらいらする。それはこいつがただの一度も俺の名前を呼んだことがないからだと、今、唐突に気がつく。先生、という単語は、もううんざりするくらい聞いてるのに。ふざけんじゃねえ。
 むかつく、心底むかつく。どうしてそんなことがむかつくのか、理由なんてわかりきってるから俺はますますどこまでも、櫻木にむかついている。



 毎日毎日、どんなに英語を勉強したって、いつまでも先生には追いつけない。
 北校舎の片隅の英語教室に、凛と力強い、でも繊細な女性の歌声が弱く流れている。Boys Town Gangの「Can't Take My Eyes Off You」。歌詞が印刷されたプリントに目を落としながら、女性の声に合わせて私も歌う。でも思うように声は出なくて、私の歌声は目の前の銀色のラジカセから漂ってくるCDの音声に、簡単に負けてしまっていた。
 教卓に頬杖をついた先生が、真ん前の席に座る私をどこか楽しそうに見下ろしている。気配で、先生が微笑んでいることがわかる。だから私はろくに顔も上げられないまま、じっとプリントと机の木目を睨んでいる。
 たった一人の英語部。夏の終わりに三年生が引退してから、私は先生と二人きりで部活の時間を過ごしている。来年、一年生の入部がなければきっと廃部になってしまう、だからもしかしたらそう長くは続かないかもしれない、この時間を。

「もっと、大きな声で」

 頭の上から、先生の指示が降ってくる。私はぐっと喉をつまらせる。

「歌って、櫻木さん」

 とうとう声は完全に出なくなった。そのうちに、曲も終わってしまう。外を吹き渡る木枯らしががたがたと窓ガラスを震わせる、その音だけが教室に残った。
 しばらくの間のあと、先生は教壇を下りて私の隣の席に腰掛けた。もう一度CDを再生してこちらに身を乗り出し、プリントに指を落とす。瞬間、枯草みたいなにおいがして、これがもしかして加齢臭、と思った。
 CDが歌う。先生も歌う。先生の歌声は低くてやわらかくて、あんまりあたたかいから私は、泣きそうになる。

「ほら、歌いなさい」

 私を覗き込んで、先生が急かす。眼鏡のレンズの向こうから射抜くように私を見つめる。だから私は口を開けない。だって、私は知ってる。「Can't Take My Eyes Off You」――この邦訳くらい、英語部のくせに英語がそれほど得意じゃない私だって、知っているのだ。
 曲が途切れた。先生が、ラジカセを停止させたのだった。

「部員が一人じゃ、つまりませんよね」

 溜息をついて、苦笑いをする。私はそれに一々傷つく。お願いだから私たちのこの時間を、「つまらない」なんて切り捨てないでください、先生。
 ふいに先生が、窓に目をやった。すっかり陽の沈んだ景色の上に、横に並んだ私たちの姿が浮かんでいる。窓に映る私の、髪は肩につくかつかないかくらいの長さしかなくて、まだまだ全然、足りない。
 先生が私に向き直った。帰りましょうか、と言う。私はそれにまた傷つく。先生の左手に、ほとんど反射で目を走らせてしまう。
 ねえ先生、私が髪を伸ばしているのは、先生の大切な人が綺麗なロングヘアだって、知ってるからなんですよ。ほんとは「先生」なんかじゃなくて、先生の愛する人みたいに、「陽治」って、貴方を呼んでみたいんですよ。
 先生なんてただのおじさんなのかもしれない。ちょっとハゲのきざしが見え始めているし、加齢臭はするし、いつも煮しめたような茶色っぽい服ばっかり着ているし、声には時々痰がからむし、清潔感はあってもおなかだって少し出ている。クラスの女の子たちに、たまに「キモい」って言われている。中学生の時に好きだった、バスケ部の部長で頭もよかったあの男の子とは、まるで違う。

「また明日、櫻木さん」

 先生が私の肩を叩く。私はうなずいて、急速に込み上げてきた涙を必死にこらえる。
 でも、思うんだ。こんなふうにやさしく私の名前を呼んで、こんなふうにやさしく私にふれてくれる男の人は、これまでもこれからも、きっと先生一人きりだ、って。

「先生、」

 本当は貴方と同じ場所に帰りたい。貴方を、愛する人の待つ家になんか帰したくない。ずっとずっと、貴方と一緒にいたい。

「――また、明日」

 でもそれは無理だから、私は約束する。明日も変わらず、貴方に会いたい。会いたいんです、先生。
 先生は笑って、さようなら、と口にする。
 家に帰ったらすぐに、英語の勉強をしよう。今日より明日、少しでも先生に追いつけるように。



 自分よりふたまわり以上年下の女にあからさまな好意を寄せられるというのは存外気分のいいものであると知った時、俺は自分をおそろしいと思った。
 今も、櫻木さんは葛湯のようにとろりと熱のこもった瞳で俺を見つめている。俺はそれに気づかぬふりで、右手の、サンタクロースのハンドパペットを動かす。合わせて、台詞をアテレコする。続いて櫻木さんも男の子のパペットを操りながら台詞をそらんじ、演じた。今度のクリスマスイヴに、近所の児童養護施設で披露する英語劇の練習だった。英語部の毎年の恒例行事で、普通顧問は参加しないが、部員が櫻木さんただ一人しかいない今、まさか彼女だけに全てを丸投げするわけにはいかない。
 二人、並んで教壇に立って、からっぽの英語教室に向かって劇を上演する。助言を与えてくれる人間がいないから、いくら練習を繰り返したところで上達しているのかしていないのか、よくわからない。先日設置された石油ストーブだけが、ぼうぼうとうなりながら観客の役割を果たしていた。

「先生」

 本日何度目かの通し練習が終了したところで、櫻木さんが口を開いた。なんですか、とうながしつつ、俺は身構える。

「く、クリスマスイヴ、ですけど。あの、本当に、少しでいいので、」

 まつげを伏せてか細い声を紡いでいた櫻木さんが、そこで毅然と顔を上げた。

「私と一緒に、いてくれませんか」

 数秒、俺は櫻木さんと目を合わせていた。普段はすぐに視線をそらしてしまう櫻木さんも、じっと俺を見据えていた。現在の教え子の中でも一際背の低い櫻木さんは、せいいっぱいに首をそらして俺を捉えていた。
 沈黙の末、先に息を吐き出したのは俺だった。

「いてくれもなにも、劇がありますからね。そりゃ僕は櫻木さんといますよ」
「そうじゃありません」

 笑ってはぐらかそうとした俺を、櫻木さんはきつく遮った。そうして、思わぬ力強さで俺の右腕を掴む。

「先生のそばに、いたいんです」

 石油ストーブが爆ぜる。櫻木さんは俺のサンタクロースの口元に、自分のパペットのそこをすばやく押し当てた。直後うつむいて、耳のふちまでを赤々と染め上げる。
 わかっている。この年頃の少女は、むやみに年上の男に憧れを抱くものなのだ。それに、櫻木さんのように控えめで警戒心の強い女は、ひとたび心を許すと反動のように相手にとことん依存する傾向がある。相手を絶対的な存在であると妄信し、自分の全てを明け渡しても構わないと陶酔しきる。彼女にとって「最も身近で信頼に足る年上男」が偶然にも俺だった、ただそれだけのことなのだ。わかっている。だから俺はこれまで、知らぬふりを貫き通してきたのだ、ずっと。
 自らの内側で燃え上がる劣情を、必死にごまかしながら。

「……自分が何を言っているのか、わかってるんですか」

 俺は二つのパペットを教卓の上に投げ捨てた。櫻木さんは俺の腕を握ったまま、うつむいたまま、返事をしぼり出す。

「はい、」
「うそだ」

 俺は櫻木さんの手を振り払い、彼女の顎を引き上げた。

「お前はなんにも、わかってない」

 櫻木さんが硬直する。俺はわざとらしく溜息をついてみせ、彼女の顎を放した。
 貴女みたいな人は、他でもない、貴女そのものを素直に想ってくれる男を選んでおけばいい。たとえば、貴女にわかりやすく恋愛感情を向けている、同じクラスの福嶋くんのような。その方がよほど幸せだ。こんな、ただ単に「作業」でないセックスをしたいと考えているだけの人間などに、かまけていなくていい。教師でありながら生徒とのセックスを夢想するような男など、選んではいけない。
 俺に貴女を、選ばせないでくれ。

「だったら」

 言った、櫻木さんは俺の胸に勢いよく頬を寄せた。

「教えてください」

 そうして俺の腰にぎゅっと腕を回し、涙声でささやく。

「――先生が、教えて」

 俺は櫻木さんを抱きすくめその唇をかすめとった。腕の中で彼女が身をよじるが俺は放さないし力をゆるめてもやらない。あだっぽく呼気をもらし腰をくねらせる櫻木さんを前に、俺はもう、抗うことを捨てる。
 この娘の胎内に何度射精したところで、どうせ孕ませることなど叶わないのだから。

「あ、」

 スカートをたくし上げ、下着の中に指を滑り込ませる。待って、と彼女がつぶやいた気がするが知ったことではない。彼女がきっと作り上げているであろう「津吹陽治」という人物像、そんな完璧な男はどこにも存在しないのだと、はっきりと明快に、思い知らせてやる。
 ねえ櫻木さん。俺は妻に子を授けてやる能力すら持たない、そんな男ですよ。愛も快楽も介在しない、子をなすためだけの作業じみたセックスすらもう何年も失っている、欠陥人間だ。「理想の大人の男」なんかじゃない。もっと言えば、「大人」と「子ども」の狭間に、明確な境界などありはしない。
 櫻木さんの上半身を教卓に押し倒した。首筋に顔をうずめて彼女のにおいを嗅ぎ、にじむ汗をねぶりとる。舌を舌ですくい上げ、吸い出し、からめ合う。「教師」をかなぐり捨てたろくでもない「俺自身」を、強引に乱暴に、受け入れさせる。

「ねえせんせ、」

 少女の、純情で無垢な想いごと全てを飲み込んで、踏みにじる。

「好きです、」

 先生、と櫻木さんが俺を求めて喘いだ、直後に俺は彼女の頼りない腰骨に屹立したものを押しつけ、ブレザーに手をかけた。



 がしゃん、とものすごい音が部室棟脇の体育倉庫から響いてきて、中を覗き込んだら司がハードルを蹴り倒していた。

「物に当たってんなよ、ヤンキー」

 薄暗い部屋の中、肩をいからせていた司はキッと振り返ってあたしを睨む。

「ヤンキーじゃねーよ」

 そうして、たった今自分が崩したハードルの束をそそくさと直し始める司に、あたしは噴き出した。どんだけイキってても、やっぱこいつはヤンキーになりきれない。

「しょうがないなあ、手伝ってあげる」
「いらねえ」

 と言いつつ本気であたしを追っ払うことはしない。司のこういうところを、あたしは好きだ。
 二人してハードルを片づける。ついでに高跳びのマットだのライン引きだの地ならし用のトンボだの、陸部のスペースにごっちゃに投げ込まれていた道具も一緒に整理した。部活を終えた直後で、秋口の陽はまだ西の空に残っている。ドアの隙間から射し込むオレンジとピンクを混ぜたような光が、司の、ジャージを袖まくりした腕の筋に陰影をつけていた。司が動くたび、湿った黒髪の奥から右耳のピアスホールが覗いて、汗のにおいと一緒にあたしの胸をつねり上げる。
 司のピアスホールは、あたしが開けた。中二の夏休み、明日からお盆休みに入るって日の、部活後のことだった。ベタに安全ピンでぐさっとぶっ刺したら、水飲み場の前にしゃがんでいた司は「ぐわああああ」と意味不明な雄叫びをあげて悶絶した。あたしのやり方が相当悪かったのか司は半泣きになってて、でもその真っ赤になったほっぺたをあたしはかわいいと思って、げらげら笑った。真夏の太陽が、じりじりと制服姿のあたしたちを灼いていた。桜の木に宿るセミがうるさかった。
 陸上部の部員。中学ん時も今も、あたしと司の接点なんてそれしかない。つっても今のあたしは選手じゃなくてマネージャーなんだけど、それでも、司に一番近しい女子は絶対にあたしだ。中学ん時からずっと、あたしなのだ。

「……あんた、いらいらしすぎだよ」

 でも司にとって、あたしはそうじゃないらしい。

「好きな子に振られでもした〜あ?」

 せいいっぱい、お道化を装って言った。背中合わせで作業をしていた司の方を見たら、司は眉間に深すぎるしわを寄せて「ちげえよ」と吐き捨てた。
 司がヤンキーじみてきたのはつい最近だ。いっつもむっつり不機嫌そうで、むやみやたらといらいらしている。あたしがからみに行ってもそっけなくて、今までみたいなバカ騒ぎにもあんまりつきあってくれなくなった。
 どうしてなのかなんて、問うまでもない。

「ねえ、どこが好きなの?」

 身を乗り出して訊いたら、司は切り裂きジャックのナイフばりに鋭い目つきであたしを撥ねつけた。

「好きじゃねえっつってんだろ」

 うそつき。好きじゃん、大好きじゃん。
 司の好きな子――「櫻木千佳子」について、あたしは詳しくない。同じクラスになったこともないから、背が低いってことと、一人で移動教室してるらしいってことと、猫背ってこと、それくらいしかわからない。でも、どんなやつかを察するのにはそれだけでも充分だった。つまりあたしとはほぼ真反対のタイプ。

「強がってないでさあ、告んないの? 誰かに盗られちゃうかもよー?」

 なんでもないふりをして司の肩にぎゅっとすり寄る。ほらほら、と脇腹をつつくあたしを、司は思いがけない力強さで振り払った。瞬間、倉庫の中の空気が張りつめる。

「やめろって」

 ねえ、司にはあんな子似合わないよ。恋ってもっと明るくて楽しいもんだよ。司をいらいらさせることしかできないあの子のことなんか、見ててもしょうがないじゃん。どうでもいいじゃん。
 ……なんて、そんなこと思った時点でみじめになるのはあたしだ。それにあたしの恋だって、もう全然、「明るく」も「楽しく」もない。

「福嶋ちゃ〜ん」

 ふいに、ドアの向こうからミツイが顔を出して司を呼んだ。やつはもう制服に着替え終えていて、スラックスに包まれたケツをぷりぷりさせながら「早く帰りましょっ」と司を誘惑する。

「それやめろ」
「えー、じゃあ司ちゃん?」
「『ちゃん』をやめろっつってんだよ」

 言いながらあたしを追い越して外に出た司の、横顔は明らかに安堵していた。本当は司は、すごくやさしい。
 くるみちゃんは〜? とあたしにまで媚びてきたミツイを「キモいっつの」とぶった斬って、あたしも二人の後を追う。司にしなだれかかるミツイとそれを邪険にしつつも笑ってる司、二つの後ろ姿を眺めて、戻れたらいいのに、なんておセンチなことを願ってしまって、あわてて頭から叩き出した。

 ――くるみも来んだろ?

 俺が行くんだから、としたり顔で司に言われた、それだけであたしはこの高校に入学してしまった。でもそんなことも全部、司はもう、忘れてるのかもしれない。

「司ちゃん!」

 叫んで、あたしは司の背中に思いっきりタックルをかました。う、とにぶいうめき声をもらした司は、眉をひそめながら、それでも笑顔であたしに振り向く。

「だから『ちゃん』じゃねーって」

 司とミツイ、二人の手に突き飛ばされたあたしは後ろによろめいて、でも、笑ってる。だって司にこんなことしてもらえるのはきっとあたしだけで、他の女は――「櫻木千佳子」は、こんなふうに簡単に司にさわったりは、できない。
 だからあたしは、司の長い脚もへの字口も汗のにおいもピアスホールも、全部全部、大好きなの。



 夕焼け空を八木沼が埋める。

「サボりはやめてくださーい」

 前髪をばっさりと垂らしてオレを覗き込んできた八木沼は、にやにやと笑っていた。走り高跳び用のマットの上で大の字になっていたオレは腰から起き上がると、大袈裟に肩なんかすくめてみせる。

「マネージャーさんの目は節穴ですか? 僕はサボってなんかいません、イメージトレーニングをしてたんです、寝ながら」
「うぜー!」

 ミツイ、うぜー! わざわざ二回も叫びやがった八木沼は(そこまで強調してえのか、「うざい」を)、げらげら笑ってオレの坊主頭を叩いた。「バカになるからやめろ」とその手を追っ払っても、「すでにバカじゃん」と簡単にあしらわれる。トラックの端っこにセッティングした高跳び道具を独占していたオレは、しゃーなし立ち上がって、すでに固まりつつあった体の筋肉をほぐした。首を回す、肩を回す、背中をそらす。その間八木沼は、後ろで一つに束ねた髪の毛をぐいぐいいじっていた。

「うちの部、高跳びはあんただけなんだからさぁ。ちゃんとしてくんないと困りますよ、ミツイくん」
「わかってますってくるみさん。なんたってオレ、エースなんでね」
「いやまあ一人しかいないからな。そりゃあんたがエースだわ」

 今じゃすっかりオレの扱いが雑になってる八木沼も、ツッコミだけは最低限全うしてくれる。あっけらかんとしているようで案外几帳面なやつなのだ。司なんかには前に「漫才コンビデビューできるんでねえの」という感想をいただいたほど、オレたちのかけあいは完成されている。だからオレは安心してボケまくれるし、それを口実に安心して八木沼の隣を確保することだってできる。
 風が吹いて、校庭の砂がぐるぐると舞い上げられトラックを渡っていった。その、茶色っぽい砂ぼこりの向こうで、ホイッスルが鳴る。レーンに並んだ十台のハードルを、プーマのロゴみたいにしなやかに飛び越えてこっちに走ってくるのは、司だった。あっというまに一一〇メートルを駆け抜けて、後輩マネージャーにタイムを聞いている。

「あいつ、最近全然タイム伸びてないよ」

 萌え袖から突き出た指先でバインダーをきゅっと握って、八木沼がつぶやく。学校指定のジャージのチャックを顎下までめいっぱい上げていても、八木沼の吐く息は真っ白だ。オレはトレーナーの袖をまくって、遠目に司を見つめる八木沼の後頭部を、見つめる。
 なんだかオレはいつもいつも、この位置から八木沼を見ている気がする。オレが隣にいる時でも、八木沼の視線は最後には必ず司に向く。それは「習性」みたいなものでほとんど条件反射、もはやあんまり深い意味はない行動なのかもしれない。それでもオレは毎度律儀に、八木沼に対して、オレの方を振り向かせてやりたくなってしまう。伸明、とオレの名前を呼んだことのない、八木沼に対して。
 ミツイ、という渾名は、八木沼がつけた。オレの名字が「住友」だから(意味不明だ、いやわかるけど納得はできない)。このへんてこりんな命名はもうばっちり浸透していて、司も陸部連中もクラスすら越えて学年中のやつらが、オレを「ミツイ」と呼ぶ。
 別に今更不満はない。八木沼が渾名呼びする男はオレだけだし、だからある意味気分はいい、けど、オレはやっぱり「特別」にはなれないんだってことも、同時に思い知らされる。「司」と「ミツイ」、おんなじ三文字でも、そこにふくめられる感情の質と量は全然まるで、同等じゃない。

「くるみー」

 司が、大きく手を振って声を張り上げた。おー、と八木沼は返事して、司の待つ方へと一歩、足を踏み出す。
 八木沼はオレを「伸明」と呼ばない。でもオレだって、ふざけながらでしか八木沼を「くるみ」と呼べない。だからオレはいつもいつも、八木沼の背中しか見ることができない。
 こっち向け、バーカ。

「くるみ」

 呼ぶと、八木沼はこっちを振り返った。その顔は、こないだ部室棟の裏にタヌキが出没した時と同じに露骨にびっくりしていて、オレはぶはっと笑ってしまう。
 やっぱ、オレじゃダメか。

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