つめた貝のようなタイルにだらだらと黒い髪が這っている。蟻の行列のようにも滴る万年筆のインクのようにも流れている。ふらふらと時折小刻みにふるえているそれは長い毛並みの犬の尾を彷彿とさせ、男は溜息をひとつついた。じっとりと突き刺さっている視線にも気づかずに、夜を縫いつけた髪の飼い主はがさごそと棚をあさっている。四つん這いになり、獣のように頭を突っ込んで。残された下半身はふんふんと何処か楽しげに見えるほど揺れており、薄く開いていた口がゆっくりと結ばれる。縋りつかれるように長い夜空の髪を持つ、厚かましいにも程のある女はひとりしか知らなかった。いくら相手が厚顔無恥の痴人といえど、女の髪を引っ張る趣味はない。丁度女の背中の真上、開けっ放しのキャビネットに手を入れた彼は、此処だろうとそのうなじで結ばれた細いリボンを掴んだ。深い陰りのなかで蓬髪が手の腹をくすぐる。ぐっと指の関節が引っかかる気配に、男の口元がわずかに緩まった。かかった。
「こら、ミドラシュ」
「うにゃああああ!」
奇妙な叫び声がキッチンに響き渡る。引きずりだされたミドラシュは状況が全く飲み込めていない様子でタイルの上をじたばたと情けなくのたうち回り、男──ネロは全くと肩をすくめた。あられもなく膚が覗くのも構わずに抗う姿に、どうしたものかと磨かれる前のアンバーが細まる。ミドラシュがキッチンに忍び込み目当ての酒やらつまみやらをあさったのは一度や二度ではない。それこそ味を占めた野良猫のようにミドラシュはやってきて、キャビネットを監視する。魔法舎に於いてネロはキッチンの王様といっても過言ではなかったが、ちょっとしたおやつや軽食を楽しむのをいちいち咎めるような暴君でもない。しかし、この酔いどれ魔女はいかんせんその程度では済まされないのだ。シャイロックのワインセラーを狙った覚えは数知れず、アルコールを探してふらふらとした手つきでワインビネガーやオリーブオイルを盗もうとすることなどザラで、つまみには生の卵や野菜、はたまたコンロの近くに添えられた花瓶のガーベラを咥えながら去っていく。旧知と聞くムル曰く、その辺の木のふもとに生えたきのこを食べて大騒ぎを起こしたこともあるらしい。ミドラシュは馬鹿だった。少なくとも常に酒の回った彼女には正常な思考判断など不可能で、現に目の前で今晩のメインディッシュに用いられる葡萄酒を大事そうに抱えこんでいる。
「ンなァ〜〜っ!」
「なぁじゃねえよ、ったく……」
「それ! それあたしのだモン!」
「ステーキのだよ。ほら、手離せ」
「あああんそンないけずゥ……」
如何にも不健康そうな両腕から回収することはたやすかった。葡萄酒を奪われたミドラシュはみっともなくネロの脚に縋りつくが、夕食が危うまれている以上掛けてやる温情はない。腰の近くをうろうろと揺れている頭を指で弾けば、ミドラシュは呆気なく床に崩れ落ちた。ぐにゃりと猫のように身体をまるめ、おとなしくなったと思えば、今度はくんくんと惨めに鼻を鳴らして這いつくばりながら近寄ってくる。泣き落としは常套手段。それが本気であるからこそタチが悪い。
口にすれば、自惚れてしまいそうになる。ミドラシュと同じ西の生まれであるシャイロックとムル、クロエやラスティカといてもその片影を感じることはあるし、そもそも彼らは惜しみなく自分などに親しんでくる。素敵なひと、可愛いひと、私の、私たちのお気に入り。ひとがすきだというミドラシュは馬鹿で誰にでも懐っこいが、されど己に向ける好意は酷く顕著なかたちをしていた。西の魔法使いは東の魔法使いを好む傾向がある。慎重で禁欲的で、人嫌いであるにも拘らず情を知る姿が、快楽主義者たる西の魔法使いの好奇と享楽をくすぐるのだ。だから、足元で甘い鳴き声をあげる泥棒猫をネロは嫌いにはなれなかった。自分は疎くはない。ミドラシュに好かれていることは自覚していた。いつの間にか魔道具の一升瓶を抱えて、ゴロゴロと喉を鳴らしている酔いどれを見下ろす。ミドラシュは西の魔法使いらしく楽観的でマイペースだった。三歩歩けばポケットから記憶を落っことすほど忘れっぽく、そして機嫌が直るのは随分と早い。邪魔であることに変わりはないが、慣れればあたりに住み着いた動物のようなものだ。もみくちゃになっている黒髪とまるまった胴を跨いだネロは、ミドラシュの背では届かない棚に葡萄酒を仕舞った。ゼニスブルーの髪が柔らかくかかる横顔は、抜けるように白かった。
魔法使いらしく長い年月を生きてきた。生まれ育った永久凍土を離れ、異端を排斥し規律と調和を重んじる国に根を下ろした。魔法使いが公に出歩くことなど許されないが、素性を隠し通せば煩わしいことすべてから解放される。疑われることも、怖がられることも、羨ましがられることも、蔑まれることもなくなる。東の人間は互いに深入りしたりはしない。人間に紛れ料理屋を営む日々は性に合っていた。そして何百年にもなる人生のなか、ネロはミドラシュと似た者達に幾度か出会ったことがあった。それは人間であったり魔法使いであったり、客であったり仲間であったり、男であったり女であったりした。酒に狂い、身を焦がしてきた者達だ。ネロに言わせれば、ミドラシュの姿はただ狂人と呼ぶには哀れだった。だからだろうとネロは辟易する。中毒者は飯を食わない者が多い。酒さえあればいいのだ。臓器を弱らせ、痩せ細り、手遅れになっていく。そのなかで、ミドラシュは珍しくよく食べる部類であった。悪食と偏食のきらいはあるが、ネロが振る舞う食事をさぞかし幸せそうに頬張る。おかわりまでをも要求する図々しいミドラシュの姿に、ネロは不覚にも安堵するときがあった。彼はすっかりと東の気質に染まっていたが、白い肌を吹雪に隠したかつては記憶に凝固していた。
食わねば死ぬのだ。人間も、魔法使いも。
のっそりと起きあがったミドラシュはシンクの縁に短い指を置き、キッチンの王様の手元を覗きこもうとしていた。長い髪が滑らかなタイルを千重波のように波打っている。気づけば底をつきかけていた星屑糖の包装のリボンを解いたネロは、ひとつ呪文を唱えた。料理には魔法を使わない主義だが、その蓬髪はよろしくない。ふわりと節くれた指から離れたそれにきょとんと碧眼を瞬かせるミドラシュのあどけなさに、ふっと小さな笑い声が洩れた。赤色のリボンが黒く豊かな夜の髪に絡みつき、毛先までをざっくりと次々に編みこんでいく。分厚い三つ編みは丁度巻貝に似た渦を描き、くびれた腰へとぶら下がる。最後に蝶々結びをして可愛らしく仕上がった自身の髪に、ミドラシュは歓声をあげた。
「ネロ、あんた、本当に器用さァ! ありがとう!」
「どうも。いてもいいから大人しくしてろよ。それで、今日は何でシャイロックに振られたんだ?」
よくぞ聞いてくれましたとミドラシュが胸を張る。ふちを掴んでいた腕が真後ろにぴんと伸びをして、厚みのある袖口が広がった。ミドラシュの話はいつもとぼけているが、決して退屈するわけではなかった。回りきらない舌も法螺吹きなところも、順序よく説明ができないところも、幼子が舌足らずに話しているのだと思えば、存外心地よく蝸牛に響くものだ。またワインセラーに悪戯をしようとしたのか、それとも彼好みではない口説き文句で振り向かせようとしたのか。ミドラシュは意気揚々と話しだし、やがて、重たげな三つ編みへと首を傾げながらネロを見上げた。長い髪は女の胸元をなぞりながらも思い出したかのように肩で巻き返し、そのまま背中へと垂れている。
「ねェあんた、この世でいちばんの美酒を知ってるか?」
「それは……シャイロックに聞いた方が早いと思うけど」
「あたしは知ってるよ。シャイロックも絶対に知ってるンだ」
いっそ盲信に近かった。酒焼けした声は真面目そうな色を帯びており、時折、この女の確信は一体何処から来るものなのだろうと思う。青く奇妙な瞳はちろちろと濡れた星の煌めきを秘め、浮気性の視線はネロの形良い口元から甘ったるいボウルへと移った。双子鳥の卵と星屑糖が、がしゃがしゃとホイッパーで混ぜられている。ボウルの中身はまだまだ黄色い。とろけたバターにも程遠く、滑らかさも足りていない。そろりとふちについた星屑糖の欠片を求めて欲深い指先が伸びていき、ネロはそっとボウルの位置をずらした。実に物欲しそうに戻ってきた焦点に苦笑が洩れる。
「へぇ。その、この世一番の美酒ってのは、なんてやつなんだ?」
群青の瞳孔を引き立てる海の星が、きらりと一際眩しい光沢を帯びる。受け取ったはずのネロの言葉は何処かに置いてきてしまったらしい。膝を折り曲げ背をまるめていた身が一気に起きあがり、宝石を散りばめたラリエットが涼やかな音を立て、編み込まれた髪はさながら重りのように揺れる。おろされたままであれば真っ黒な房らがぶわりと宙を舞っていただろう勢いに、まるで筏のようだとネロは思った。ミドラシュはぐっとネロの顔に鼻先を近づけ、にんまりと口角を吊りあげる。そしてすぐさま顔を離し、大袈裟に手を振ってみせた。西の魔法使いはいつもこうだ。シャイロックに言わせればミドラシュは所詮「大根役者」だが、目立ちたがり屋な彼らは芝居のかかった所作を好み、時に即興劇すら始めてしまう。ミドラシュの星月夜の瞳は常に酩酊で濡れているが、金銀をまぶしたかのように輝く眼球はゆめに沈められているようだった。毎晩忍び寄る虎など見えていない様子でうっとりと艶やかに目を細め、ミドラシュは夢心地に浸る。豊かな三つ編みをぎゅうと抱きこんで、西の魔女はただ幸福そうに微笑んだ。
「ムーンシャイン。ムーンシャインっていうンだよ」
「ムーンシャイン?」
「そうさ。かみさまみたいに素敵なお酒だよ」
あたしがいちばん最初に口付けた酒なんだ。それはこの世のありとあらゆる美酒もかなわないほどおいしくってね。たまらなかった。たまらなかったにゃあ。あたしはそれを、夢中になって呑み干した。はっと脳みそが冴えて、空っぽだったはらがぬくくなって。あれほどの美酒を、あたしは呑んだことがない。だから、シャイロックはムーンシャインを識ってるんだ。
「……へえ」
卵と砂糖はすっかりと混ぜ合わさり、ボウルには程よいクリーム色の海が広がっている。木べらでボウルの中心へとかき集めながら、ネロは苦く微笑んだ。子供のようにも獣のようにも見える奇人だった。しかし、どれほどの理由を並べても、結局は己の手がけた料理を大層おいしそうに平らげる女だった。夜明けのあわいを閉じ込めた双眸に、じんわりと何処か暖かな色が滲む。袋の端に残されていた星屑糖の欠片を摘めば、赤く火照った唇がぱっかりと開かれた。ほんの少しのしょっぱさはアクセント。ぱちぱちと口いっぱいに弾ける煌めきに、ミドラシュは両の頬に手をやって稚く喜んだ。ゴロゴロと器用に喉を鳴らしてみせる酔いどれを背景音楽にして、この世一番の美酒というそれに、ネロは記憶を揺蕩わせる。ムーンシャイン。月光などと忌まわしい名を冠した酒がそれほどまでの銘酒だとは考えづらい。一瞬お得意の法螺かと思いはしたが、実のところネロにはその名に聞き覚えがあった。何処で聞いたかと首を傾げたが、心覚えは随分と掠れ、思い当たるものは見つからない。
酒場の主人と常連客というには、ミドラシュはあまりにもシャイロックに心酔している。シャイロックのすべてを正しいと思いこみ、シャイロックはこの世のすべてを知り尽くしていると信じている。ミドラシュの口ぶりから、シャイロックはムーンシャインとやらをくれてはやらなかったのだろう。自分が知っているからシャイロックも知っている。子が親に向けるような短絡的な思考がそこにはあった。ネロは沈むような夜空と滑らかな螺鈿を描く巻貝、それから少しの星屑でできた女を見やった。
「なぁ、それならシャイロックに──」
「ネロ?」
「げっ」
上等な革靴の音がタイルに反響する。ミドラシュのしなびた首筋がぞくりと期待で泡立ち、夢に酔いしれていた焦点はあっという間に結ばれていった。時にひとを居竦まらせる艶然とした低音は、呼ばれたネロよりもミドラシュの鼓膜を蠱惑的にくすぐっているようだった。少し良からぬことを教えようとした自覚はあると、ネロは怖々とキッチンの敷居へと視線を向ける。如何にも質の良いストールを腕にかけた男が、ルベライトの如き瞳を飼った桃花眼をうっすらと開かせていた。けぶる睫毛は切長の眦にうつくしい陰りを残す。卒爾とまではいかない表情を浮かべた恐ろしく端正な顔立ちには、あどけなさよりも凄みがあった。シャイロックはミドラシュのリボンで編み込まれた髪を一瞥し、そして柔らかな微笑を浮かべた。愉しげに整った口元に手をやり、くすくすと吐息を洩らす。
「おや、ミドラシュ。その髪はネロに?」
「そう、そうなンだ! シャイロックもやってもらったらいい!」
「勘弁してくれ……」
分厚い編み目のひとつに指をかけ、ミドラシュは嬉々として自身の髪を見せびらかした。癖のある毛先と真紅のリボンが重力に従ってあそばれる。ほってりとむくんだ頬に小さなほつれ毛がかかり、不意にしなやかな白皙の手が持ちあがった。目元にひやりと触れた指先に、星月夜の瞳が硝子玉のようにまんまるになる。筋の伸びる手背が熟れた輪郭を辿っていき、決して男性らしさを損なわずに細く整った指がそっと髪を掬う姿ときたら。ネロの白けた視線を受けたシャイロックは、されど、にこりと狐のように目を細める。まさしく化かされているようだった。冷ややかにミドラシュをあしらいながら、時にシャイロックは刺激的な仕草でミドラシュを翻弄する。ネロからしてみればやりにくい男で、ミドラシュは盲信的に夢を見すぎていたが、確かにシャイロックは胸が高鳴るほどに魅惑的だった。賢者や若い魔法使い達が戯れに口説かれては頬を染める姿は見慣れてすらいる。けれど、こうして厭う面すら見せるミドラシュを甘やかす様子はどうもタチが悪かった。それは、相反する感情を巧妙に呑みこんだ酔狂さから来るものなのだろうが。シャイロックはミドラシュに対して冷淡な物言いをすることこそあったが、誓って薄情ではなかった。東出身のネロは過干渉はしないし、魔法使いの人生とあらば何かしらに苛まれるものだ。シャイロックとムル、あのふたりに一体何がまとわりついているかは知らないが、愛情の裏に苛烈なまでの憎悪をぬかるませた男が情に厚くないとは思えなかった。
「ミドラシュを可愛がってくださって、ありがとうございます」
振り返るシャイロックの後ろで、ミドラシュがふんふんと力強く頷いている。厚かましかった。編み込まれた髪が壊れたメトロノームのように揺れ、小さな背から見え隠れしている。
「……どういたしまして。で、シャイロック。あんたはどうしたんだ? 珈琲でも淹れるか?」
丁度よくブランシールされた生地に、さらさらと小麦粉を振るう。あらかじめ用意した焦がしバターに蜂蜜、サワークリーム、エバーミルクを加えてさっくりと混ぜれば、ひとまず生地の完成だ。とろりとした卵色に仕上がった生地を冷暗所に寝かせて尋ねれば、シャイロックはいいえと緩やかに首を振った。その手はにぎにぎとミドラシュの五指に揉まれていたが、彼は気にも留めないといった素振りを見せている。ミドラシュの手を握り返してやることもなく、ただされるままにほっそりとした指の関節をなぞられ、ひとつひとつ畳まれていた。
シャイロックが朝に弱く、陽が昇りきる前の時間帯に食事を摂ることは少ないのはよく知っていた。それでも、ささやかに珈琲や紅茶を楽しむ姿を見かけることはある。
「この子に用があったんです」
「ンなァ?」
奇妙な鳴き声をあげながらミドラシュはこてりと首を傾げる。左右の判別がついていないのか、黒々とした頭がシャイロックの肩にゴンっと衝突した。そのまま幸せそうにすりすりと彼の肩に擦り寄っていたが、束の間、円い頭蓋をわし掴まれて引き剥がされる。艶めかしげに細まる切れ長の双眸でミドラシュを見下ろしたシャイロックは、うっそりと静かに笑んでいた。
「本日の午後は授業を休みにして、賢者様と西の魔法使い達で出かける予定だったでしょう?」
「……」
「賢者様が心配されてましたよ。ミドラシュはさては忘れているのではないかと」
満面の笑みを浮かべていた赤ら顔が見る見る間に青くなり、不健康な膚から、だらだらと冷や汗が噴きだし始めている。怯えながらシャイロックを見上げるミドラシュはさながら蛇に睨まれた蛙のようで、きゅうっとさらに窪んだように見える哀れな碧眼でシャイロックを仰いでいた。振られっぱなしという訳ではなかったらしい。
「めん……にゃ、にゃんごろん……」
「ミドラシュ?」
「ごめんなさい! ゆるしておくんなまし!」
べしゃりと惨めたらしく崩れ落ちたミドラシュは、シャイロックの長い脚に泣きながら縋りつく。纏まった髪が床に溢れ、サンチュールに引っ掛けた分厚い外套から月面のような背中が覗いていた。シャイロックは自身の脚にしがみついた女を少々鬱陶しそうに眺めていたが、やがて溜息をつく。
「みっともない真似はおよしなさい」
「怒ってなァい?」
「私は怒ってません」
計り知れずの距離感が横たわる。主語の含みに酔いどれは気づかない。一瞬で涙を引っ込ませて飛び上がったミドラシュは、そのまま無遠慮にシャイロックの腕に抱きついた。ゴロゴロと一番大きく喉を鳴らして喜ぶ姿はあまりにも邪気がなく、その落差にネロはわずかに眩暈がした。年老いた猫のような姿のなかに、仔猫の如き稚さがあった。シャイロックもミドラシュも、有り余るほどの矛盾を体現する。ミドラシュは泣き落としの名残を残す瞳をきゅるきゅると収縮させ、ぱっと煌めいた星屑でネロを見上げた。あれほど下卑た笑みをするにも拘らず、ミドラシュの青々とした鏡は無垢そのものであった。幼く、清く、自分を信じきった、自分を弱くする色。ミドラシュとは似ても似つかないが、たとえばリケも、こんな目をして己を見上げるのだ。
リケは敬虔な信徒として、教団の人間に囲われて育った少年だった。神を信じ、神に祈り、神に懺悔する、若々しい中央の魔法使い。魔法使いは人間に尽くすべき。中央に芽生えた思想を体現しようとする姿は危うかった。賢者の魔法使いに選ばれて、彼は自身の「かぞく」が俗世と呼んだ教団の外に初めて足を踏み出したのだという。食べるものを制限され、温かな食事もしたことがなかったリケは、齢十六にしては随分と礼儀正しく、あどけなかった。そんなリケがイカれたミドラシュと相似しているはずがない。されど、時折リケとミドラシュが重なる面を持っていると感じることがあった。彼らの幼気さと信心深さが、猫の舌のようにざらざらと、妙にネロの良心をくすぐるのだ。ネロを見つめるミドラシュは、少女のように声を弾ませる。
「ねェねェネロ、あたしたち、豊かの街に行くンだ。西の国じゃァいちばんものが集まる場所だよ。みやげはなにがいい? あたし、なンでも買うよ!」
何でもなどと、ミドラシュは容易く口にした。ミドラシュの言葉は安かった。魔法使いは約束をしない。約束が果たされなかったとき、魔法使いは自身の魔力を失うからだ。よっぽどでなければどんなに幼くとも知っているだろうに、ミドラシュはそれめいたことをよく口走っていた。一心に自分を映そうとする青い眼球から目を逸らし、ネロはちらりとシャイロックを見やった。シャイロックは相変わらず緩慢に微笑んでいた。掴みどころのない様子で柔らかく笑みを深め、小首を傾げる。何故己を見つめているのかわからないというように。シャイロックはその秘め事を暴かせないし、ネロもひとに深入りなどしたがらない。つまりは、埒が明かない。青い期待に向き直ったネロは、上ずりかけた声でそっと望みを告げた。
「あー……じゃあさ、星屑糖を、頼むよ。丁度切らしたんだ」
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歌屑とひやおろし