バニラの香るカップケーキには、たっぷりとしたバタークリームが乗っている。そのうえでは真っ赤に熟れたラズベリーが三つも飾られて、仕上げには粉雪のようにかかるシュガーがきらきらと輝いていた。焼き菓子の芳香と温かなミルクティーが漂わせる甘やかな香りと混ざり合い、それはランチを迎えなかった午後二時のお腹を、ちくちくと小針で刺すように刺激する。しかし、ゴールドの縁がぐるりと囲むお皿に鎮座した甘いデザートに、やらかしてしまったと視線が彷徨った。ホワイトチョコレートのチーズケーキや、黒いちごのジャムを添えたラベンダーの香りケーキ。名前を見聞きするだけでも心が踊るケーキ達に思いを馳せながら、仮に今度があるとしたら、少なくとも彼の前ではそれを選択しようと心に決めたとき。
「食べないのか?」
「い、いいえ! 今から食べますよ」
一瞬、楽器の低い音色みたいだと思った。初めて聴いたときは抑揚に欠ける冷たい声だと思っていたのに、今ではそっと撫でられるように心地良い声が、蝸牛を柔らかくくすぐる。反射的に顔をあげれば不思議な金色の双眸と目があって、ああなんで今、わたし、宣言したのかしら。ギアさんの白い睫毛は特に瞼の深いところを飾っていて、獣のような瞳孔は薄く開かれている。わたしは彼の読めない瞳に、じっと見つめられていた。ティーカップのハンドルに触れようとした指はそろりとカップケーキへと向かう。両手は壊れものを扱うように、この喫茶店で一番お手軽な焼き菓子を掬った。ギアさんの視線を感じながら、ええいままよとわたしはカップケーキを一口齧る。途端バタークリームがべたりとくちびるにつく感触がして、そしてぼろぼろと呆気なく堅めのスポンジの屑が真っ白なお皿に落ちていった。しかもラズベリーまでぼとりと落ちて、ついていないと頭を抱えたくなる。ひとりきりなら喜んでかぶりつけていたはずのそれは、今では甘くておいしいからこその毒を秘めているように思えた。具体的に言えば、わたしの行儀の悪さがバレるのだ。慌ててハンカチで口元を覆うものの、ギアさんの静かな視線はわたしからは外れていない。きゅうっと喉が聞き苦しい音をあげる。そこまでの関心を抱かれていないことはわかっている。でも、無理なのだ。彼の双眸が、あまりにも綺麗なものだから。
好きとか綺麗とか、そう思うことはいつも簡単だった。単純な女だと笑われても、感じるときに何を考えて感じればいいというのだろう。だってそれは思考と呼ぶよりは衝動に近しい。優しいひとは優しいし、綺麗なものは綺麗だと思う。そしてそれは瞬間的なものだから、わたしはいわゆるそれ以上を思い悩んだことはほとんどなかった。けれど、このひとはどうしてか違った。多分それは、ギアさんが、今までわたしが関わったことのないタイプの男のひとだからなのだと思う。冷ややかで高圧的なひとかと思えば、彼の語るすべてが彼の本音なのではないかと思うほど素直で、生え揃う真っ白な睫毛に似合う純然さがあって、そして人にも物にも、深くふかく思い入れている。何か秘密があるらしいところも魅力があって、時折無表情で誤魔化すところが、ほんの少し子供っぽい。男のひとにしては小柄なちんまりとした身体(実際、わたしの方が背が高いのだ)はしかし決して痩せぎすではない程度に整っていて、黒いシャツと白のベストが彼のミステリアスな雰囲気を引き立てていた。不意にコーヒーカップを傾けていたギアさんがちらりとこちらを見たような気がして、心臓が跳ねるのを感じながら、わたしはそれとなく硝子越しの外を見つめた。しぐれる景色は今では随分と見慣れた光景だった。
ロンドンは雨の街だ。曇り空からぱらぱらと雨粒が落ちることは日常的で、漂う霧が視界を覆う。雨露が反射した街並みは不思議とうつくしくて、濡れるコンクリートの香りも、今ではお気に入りのひとつになった。いつもの日のいつもの光景。だから、こうしてギアさんとお茶をしていることは、奇跡みたいなことだった。帰路に偶然ばったりと遭遇して、常日頃の雨が降って、雨宿りを兼ねて近場の喫茶店に入ったことは。ギアさんはスコットランド風のパンケーキを食べていた。ぐらぐらと積み重なったパンケーキにはホイップクリームが挟まり、ベリーソースと三種の苺が満遍なくかかっている。ギアさんはそれを慣れた様子で口へと運び、咀嚼する。コーヒーカップの中身はホットココアで、か細い湯気が立っていた。ギアさんは小柄な容貌に対してよく食べるし、甘いものを好んでいる。既に昼食を済ませていると聞いていたけど、彼は涼しげな顔でお皿を空白にしていった。
しっとりと濡れた髪は常よりも黒く艶めいていて、秀でた額に滑らかにかかる。けぶる睫毛がはたりと羽根を休めるように揺れて、金色の瞳が窓へと向けられた。わたしが外を見ていたからだった。人気のない店内。窓際の席。耳に馴染むクラシックが流れている。曇り空は存外暗くはなく、うっすらとしたひかりがギアさんの髪を染めていた。綺麗だわ、と思った。わたしの色の抜けた赤髪では、きっとこうはならない。ざあざあと降る雨は細々としていて、蜘蛛の糸を思わせる。彼の形良いくちびるのあわいが歪む。
「中々止まないな」
このまま、時が止まればいいと思った。雨が止まない代わりに、今のままを停滞していたいと、思ってしまった。こんなこと、思ってはいけないのに。ギアさんに誘われたとき、招かれたとき、わたしはいつも、わたしと同じくらい彼がわたしを好ましく思ってくれているような錯覚をする。好意は比例しないし、それどころか相互しないことだってあるのに。
「もう、止まないのかもしれませんね」
なのに、ついと洩れた言葉は浅ましさを隠しもしない形をしていた。自分で口にしたことなのに、恥ずかしいという感情が頭を占める。もっと素敵な返しがあったと思うし、彼が求めたのは共感だったのかもしれない。意味のわからないことを言った自覚だけがぐるぐると脳を渦巻いて、ごめんなさいと許しを求める台詞をつづけようといた。しかし、ああと、心地よく抑えられた低い声が思考を支配する。はっと顔をあげれば、彼の瞳は変わらずに雨を映していた。ギアさんは如何にも無防備に頬杖をついて、微笑んでいた。彼の微笑がわたしだけの前に存在していたのは、きっと初めてだった。だって、いつも目を奪われていたから。やがてその視線はわたしへと向かい、ギアさんは優しげに目を伏せた。
「それも悪くない。アデライン、お前とこうして過ごせる」
一瞬、涙が出るかと思った。それほどの衝撃だった。一気に熱が昇る。アデライン、と不思議そうにギアさんがあの声でわたしを呼んだのに、わたしはまともに取り繕えもせずに顔を覆った。生じた熱は頬なのか指先なのかもわからなかった。壊れたように視界がぼやけていって、ああ、駄目だ。駄目。駄目になってしまう。恋は生態上恋が自然に発生する感情だなんて、いったい誰が言ったのだろう。だとしたら、わたしに存在したいくつもの衝動は、すべて恋だったはずだ。ひとを好きになる瞬間は幾度となくあったのに、それがロマンス小説のヒロインのように芽吹かせることはなかった。なんて、思考は馬鹿らしく飛躍する。
好きですと、思った。あなたが好きだと思った。あなたのことしか考えられなくて、ああこれが恋なんだと、そう思った。
→
目次
歌屑とひやおろし