波打ち際に男が立つ。渚に黄金色の水とひかりが揺らめき、熱い夕暮れのなかを微かな磯の香りが流れていく。真っ白な砂浜が秩序なく踏み荒らすブーツを取ろうと躍起になっている。うみねこの鳴き声は聞こえない。波の音や砂、遥かな海、果てしない空。ひとりの男。そのすべてが、焼け尽くすような夕の空気に溶け入り消えてしまいそうだと思った。遠くには薄い群青色の夜が迫り、星屑が、ちかちかとひかっている。例えばあの女の瞳も、ああいう色をしていた。此処にいましたかと声をかければ、星空を縫いつけたマントが翻る。菫色に淡いオレンジ色が混ざり合った彼の髪は、さらさらと心地良さそうに潮風に靡いた。
「また俺を閉じこめる気かい?」
「今日の私は機嫌が良いので。天文台なり月蝕の館なり、あなたの好きなところに放りこんで差しあげますよ」
ムルはくつくつと笑う。猫が喉の奥で笑うような姿は、今のムルにも面影があった。あの愛らしいムルに憎らしさが込みあげるとき、シャイロックはどうしようもなく己の心が安穏で包まれることを自覚していた。魂が砕けても、ムルは変わってはいないと。自分はムルのありのままを愛し、ムルを自分の欲望のままに作り替えてはいないのだと。
「それではきみに変わらぬ友情を誓って、事件のちょっとした種明かしをしてあげよう」
何処から話そうかと続ける声色は愉しげで、困っているといった素振りは一切ない。ムルは片瞼を閉じて、わざとらしくその滑らかな白皙の覆いに指を置いた。
「不思議なものでね。ひとというのは目が見えないからこそ真に迫るものが見えるらしい。それは単に感覚が研ぎ澄まされるからといった未開の官能の発見だけにおさまらない。だからこそ盲目の貴婦人、ステラ・マリスは気づいたのだろう。長年連れ添った恋人、アシャーストが魔法使いであることに」
十数年とステラを愛しながら、結婚の契りを結ばぬ男。平民出身であるからなどと語られていたが、領地を返上し政から遠ざかり、親族といった柵から抜けだした彼女が身分と起こりうるかもしれない白眼視を気にしただろうか。莫大な遺産が残された彼女だ、その容姿もうつくしく、いくら盲人であれ婚姻に迫る男達はいただろう。むしろ結婚することはステラにとってひとつの砦になったのではないか。アシャーストはステラの愛人ではなく、周囲から認知された内縁の夫であった。しかし、アシャーストが魔法使いとなれば彼が頑なに結婚を拒んだ理由はよく理解できた。魔法使いにとって結婚は約束だ。約束を破れば、魔法使いは魔力を失う。
「……だからミドラシュに?」
「それもあるし、単純に女の宝石彫刻師が気になったんだろう」
西の国では元々男尊女卑の思想が根付いていた。時代が移り変わると同時にその思想は緩和されていったが、未だに一定の職種では偏見の目で見られることも少なくはなかった。職人業となれば女の仕事の大抵は仕立て屋だ。ムルは人間の友人であったパティアを思いだす。今でこそ未開の天文台の初代所長として名を残しているが、彼女の天文学者としての人生は容易いものではなかった。女だからと研究を認められず、軽んじられた。彼女が所長となることに女には任せられないと多くの反対の声があがった。ミドラシュも男であれば、少なくともああはならなかっただろうに。ムルは懐かしむように唇のあわいを緩め、言葉を重ねる。
「恋は盲目だ。もっと上手い立ち回り方はあっただろうに。事件が公となり自分の素性が露見することを恐れたアシャーストは、ミドラシュを訴えず、証人として呼ばれるはずだったメイドを隠した」
「……」
「これは聞いた話だが、ミドラシュの部屋には多数の指輪の下図が見つかったらしい。それから、エメラルドと白蝶真珠の首飾り。白蝶真珠は婚礼の象徴だ。さて、盲目同士お似合いの若いふたりの話はこれきりにしようか。結末を知るのは当人達で充分だ」
要するに、運の悪いことが重なったのだと。ミドラシュが書かされたという誓約書も、彼女に白い罪を背負わせるためにあえて作ったものではなかったのだろう。寄せる波、煌めく海面、途方もなく広がる大海原は、暗くゆったりと膨らんでいる。海は夜闇と夕暮れのあわいを映して深く沈み、漣の白が儚く散った。ムルは遠い地平線を眺めた。空と海が交わる場所。とっぷりと起きあがる愛しい月がゆらゆらと尾鰭のような月光を海面に残している。この世界は、月に愛されている。暮れる海の情景に、きみの愛したものだ、と囁くようにムルは言った。
「きみの愛する海は俺の愛する月に惹かれている。月の引力が、海を誘っているんだ。月に近い海では引き寄せられた海水が盛りあがり、丁度反対側にある海に及ぶ引力は弱く、海水は取り残される。月の満ち欠けによって海の潮は満ちたり引いたりする。互いの姿に惹かれあっているように。しかし太陽によって時に引力は重なりあい、時に打ち消しあう。まるで人生の最中の愛憎劇だ。月の引力は自然現象だけではなく、俺たちの身体にまで作用する。きみとの間にも引力が動いている。俺たちはまるで囚人のように引力の枷を嵌められて、互いに引かれあっている」
空を飛ぶ時ですら重力に縛られ、一匙の月光に心を乱される。魂が実体化しただけの非現実的な肉体すら引力が作用する。約束の枷から解放されても、なお。シャイロックは、今、この男に引かれている。囚人のように引きずられて、此処で陳腐だと笑えない愛を燃やしている。メビウスの輪のように永遠なる表裏一体の感情に苦悩して、フラスコの小人を飼い殺して思考し続けている。そうして、己と釣り合う快楽を産みだしてきた。ムルは思考する者の顔が好きだ。無論、この男の顔も。しかし、この男が蔑み可愛がる女からは、思考は損なわれていた。ムルの指は自身の魂の欠片を掴んでいた。パープルサファイアの如く煌めくそれを、ムルは躊躇なく無理やり開かせたシャイロックの口に入れた。驚いた顔をするシャイロックの顎を掴み、ムルは笑う。
「愛しているのなら、これをあの娘に口移しであげてくれ」
星空のマントがふわりと翻り、エメラルドの双眸が細まっていく。
「あれが己の愚かさを恥じいるところは初めて見た。誰ひとりとして侵せぬ沈黙で、あの娘を愛するがいい。シャイロック・ベネット」
遠い昔、ある高貴な実験の賭け事を持ちかけた。お前の欲望が見たいから、白痴の娘をお前好みに完成させてくれないか、と。人間によって、弱く愚かに仕上がった女。これがお前の手によって、どんな姿になるかが、見たくてたまらないのだと。その賭け事は美意識に反すると白紙となったが、件の女は人知れず息をふき返していた。男の傍で。それに欲望も執着もないのなら、愛惜と呼ばずして、一体何と呼ぶのだろう。触れたがりの小娘のように、ムルはシャイロックの唇を閉ざすように指を押しつけて、消えた。夜が迫る海岸が、シャイロックただひとりを見ていた。
***
胸に茨を抱くような女であった。ならば、大人しく茨だけを抱いていればよかったものを。その脆い蒼白の腕で茨だけを抱きしめて、血で汚していればよかった。いつしか苦汁を飲まされて、夢見がちな目を醒ませばよかった。しかし、盲いた目を醒ましたところで、女は一体何を映せたというのだろう。
「シャイロック、シャイロック。あのね、お父様がね、お慰めをくださったのよ」
初めからわかっていたことだった。ムルはこの女を娼婦のようなものだと言った。その意味を、履き間違えたことはない。長い髪に手綱のように縋られて、媚びた声をあげてきた女。ミドラシュがふわふわと少女のように笑っている。これほどまでに幸福に満ちた顔を見るのは初めてだった。白魚の如き手は常のように指先を組まず、ただ、大事そうに何かを抱えてくる。ふかふかとした毛布にくるまった、小さく柔らかな、赤子。そこが世界一安全な場所だと疑わずに、赤子は眠っている。衣に包まれた腹には、銀の匙が乗せられていた。子供の歯固めに使われるものだった。シャイロック、祝福して。女は笑う。無邪気に笑う。女は仔猫のようにいとけなくわらう。
法廷にあのムル・ハートが現れたというニュースが週刊誌の一面を飾ったが、人々にはタチの悪いジョークだと片付けられたらしかった。判決宣告で、ミドラシュは無罪を言い渡された。途端に打ちあがった花火に検察官は頭痛がすると言いたげに顳顬を抑え、裁判官は二度と来るなと言った。ミドラシュは宝石彫刻師の組合から抜け、あの青年も別の組合へと移ることになったのだという。酒が抜けたミドラシュは、少女のようにたどたどしい女性であった。しかしすぐさま愛する酒と戯れはじめ、結局いつもの酔いどれ魔女に戻ったらしい。あのミドラシュとも話がしてみたかったけどとクロエが苦笑していた。
あの日はまだ春だった。顔も声も忘れ去ったのに、以前の賢者があれは菜の花だと声を弾ませたのを覚えている。油の原料となる鮮黄色の花々に壮観だと屈託なく笑った姿は、好ましかった。クレヨンで塗ったくったみたいに黄色いですね、と彼はいう。黄色のクレヨンはひよことくるまとこいし、そして夜空の星の色なんです。そういうはなしが、俺の世界ではあったんですよ。それに、知ってますかシャイロック。菜の花畑にはね。かつていたブラックキギョウという場所では大層苦労していたようだが、以前の賢者は要領の良い明るい青年だった。底抜けて賢く思慮深いわけではなかったが、空が青い理由からおいしいオムレツの隠し味まで、そういう知識の引き出しの数が随分と多いひとだった。己の稚い知見を隠しはしないが、決して厚かましいわけではない。酒も嗜む彼と言葉を交えるのは純然に楽しかった。それから、彼はあの黄色の花を見て。春が過ぎ去った今、そこでは緑の植物が生い茂るのみである。しかし、日の照る暖かな壌土に、女が眠っていた。夜を拐った髪も真っ黒なドレスもべったりと地面につけて、赤らんだ皮膚にてらてらと木漏れ日の如きひかりを浴びている。ラリエットの宝石が反射し、ちりちりと煌めいていた。
菜の花畑で眠っているのは。菜の花畑で吹かれているのは。
不思議なほど懐かしく思える詩の一節が、シャイロックの脳裏を掠める。彼はミドラシュの側に膝をついた。穏やかな陽だまりに幸せそうに眠る彼女の頭を太腿に乗せる。懐にはムルの魂の欠片があった。しかし、シャイロックはこの女の唇にそれを入れてやる気にはなれなかった。親友に抱いた執着に拠るものではなく、今のムルが元の姿に戻れなくなることへの恐怖でもなかった。ただ、シャイロックは好いていたのだ。ミドラシュの救いようのない弱さや愚かさを、無邪気に自分を慕う姿を。彼女のままの姿を愛しているのだと、シャイロックはようやく気づいた。親友の在り方を変えてやりたいという欲望に苛まれながら、欲望のままに姿を変えられた女を愛した。確かに疎み嫌いながら、しかし欲望で爛れてはいない、ムルには成しえなかった愛で、この女を愛せているのだと。シャイロックは長い髪を払い、ミドラシュの額にそっと触れた。細やかな神経が際立つほど恐々とした指先が触れたのは、口付けたくなるほど滑らかな皮膚だった。この瞼の下にある瞳のように、青く馬鹿馬鹿しい感傷が胸を締める。月に囚われた男を愛している。憎んでいる。誰よりも親しく思い、醜悪な愛情で欲している。そうして数百年と男に拘泥して生きる最中、あるひとりの女に必然と偶然の出会い方をした。星まわりの悪い女だった。魔法科学技術が普及し、魔法使いへの暴圧が始まりつつあった時代。当時は男尊女卑の思想が強く、そして女はあまりにも弱かった。魔法使いを支配したがった西の人間に囚われ、作り替えられた魔女。女は天上だと信じて疑わぬ楽園で生きていたものの、無惨に花を散らされ、歪な石を吐けなくなり、汚らしい地べたにまで堕落した。役に立たないものは愛するしかない。偶然足元に転がってきたものや、天から降ってきたものに思い入れることを得意とする自分が不意に目にしたものが、子供を捜し求めて彷徨う、母親の亡霊だった。それだけの話だ。己に情がなければ、この女も、あの男も、捨て置くことができただろうに。あの日穢れた瞼を開いて以来、女は酒に正気を見る信仰に取り憑かれた。だが、痴呆の振る舞いを憶え、こうして己の膝におさまったミドラシュは、確かに酒精で正気を為したのだろう。
シャイロックは、女の額に乗せた手の甲に、唇を押しつけた。その瞼の裏側にあるものが、せめて呪われた在りし日でなければいい。ゆっくりとおもてをあげる。そして、永遠の如き夢を見ている、愚かな蜂蜜酒に囁いた。
「私のミード」
未だに拘泥し続けている。抜錨には程遠く、陳腐な人生の道中で停留している。
縋りつかれるように長い髪が地面に散らばっている。今日ばかりは、その髪を梳いてもいいと思った。
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歌屑とひやおろし