第四話『盤上の棋士・後編』
盤上の棋士・後編
季節は12月に変わった。英蔵にとっての厄月。相変わらずごく普通に仕事をこなしている、そして相変わらず、それが《計画》においてなんの意味があるかは分からなかった。
仕事には慣れてきたが職場にはなれそうにない、相変わらず爆発物扱いをされているし、唯一話しかけてくる金森とも仲良くはなれていない。居心地が悪い。
恒人との同居生活は続いていた、といっても恒人は忙しいらしくその分英蔵の自由時間はが多かった。その間に自然と浅葱や涙沙とも親しくなり、1度だけ恒人も入れた5人で遊んだこともある。今年ばかりは厄月ではないかもしれない、最大の難関であるクリスマスを越えなければなんとも言えないけれど。
それでも胸の奥で澱む暗い思い、恒人の、正確には恒人の生い立ちのことを振り切るように英蔵は恒人が暇な時は必ず外へ誘った。
遠出は断られたので行く場所は限られてしまっていたが、それでも思いつく限りの場所へ連れて行った。ミヤの言う通りならば笑っていても本当は楽しくないんじゃないかという不安があったが、それでも「楽しいですよ」と言ってくれる言葉を信じて、外へ連れ出した。
しかし、少しばかりやりすぎたらしい。日が二桁にようやく上る頃、恒人が体調を崩してしまった。よく考えれば当たり前だ、下手をすれば免疫力自体弱い可能性だってあったし、(演技でなければ)あの比較的人口密度が低いパーティ会場で酔ってしまうほど人がいる場所になれていないのだから。
「まぁ、タイミング悪くはなかったですけど。今は何が何でも本社に俺自身が行かなければいけないわけでもないし・・・多少遅れはでてしまうかもしれませんが」
体調を崩したことが悔しいとばかりの拗ねた顔をしてベッドで丸まりながら、恒人は熱のせいかいつもより弱々しい声で言う。
「あ、ごめんね・・・俺があっちこっち連れ回しちゃったから・・・」
「なんで英蔵さんが謝るんですか?俺だってガキじゃないんですから、体調管理できなかったら自分の責任です」
「ツネ・・・児童福祉法で18歳に満たない子はガキなんだよ」
「そーいう意味で言ってんじゃないんですよ。自分の意志で英蔵さんについていったんだから自分の問題ですってこと。あと児童福祉法でガキなんて単語が使われるわけがないでしょ」
「こっちもそーいうこと言ってんじゃないよ。俺からしたらツネはまだ子供なの」
「なんですか、それ・・・風邪、うつるといけないんで出てって下さいよ」
現在、英蔵はベッドの横に鏡台の椅子を持ってきて座っている状態。
「大丈夫だよ。俺あんま風邪ひかないし、うつされないし」
「バカだからですか?」
「ひどいなぁ。否定はしないけどさぁ・・・」
熱をはかるつもりで手を伸ばしたが額に触れる前に恒人がびくりと身を竦ませたので慌ててひっこめた。
「・・・ごめん」
「いえ、すいません。人から触られるの慣れてなくて・・・」
「あ・・・いつもは風邪引いた時どうしてるの?ほら、主治医とかいないの?」
「いますけど、よほど酷くなきゃ呼びません。薬飲んで寝てます。ああ、そういえば言い忘れてましたけど・・・テレビ台の横にボタンがあるんですよ。あれ、緊急連絡用です、下の警備部に直通してるんで、なにかあったらアレを押せばさすがに誰か飛んできますよ。まあ一度も使ったことないですが」
「すごい、秘密基地みたい・・・」
本気で感心した様子の英蔵に恒人は布団に顔をうずめて笑う。
「あのさ、ツネが嫌じゃなければだけど・・・此処にいてもいい?」
「別にかまいませんけど、なんでですか?」
「だって、心配だからさ・・・」
「只の風邪ですよ、心配するほどのものじゃありません」
大きな瞳が英蔵を見上げ《理解できない》とでも言うように細められた。
「いや、風邪の時って妙に心細くならない?」
「なりません」
「ん〜〜〜〜〜〜〜と、そっか・・・」
「でも、いたいならいてください」
「ん、じゃあ此処にいるよ」
「変な人ですね」
そういえば、と英蔵は思う。笑顔やらなにやらは計算して作られたものだったとしても、この《理解できない》という表情だけは本物ではないかと。でなければ、相手の出方を見て表情を作っているのだとしたら、《理解できない》という表情だけは浮いている、必要がない。
恒人は掛け布団に鼻まで顔を埋めたまま目を伏せていた。長い睫毛が影を落とした白い肌が赤味を帯びていて、艶やかな黒髪が墨絵のように白いシーツに流れていた。
「野萵苣・・・ラプンツェルってさ、どんな話だったっけ?」
「知らないんですか?」
「詳しくは知らないよ、女の子向けの童話じゃない」
「童話に女の子向けとか男の子向けとかあるんですか?」
「ええ!?やっぱりシンデレラとか白雪姫とか眠り姫とか・・・あの辺りは女の子向けなんじゃないの?」
「じゃあ男の子向けの童話ってなんなんですか?」
興味を引く話題だったのか単純に英蔵がうるさかったからか、恒人は布団から顔を出して英蔵を見た。
「ん、えっと。あ、ツネ、小説とかは読むんだ?」
「古典文学は必要知識だと判断されたらしいので。話をそらさないでください、男の子向けの童話が何か、一つ一つ理由と一緒に上げていってくださいよ」
からかうかのように悪戯っぽい笑みで言われ、英蔵はまいったと頭を掻く。
「・・・強盗のおむこさん、とか」
「マニアックなのできましたね、理由はなんですか?」
「お・・・女の子がアクティヴだから・・・とかっ?」
「英蔵さんは受け身な女の子より能動的な子が好きという話じゃないですか、それは」
「あ、そっか・・・じゃあ、えっと・・・」
本気で悩み出した英蔵に恒人はまた布団に顔を埋めて声を殺して笑い出す。
「え、なにか可笑しかった!?」
「だって、こっちが揚げ足取って意地悪言ってるのに真剣に考えてるから・・・」
「あ、でもほら!一個思いついた!《忠臣ヨハネス》なら、どう?」
「え〜続けるんですか、これ。理由はなんでしょう?」
「侍!!って感じしない?」
「・・・グリム童話なのに侍ですか?」
「・・・あ」
限界だとばかりに恒人は身体を丸めて爆笑しだした。布団に潜ってしまったので顔は見えなくなったけれど、笑い声が響いてくる。
それが演技だとか、作り物にはどうしても思えない。
しばらく布団の中で笑い転げた後、恒人はゆっくりと顔を出して英蔵を見た。
「面白いですね、英蔵さんは・・・で、ラプンツェルの話でしたっけ?」
「あ、うん。その、ツネの称号の由来なんでしょ、どんなのかなと思って」
「称号はあくまで《棋士》のほうであって《野萵苣》は付属品みたいなものですよ、塔の上から出てこないってところしか被ってないって言ったじゃないですか」
「ツネって髪長いなぁ、そこも被ってるのかなぁと思って、気になっただけ」
「切るのが面倒なだけですよ。あと俺の外見知ってる人間がそもそもほとんどいませんって。ラプンツェルは出口のない、窓しかない塔へ育ての親に閉じこめられた女の子、ですかね」
「それで髪を下ろして、梯子代わりにして魔女が登っていくんだよね、たしか」
「首の骨折れそうですよねぇ」
「そんな夢のないことを・・・で、王子様が来るんだよね」
「ええ、世間知らずの女の子が顔と歌声だけで結婚を申し込んでくるような軽い男に騙される話です」
「さらに夢がなくなったっ!?」
「だから別に深い意味があって付けられたものじゃないんですよ〜。いつの間にかそう呼ばれてただけです。まぁ名前をあかせないことが多いので便利に使わせてもらってますけど」
そう言って恒人は仰向けの体勢になって目を閉じた。
「あ。ごめんね、熱があるのに横でうるさくして・・・」
「・・・いえ、案外気が紛れるものだということが分かりました。だから喋ってて下さい」
「やっぱり寂しかったんじゃない?体調悪い時はさ・・・」
「変なこと聞いてもいいですか?」
「うん」
ゆっくりと目を開き、天井を見たまま言う恒人に英蔵が頷くと、恒人は少しだけ笑って言った。
「《寂しい》ってどんな感じですか?」
「・・・誰かに傍にいて欲しいって思うこと、かな。誰かと繋がりたいって思うこと」
「じゃあやっぱり寂しくはないみたいです」
笑顔を浮かべたままそう答えて、恒人はまた英蔵の方を向いて目を伏せる。
「・・・独り言を言います。他人の感情や行動パターンはある程度数値化、予測が可能なのにどうしても自分の心の中だけはさっぱり分かりません。図にしてみろと言われたら無理です。どうしても、分からない」
「俺も独り言だけど。自分の心の中が分かってる人間なんていないよ。俺だって分からない」
『でも人間ってどう足掻いたって人間なんだよな、ロボットにはならねぇよ、表現する手段を知らないだけで、あるいは自分の中に湧いた感情の名前を知らないだけで、人間なんだよなぁ・・・』
いつだったかの逹瑯の言葉を思いだした。
自分はどうやって寂しさを《寂しさ》だと知ったのだろうか、湧いてくる感情達に名前がつけられたのはいつだろう。どうやって学んできたのだろう。誰から教わったのだろう。
そして、どうしたらそれを知らない人間にそれを教えてあげられるのだろう。
17歳の少年が、こんな状況で、こんな中で、辛くないわけも、寂しくないわけもないじゃないか、だったら・・・
どうすればいい?
気がつくと、涙が溢れていた。突然泣き出した英蔵に気づいて恒人は驚いた顔で身体を起こす。
「え、あの・・・どうしたんですか?」
「な・・・なんでも・・・ない・・・」
「なんでもないって言っても・・・えっと、どうしたらいいですか?それ、どうやったら止まるんですか?」
「そのうち・・・勝手に、止まる、から・・・」
「そう、なんですか・・・?」
不思議そうな顔をする恒人の前で英蔵はしばらく泣いた。
遠くでチャイムの音が聞こえる、それも高速連打しているのかピンポーンではなく、ピポピポですらなくピピピピピピピピピピピピンポーンという音が連続して。
いつの間にか眠っていたらしい、英蔵が身体を起こすと恒人が寝室を出るところだった。
「あ!俺が行くよ!」
「・・・その顔でですか?」
「ふへっ!?」
「顔洗ってきて下さい、俺が虐めたかと思われるでしょうが。あんなチャイムの押し方をするのは逹瑯さんだけです。上がってもらうことになりますからそれまでに」
やや冷たい声で言われて英蔵は慌てて立ち上がり、洗面所へ向かう。
「こんっちわーー!三河屋でーーーーすっ!て通じてねぇかっ!」
という逹瑯の軽い声が聞こえた。
通じないだろうな、そのギャグは。と思いながら顔を洗い、リビングへ戻ると逹瑯はソファーの上にふんぞり返っていた。
「恒人君、風邪引いたんだ?なんか変なことされたの?」
「変なことってなんですか?」
「ああ、そっか。そっちも通じねぇんだった。英蔵君、おっす!」
へらへらと笑う逹瑯に挨拶をして、それから迷った。自分が聞いても良い話をするのだろうか、此処にいていいのか。英蔵が悩んでいることに気づいたのか恒人が無言でソファーを指した。
「しつれーします・・・」
「逹瑯さん、ずいぶん遅かったですが何か問題でも起こりましたか?」
「いや、だって此処東京でしょ、捌限(はちきり)があるの西日本じゃん、遠いじゃん・・・」
そう言う逹瑯の目は完璧に泳いでいて、恒人はそれを睨みつけた。
「新幹線が3日も止まった・・・というような情報は入ってきていませんが?」
「ん〜。いや、ほら、新幹線使うと勿体ないじゃない、ねぇ」
「チケットはこちらで手配したものを渡しましたよね?」
「ん、ん〜。グリーン車とかどうも落ち着かないし〜?」
「まさか、とは思いますけど・・・いえ、希望をかけてこう聞きましょうか。どの交通機関を利用したんですか?」
低い、迫力のある声で問われて逹瑯は姿勢を正す。
「・・・走って行きましたっ!」
その言葉が冗談だと思い、英蔵は笑いかけたが恒人が恐ろしい目で睨んでいるところを見るとどうやら本気らしい。
西日本のどこかは知らないが、走った。
「あ、でも帰りはさすがに新幹線使ったよ?疲れたし」
片道三日で、東京から西日本まで、人外だ。
「逹瑯さん・・・行きのチケット代、換金しましたね?」
「ごめん、いや〜悪気はあったんだけどね!」
あったらしい。
恒人は深いため息をついて頭を抱える。
「指示役のミヤさんを外すわけにもいかないし、ある程度弁の立つ人間でないとダメなので悟史さんは除外、防御の基盤の優介さんも除外、という消去法で選んだのは間違いでしたかね・・・」
「いや、でもちゃんと言われたことはやってきたから!」
「当たり前です。でどうでした?」
「捌限(はちきり)からはオッケー出たよ。懐柔成功ってとこだね」
「次の手で《チェック》ってところですね。ありがとうございます」
そんな会話を聞きながら「ああ、聞いても良い話じゃなくて聞いても意味が分からない話だったのか」と英蔵は一人で納得していた。
無駄にうるさい逹瑯も熱を出している恒人に遠慮したのか用件だけ告げてすぐに帰ってしまった。
「ツネ、もう一回熱計ったら?」
「そうっすね〜。あ〜明日までに治さないと、思ったより回転が速くなりました。まさか捌限(はちきり)からそう簡単にオッケーが出るとは、地味に貸し作っておいたのがよかったみたいです・・・」
「その捌限(はちきり)ってさ、本当はなんなの?財閥家系なのは表向きなんでしょ」
体温計を手渡しながら英蔵が聞くと、恒人は眉間にシワを寄せながら答えた。
「玖渚機関が束ねる一つです。壱外(いちがい)、弐栞(にしおり)、参榊(さんざか)、肆屍(しかばね)、伍砦(ごとりで)、陸枷(ろくかせ)、染(しち)をとばして、捌限(はちきり)を束ねて玖渚機関」
「よく噛まずに言えるねぇ・・・」
「どこに感心してるんですか?玖渚機関は《政治力の世界》を形成しています」
「政治力の世界?」
「英蔵さん達がいる《表の世界》、四神一鏡の《財力の世界》、そして京さんがいる、そしてかつてミヤさん達がいた人外魔境《暴力の世界》そして玖渚機関の《政治力の世界》この4つがバランスを取り、癒着し、補完しあって世界は形成されています」
「またも話がでかすぎてついていけないんだけど・・・」
英蔵の言葉を無視して恒人は険しい顔のまま続ける。
「4つの世界はバランス重視です。俺が《ぎりぎり表》であるのも捌限(はちきり)と直に関係があるからですよ、木幡財閥もその縁で《ぎりぎり表》、バランスの取り方が難しいんですよね・・・少なくとも今回の計画は捌限(はちきり)に爪を立てる可能性もあったから、そこが一番問題だったんですけれど、一折達がやっている不正が捌限(はちきり)に秘密だったことが幸い、というかむしろ捌限(はちきり)を裏切っていたのは一折達だということになりました」
「・・・なりました!?」
恒人はそこで眉間のシワを消して口角を上げる。
「やっぱり鋭いですね。多少の誘導はさせていただきましたよ。捌限(はちきり)がこちらの味方になり《キング》を木幡財閥のトップに置くことを承諾してくれたのなら、後はもう遠慮はいりません」
恒人はチェス盤に手を伸ばし白のキングを弾き落とす。
「チェックメイトまでもう少し、といったところでしょうか」
「なんか俺の知らないとこで色々やってたってことかな?」
「盤上に棋士が降りたら動きに制限はないでしょう?」
「反則ってことか・・・というかツネってチェス好きなの?」
「なんですか、突然」
落ちた白のキングを元に戻しながら恒人は視線を合わせずにそう返してきた。
「だって、この部屋の唯一の遊び道具じゃない、そのチェス盤が・・・」
「頭の体操としてはまぁ好きですね・・・でもキングを守るのに他の駒を犠牲にするところがあまり好きではありません」
「・・・だったらさ、棋士も犠牲になっちゃダメなんじゃないの?」
恒人の瞳がまた《理解できない》というように細められた、いや、今回に限っては言い方が遠回しすぎただけかもしれないが。もう少し言葉を重ねようとしたところで体温計がピピッと音をたてた。
「うあ、まだ39度あるんで寝てきます・・・」
「・・・うん」
当たり前のようについてくる英蔵に特になにも言わず、恒人は寝室に入るとベッドで横になった。
「なにか食べる?作ろうか?」
「・・・食欲ないからいいです。後でアイス食べます」
「だからそれは食事じゃないから!後でお粥でも作るよ」
「炊飯器がありません」
「・・・・・・お粥は、米から鍋で焚いて作るから炊飯器はいらないよ?」
返答はなかった、無言で布団を引っ張り上げて顔を隠すのを見て、照れたのかと思うと自然と顔がにやけてくる。
「作るよ、後で」
布団が微かに揺れてどうやら頷いたらしいことが分かった。
「あのさ、《キング》が此処に来たことあるって言ってたでしょ?その時はどんな話したの?」
長い沈黙が続いた、答えてくれる気はないのかとあきらめかけたころ、恒人は布団にもぐったまま話し始めた。
「突然、でした。父親が死んでから3日後でしたか・・・まぁ俺も《キング》も葬儀には出ていませんが。そもそもどうやって此処を知って、此処まで来られたかも分からないんですけど、訪ねて来ました。名前は知ってましたからね、すげぇ戸惑ったけど入ってもらいました。そういえば人とまともに話したのアレが初でしたね〜。仕事は10歳からやってますけど、やりとりは全部メールでしたから、その前に父親と電話で話したことがあったぐらい?」
「ろ・・・労働基準法違反じゃないの!?それもまたなんでメールだけなの!?」
「ホントに突っ込むところは細かいですねぇ。《答えられません》&声をだすと顔を特定される可能性があるからです。本気でやれば声で顔立ち分かりますから」
「・・・そうなんだ。ゴメン途中で」
「いえ。まぁ兄貴・・・《キング》はなんというか・・・俺のことをひどく心配してくれて、何故だか俺の境遇に対して怒っていましたね。なんとかできないのかとずっと言ってました」
誰だって怒るのではないだろうか、たとえ顔を合わせたことがなくても「いる」と聞かされていた弟がこんな扱いを受けていたら、怒らない人間なんてほとんどいないだろう。
布団に隠れた恒人が僅かに身震いしたように見えて、英蔵は悪いと思いつつ、布団をめくってその顔をのぞき込んだ。
「大丈夫?俺、聞いちゃいけないこと聞いた?」
のぞき込んだ顔の表情を確認する前に、恒人自身の手で隠されてしまったけれど、確かに少し震えている。
「いえ、ただ・・・変だな、なんで話したいとか聞いてほしいとか思うんだろう・・・」
「なにか辛いこと、あったの?」
顔を覆ったまま恒人は小さく頷いた。
「だったら話してみてよ。そういうの話すと楽になるんだ・・・経験論だけど」
「・・・できるだけ、聞き流す感じでお願いします」
「分かった、努力する」
「父親の死から一週間ぐらいでした、一折が木幡のトップになった時、一折も此処に来ました。あれがどんな男かは此処まで伝わって来ていた。父親のやり方だってそりゃ完璧にクリーンではなかったけれど、一折が要求してきたことは度を超えていた、弱いところから金を絞れるだけ絞り取って捨てるようなそんな内容でした・・・断りましたよ・・・断った瞬間スラッパーで殴られました、何発か」
スラッパー・・・特殊警棒より威力が高い、間違っても無抵抗な人間に向けて良い武器ではないし、一撃で相手が昏倒してしまうような武器。
それをあの体格の良い木幡一折が、まだ15歳だった恒人に向けて使ったというのか。それも何発も?
吐き気が込み上げてきた。10代の頃荒れていた英蔵にしても、自分より弱い相手に手を上げたことはないし、武器すらつかったことがない。
喧嘩はしたが暴力で相手に言うことを聞かせたことは一度もないと誓える。
一折は最悪のタイプの人間だったということなのか。
暴力で、権力で相手を屈服させる人間。
「ツ・・・ツネ・・・それで・・・怪我は・・・?」
「使い慣れてるんでしょうね、あるいはやりなれてる・・・アバラ一本折れただけでしたけど・・・痛みはめちゃくちゃありました・・・それで最後にあいつ、言ったんです・・・」
顔を覆った手から少しだけ見える口角が上がった。
「おまえなんか
××××××××××××××××××××道具のくせに
って。ああでも勘違いしないで下さい。別に私怨で一折を追い込もうとしているわけじゃありません、大きな組織のトップに立つ人間が犠牲を好むのは絶対に良くないことです」
「・・・ツネ」
「俺は《キング》がトップに相応しいと思っているから」
「・・・恒人」
「理不尽に、不条理に人を犠牲にすることで生きながらえるだけでなく、それに快楽を感じるような人間に力を与えてはダメなんです」
「そうじゃねぇだろっ!!」
耐えきれずに大声を上げた英蔵を恒人は手をどけて見上げる。困惑した顔で。
「・・・ツネが、ツネ自身が一折の犠牲になってるんじゃねぇか。まずそのことに怒れよ、そのことを考えろよ」
「別に犠牲になってるとは思っていませんよ。一折の言ったことは事実ですし。むしろ暴力に屈した形になった俺に問題はあるかと」
「なってるんだよ、他の心配する前に自分のこと心配してよ、こんなとこに閉じこめられた状態で暴力ふるわれたら誰だって折れるよ、ツネに問題なんかない。そこは問題じゃない、問題なのは・・・もっと自分のことで怒れよ、自分のことで泣けよ・・・頼むから、どれだけ他の人間がツネを道具として扱っても、ツネ自身が自分を道具だと思わないで、自分を大事にして欲しい。ツネは人間なんだから、ロボットでも道具でもないんだから・・・」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
身体を起こした恒人の《理解できない》と細められた目に、英蔵は一つ一つ言葉を紡ぐ。
これほどまでに相手に届いて欲しいと思ったことはなかった。
「俺がツネを大事に思っているから、傷ついて欲しくないし辛い思いはして欲しくない、もちろん死ぬのは絶対に嫌だ。笑ってくれたら嬉しいし、風邪をひいたら心配になる・・・ねぇツネ。《キング》をミヤ君達に守ってもらっているのは計画に必要だからだけじゃないでしょう?《キング》が、いやツネのお兄さんがツネにとっては大切だからじゃないの?計画なんかなくてもお兄さんが危なかったらツネは絶対に守ろうとするんじゃない?」
「それ・・・は、そうですけど・・・でも・・・」
「ツネがお兄さんのこと大事なように俺もツネが大事・・・気持ちとしては同じだよ。ツネはお兄さんが危ないことしようとしたら止めるでしょう?辛い目にあっていたら助けるでしょ?」
「・・・そうだけど、でもなんで英蔵さんは俺を大事だと思うんですか?」
「色んな話聞いたけどさ、えっと、俺に合わせてるだけだとしても、演技だとしても・・・ツネといるの楽しかったから、それで一緒にいたら自然とそうなるよ、相手のこと大事だと思う。ツネといて、ちょっと生意気だけど可愛い弟ができたみたいで嬉しい」
「すいません・・・よく、分からない」
スイッチが切れたかのように全ての表情を消し去った顔で恒人はそう言った。英蔵はそれを少し悲しげな笑みで受け止める。
「いきなり分からなくてもいいんだよ・・・ただ、約束して。自分のことも大事にしてね。ツネのお兄さんだってツネになにかあったら悲しむよ」
「・・・兄貴が?」
「うん。だっていきなり此処まで訪ねてきちゃうぐらいツネのこと好きなんだから。誰かを守ることと、自分を守ることは同じなんだよ。大事な人がいるならまず自分を守るんだよ」
恒人は目を閉じて、英蔵の言ったことの意味を考えているようだった。
しばらくたってから目を開けて英蔵に視線を合わせて少しだけ微笑む。
「・・・考えてみます、そういうことも、ちゃんと」
12月23日、計画は最終局面に入ったらしい。英蔵には相変わらずなにがどうなっているのかよくわかっていなかったし、他の3人もそれは同じようだ。
ただ、職場で部長の挙動不審さが度を超してきた、金森が妙に静かになったそれだけ。
たぶん今日がゆっくりできる最後の日になると言われて、英蔵は恒人を最初に行ったラーメン屋に連れだした。帰り道、人気のない住宅街を歩きながら恒人にずっと聞きたかったことを言った。
「あのさ、計画が終わったら俺はどうなるのかな?」
「最初に言った通り、今後の就職は保証しますよ。木幡の関連企業から好きなところを選んでください、それが嫌なら自由にしてもらってもかまいません」
ひどく冷える夜だった、吐く息が白い。
あの日から恒人の表情のパターンは減ったように思える、それは悪い意味ではなくそこに計算がなくなったのだろう。
「そういうことじゃなくてさ・・・あの、計画が終わった後のツネと俺」
「どういうことです?」
「だから・・・こうやって、一緒にご飯食べに行ったりできるのかな、って」
恒人が無言で足を止めた、英蔵もつられて止まる。変な質問をしたかと思ったがそうではないことが前方に視線をやって分かった。
街灯の下に人が立っている。
この寒い中、薄い黒のシャツにズボン。肩まであるウエーヴした黒い髪。童顔の可愛らしい顔立ちの男。彼は立ったまま目を閉じてすーすーと寝息を立てていた。
この時点でもう回れ右をしたい気分だったが、一番問題なのはその細い両の手に、白木の柄の小太刀が握られていたことだ。
どこからどう見ても普通ではない、これが普通なら日本の治安は崩壊している。
動けずにいると男はゆっくりと目を開けて、二人を見た。
「もう!遅いですよ〜、遅いですよ〜、うっかり寝てしまったじゃないですか、困るんですよね、困るんですよねぇ・・・」
ほんわかした口調、やわらかそうな声音、人懐っこい笑顔。手に凶器さえ持っていなければ警戒を解いてしまいそうな気が抜けるほど緩い雰囲気。
「うぬ、でも起きました。もうぱっちり目が覚めましたよ。う〜〜〜〜〜〜〜〜〜んと、そうだ本人確認しなきゃいけないんでした、うっかりさっくりと忘れるところでした」
動けない、この華奢な愛らしい顔立ちの男を目の前にして一歩も動くことができない、縫いつけられたように動けない。声すら出せない。英蔵は隣にいる恒人を確認しようとしたがその動作すらできない。
自分が感じているものが《恐怖》だと理解するのに時間がかかった。
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと。《野萵苣の棋士》さんはどちらですか?」
「俺です。貴方は?」
恒人ははっきりとそう言って、一歩前へ出た。
「俺?俺ですか?う〜〜〜〜ん、誰でしょうねぇ・・・名乗ったらダメなんじゃあないかなぁ、ん?別にいっか、貴方達死んじゃうんですから、俺に殺されて」
無邪気な笑みを浮かべて男は言う。
「闇口明希、だよ」
闇口、《殺し名》、主のために殺す《暗殺者》。
「・・・京さんと同じ?」
ようやく出た声は自分のものとは思えないくらい掠れていた。英蔵の問いに明希は不満そうに口を尖らせた。
「イヤですねぇ、あんな《失敗作》と同じにしないで下さいよ〜。じゃっきーん!じゃっきーちぇーん!」
謎のかけ声を上げて明希は小太刀をクロスさせる。
「なんで闇口が絡んでくるのか聞いても良いでしょうかね?」
「え〜〜?言うんですか?ユーラシア大陸ですか?困ったなぁ・・・」
「貴方が匂宮でないことはこっちにとって幸いなんですよ、少なくとも木幡の関係者で闇口と主従契約している人はいませんから。最悪の事態として石凪が来てしまう可能性はぶっちゃけあったけれど、闇口ならば話は別です・・・」
「ん?よく分からないけど、貴方が持ってる木幡財閥の不正の証拠を〜〜〜盗ってくるのが俺の役目なんだよね〜」
恒人はゆっくり英蔵の前に移動しながら、ベルトから何かを抜いた。
「さしずめ・・・漁夫の利、鳶に油揚げ、といったところでしょうか。そこまで喋って頂ければ分かりました。明希さんでしたっけ?貴方に《失敗作》呼ばわりされるのは京さんも心外でしょう」
「んんん???」
「口が軽い闇口なんて前代未聞です。それに不正の証拠なんて持ってませんよ、俺は」
恒人に言われ明希は口を尖らせて首を傾げた。
「俺、難しいことはよく分からないからまぁいいや。とりあえず〜〜〜〜殺してから考える」
明希が前屈姿勢になった瞬間、恒人は英蔵の脇腹を叩いた。
「逃げますよっ!」
「あ、うん」
ようやく我に返った英蔵は恒人に押されてもと来た道を走り出す。が、すぐに頭上に影がかかったかと思うと、二人を飛び越した明希が目の前で笑っていた。
「逃げられるわけないでしょ〜。次は首をいっちゃうよ?」
明希の言葉が終わった瞬間、恒人の髪が、後ろで束ねていた部分がばさりと地面に落ちた。
動揺する英蔵の隣で恒人は表情を変えないまま明希を見ている。
「うん、慣れてるって感じの顔ですねぇ。殺意を向けられることに慣れてる。でもそんな武器で俺に勝つつもりじゃないですよねぇ。だったら笑っちゃいますよ〜。慣れてようがどうしようが、貴方に戦闘力があるとは思えないってゆーか、ないでしょう」
「そうですね、無理・・・でしょうね・・・護身術レベルですから」
そう言いながら恒人は先程ベルトから抜いた14センチほどの棒状の護身用具、クボタンを構える。
「無理なのにやるんですかぁ?めんどうだな〜」
「じゃあ、大人しく殺されてあげますからこっちの人は見逃してもらえません?」
「ん〜。いいですよ〜、元々予定にはなかっ・・・」
「待てよっ!」
明希が言い終わる前に英蔵が恒人の肩を掴む。
「巫山戯るな!この前のことちゃんと考えるって言っただろ!?なに勝手なこと言ってんだよ!!」
普段穏やかな英蔵の剣幕に恒人は驚いた顔をしてから唇を噛んだ。
「・・・状況が状況です、計画の遂行が最優先ですから。俺がいなくなってもミヤさんが計画を継いでくれます、だから」
「オマエ自分がなに言ってるのか分かってるのか?俺にツネを見捨てて逃げろってそう言ってるんだぞ?そんなことできるわけがないだろっ!」
「だからってアンタ此処で一緒に死ぬ気ですか!?そんなの・・・」
「此処でツネを見殺しにして逃げるくらいなら死んだ方がましだっての!」
しゃりんっと小太刀を合わせて明希が二人の言い合いを止める。その顔にもう笑顔は浮かんでいなかった、暗い視線を向けている。
「アンタらムカつくよ。超不愉快。なにを譲り合ってんの?何を守りたくて命譲り合ってんの?そーいう綺麗に見えて自分勝手なのムカつくんだよね、相手に自分の要求呑んで欲しいだけじゃん、それを格好良く言わないでくれるかなぁ?《野萵苣の棋士》さん、話に聞いてたのと全然違うよ、只の人間じゃん、つまんねぇの。もういいよ、邪魔くさい、二人とも殺す。仲良く死ねば?満足でしょ?」
呆然とする二人に明希は穏やかさの消えた淡々とした声で続ける。
「大丈夫、一瞬だからさぁ。痛いかどうかは俺はやる側だから知らないけどね。墓森じゃないから無駄に痛めつけたりはしないよ、怖かったら目を閉じてれば?」
「なにかすごく・・・重要なことを言われた気がします・・・」
恒人はそう言って、下げたクボタンを再びかまえた。明希は怪訝そうに首を傾げる。
「なんのつもりなのかな?」
「前言撤回、全力で抵抗しますよ。そして生き延びる・・・」
「無理だよ」
「100億分の1の可能性にでも賭けます」
「・・・ツネさぁ、それもう一個ないの?」
英蔵にまったく普通の調子で言われ、恒人は苦笑する。
「そんなに暗器隠し持ってたら危ないでしょう。英蔵さん、元ヤンなんだからなんか知識ないんですか?」
「いやあ、俺は絶対に武器は使わないと心に決めてたからね」
「じゃあこれ、どうぞ」
恒人はベルトのバックルを取り外して英蔵に渡した。
「ナックルダスターだったんだ!やけに派手なバックルだと思ったら・・・」
「そんなもんで小太刀相手、それもプロのプレイヤー相手って只の自殺行為ですからね。俺、護身術に関してはそこそこのレベルなんで、自分の身を守るのに使って下さい」
「これ、防御には向いてないと思うけど・・・」
「まあ、なんか頑張って下さい」
「そうだね」
突然、そんな会話をし始めた二人を明希はきょとんと見つめてからまた口を尖らせた、今度は少し可笑しそうに。
「ん〜!抵抗すると痛くなっちゃうよ?よく分からない人達だなぁ・・・」
「そういえば一つ・・・現役の《殺し名》に聞いてみたいと思っていたことがあるんですけど、京さんは少々立ち位置が特殊ですから・・・明希さん、貴方に質問してみてもいいですか?」
恒人に言われて明希はしゃりんしゃりんと小太刀をすりあわせながら首を傾げた。
「あれ?京さん以外で現役の《殺し名》に会ったの初めてなの?」
「いいえ。1年半前に・・・匂宮祈さんにお会いしましたけれど、聞ける雰囲気じゃなかったもので」
明希の動きが止まった。目を見開いて焦った声で言う。
「匂宮祈って言いました!?まさか知り合いじゃないよね!だったら大惨事だよ!宇治茶ですよ!」
明希のあまりに動揺した様子に恒人がむしろ驚いた調子で答えた。
「いえ、知り合いではありませんよ。偶然お会いしただけです・・・」
「びっくりした〜!アレとだけは絶対に関わりたくないんだよ。ん、で質問ってなぁに?」
「どうして人を殺せるんですか?」
「・・・ん!?なんかすごい質問されたよ!!《殺し名》にそんな質問したら腹膜炎おこしちゃうよ!?俺は〜ま・・・主に言われたからだよ。〜」
「闇口の《忠義》墓森の《仁義》薄野の《正義》天吹の《潔癖》石凪の《運命》にしても・・・人を殺すに足る理由だとはどうしても思えないんですよね。ねぇ英蔵さん?」
急に話を振られてどもりながらも英蔵は答える。
「え、っと。俺もそう思うよ。だってそれ全部、一律なものでも等価値なものでもないからさ」
「それはアレですか、忠臣蔵って見方を変えればプロパガンダじゃんってそーいう話なのかな〜」
しゃりん!と小太刀を合わせて明希は首を傾げる。
「でもさ、否定する材料もないよね。俺から見たら他がオカシイし他から見たら俺がオカシイってことでしょ・・・でもそれって当たり前じゃない?」
「つまり、他から見ていかに異常であっても、明希さんにとっては主の命令で人を殺すのは当たり前だと?」
「うん。そーいうことだね、結局自分にとって何が大事かだもの、それが矜持でも意地なんでもさ。どの世界だって強者が弱者食い殺して成り立ってるんだもん。そこに流血や刃物がないだけで、やってることは同じでしょ〜?もういい?質問お終い?」
しゃりしゃりと苛立たしげに小太刀を合わせる明希を見て恒人は頷いた。
「お終いです。ああ、でも最後にもう一度だけ言っておきますけれど、俺も、俺の周囲の人間も木幡上層部の不正の証拠なんて持ってませんよ。俺を殺しても無駄骨です」
「あんま頭使わせないでよ〜!痛くなるじゃん。てかもう痛くなってきたからとりあえず刺しま〜〜す!」
明希が踏みだしかけたその時ひぅんひぅんと風を切る音がした。そしてその身体が宙へ投げ出される。驚いて動きかけた英蔵の腕を恒人が掴んで囁く。
「動かないで」
横のブロック塀に叩きつけられる直前、明希はしなやかに身体を回転させて、塀に足をつき、地面に着地する。夜目では分かり難いがその身体には幾重にもワイヤーが巻き付いてた。
知らぬ間に、周囲に蜘蛛の巣の如くワイヤーが張り巡らされている。
「う〜!やられました・・・」
明希が拗ねた顔で視線をやった先を英蔵もふり返って見る。いつからいたのか、あの料亭の時と同じぐらいの唐突さでミヤがそこにいた。影のように静かに立っていた。
違うのはいつものタートルネックではなく半袖のTシャツを着用しており、黒い硬質な義手が剥き出しになっていた。義手なのは肘のやや下辺りからで、義手からはたくさんのワイヤーが出ていて、張り巡らされたワイヤーはミヤの腕に集約されていた。
「悪いな、遅くなった・・・」
「いえ、結果的に間に合ったんですから謝られるいわれはありません」
ミヤの言葉に恒人は明希から視線を外さないまま応える。
明希は立ち上がって手に持った小太刀を回転させ、身体に巻き付いたワイヤーを切断すると、頬を膨らませた。
「貴方・・・もしかして《白銀の執行人》、薄野ミヤさんじゃないの?」
「違う、俺はもう薄野じゃない」
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
明希は唸りながらポケットに手を突っ込み携帯電話を取りだした。
「お、おい・・・状況分かってるのか?」
「ダメですよ、人が電話してる時は静かにしなきゃ」
珍しく驚いた様子のミヤに明希はさらりとそう言って携帯電話を耳に当てる。
「もしもし〜、うん俺・・・・ん、そっか分かった〜」
それだけの短い通話で明希は携帯電話をポケットに仕舞いにっこりと笑った。
「あのね、帰ってこいって言われたから俺帰るね。ごめんねびっくりさせて、じゃあ!」
「え、ちょっと・・・」
ミヤが止めかけたが明希はひょいっとワイヤーの隙間から飛び出て、すぐに姿が見えなくなった。
「・・・マジで帰ったぞ、アイツ!」
「えらくマイペースな方でしたね・・・・」
恒人がクボタンをベルトに差すと、ミヤもひょいと手をふってワイヤーを回収した。
「捕まえたほうがよかったか?」
「いえ、後々面倒になるからいいです。ただ彼の主だけ調べていただけますか」
「分かった」
そんな会話を交わす二人の横で英蔵は全身の力が抜けるのを感じていた、膝が笑っている、立っていられない。そのままへたり込んでしまった英蔵を恒人がのぞき込む。
「英蔵さん、どうかしましたか?」
「どうかしましたか・・・じゃねぇよ・・・なんだよ、あれ」
「王道の《殺し名》ですね。怖かったですか?」
「怖かったよ、当たり前だろ・・・」
「それは・・・ごめんなさい・・・」
「ツネがあやまることじゃねぇし・・・」
掴んだままになっていた腕を放して恒人はもう一度「ごめんなさい」と呟いた。
「二人とも、送るからとりあえず立て。念のためにしばらくこっちのガードにまわるが、いいよな」
ミヤの言葉にようやく英蔵は立ち上がる。
「ツネは・・・ミヤ君が来るの分かってたの?」
「分かってはいませんでしたよ。来ることに賭けただけです、だから話を引き延ばした・・・最初は本当に英蔵さんだけ逃げてもらうつもりだってけれど・・・どうやら明希さん話が通じる、この場合はコミュニケーションが取れるという意味ですが、そのようだったので会話の引き延ばしに・・・ごめんなさい」
「だから、なんであやまるの?」
「英蔵さん、怒ってるじゃないですか・・・」
「ツネに怒ってるんじゃないよ、自分の不甲斐なさに怒ってんだよ。じゃあツネは何にあやまってるんだよ?俺が怒ってたらあやまるの?」
「違いますよ、最初に身の安全は保証するとか言いながらこんなことになってしまったから・・・」
「そこは問題じゃないんだよ!」
「英蔵さん、そのへんにしとけ」
ミヤに腕を掴まれた、コートの上からでも分かる硬質な感触に英蔵は口を閉じる。
その後、家に帰るまで会話はなかった。英蔵はただ、前を歩く恒人の髪を、切断された襟足を見ていた。見事に髪だけ切られたらしく傷はないようだったけれど。
そういえば道の真ん中に長い黒髪が束になって落ちているって他の人間が発見したらこの上なく不気味な光景じゃなかろうかと思考を外してはみたが、結局また元に戻ってしまう。
死ぬところだった。
死ぬ、ところだったのだ。
あの状況において何もできなかった自分にショックだったし、明希に言われたこともショックだった。
自分の要求を相手に呑んで欲しいだけ。
その通りだ、逃げられなかったのは恒人のためじゃない、それに自分が耐えられないだけだ。
じゃあ恒人はどうして自分を逃がそうとした?
身の安全を保証するという約束を守るため?
それだけ?
あの一瞬、恒人が明希に自分だけ逃がすように言ったあの時、嬉しいと思ってしまったことに、彼の中で命を守るだけの立ち位置に自分はいるのかと自惚れたことに吐き気がする。
見返りを求めていたことを自覚して、気分が悪くなる。
そもそも何かをしてやりたいだなんて気持ちが、相手を下に見ていて、傲慢で、その感情そのものが少しも綺麗なものではなく、むしろ自分勝手なことだったのではないかと。
マンションに戻ると恒人は髪をどうにか見られる状態に整えると言って風呂場に行ってしまい、英蔵はリビングにミヤと二人、残された。
「・・・恒人君、対応に困ってたじゃねぇか。そんなにショックだったか?」
窓の前に立ち、視線を外にやったままミヤが言う。
「俺って、ツネにとってなんなんですかね?」
「・・・今回の駒なんじゃねぇの」
「そう、か・・・」
ソファーに沈み込む英蔵にミヤはいちべつをくれてまた外を見る。
「じゃあなんだったらよかったんだよ?」
「それは・・・」
「アンタさぁ、逹瑯のバカに何を言われたか知らねぇけど、あとちゃんと言わなかった俺も悪いけど、無責任・・・は言い過ぎだな、ちょっと考えなしだったんじゃねぇか?」
ミヤは窓に背を預けて英蔵を見た、冷ややかで無機質な目で。
「恒人君をあっちこっち連れだして、いろんな話してさ、そこまで距離詰めてその後どうするつもりなんだよ。一緒にいたら多少は仕方ないけど、アンタは意図的に連れ出したんだろ?で、その後どうするつもりだ?」
「どうするって・・・」
「《キング》が木幡のトップになれば恒人君の自由度も高くなるのは事実だ、でも彼があくまで《ぎりぎり表》であることに変わりはない、捌限(はちきり)との関係が濃いしな。半端に外の世界見せてそこではい、お終いか?それはちょっと無理があるだろ、どれだけ普通に見えたって、人並みにできているように見えたって、15年間一歩も外に出ず、人とまともにコミュニケーション取っていなかった人間がなんの手助けもなしに上手くやっていけると本気で思ってるのか?今現在、ちょっと行き違っただけでどうしようもなくなっちまってるだろうが、そういうところ全部フォローしてやる覚悟でやってんのか?データ分析する能力に長けてたら、確かに人の表情や言動はパターン化できるものだからあくまで《野萵苣の棋士》として相手と向き合い続けるなら問題なかったはずなんだ、でも一人の人間として向き合うように持っていったのはアンタだろ?だったらなに途中で投げようとしてんだよ」
「それは・・・」
「その覚悟がねぇなら・・・今のうちに距離を取れよ。たぶんあと3日もすればすべて終わる。アンタはアンタの世界に帰ることになる」
それだけ言うとミヤは玄関の方へ行ってしまった、入れ違いになる形で恒人が戻ってきてソファーに座る。英蔵の斜め前。
髪は襟足だけ揃えてきたらしい。ボブカットになった髪をいじりながら無言で視線を下に落としている。空調の音がかすかに聞こえるだけの部屋で長い沈黙が続いた。
「・・・俺、もう寝ますね。おやすみなさい」
30分ほどそうした後、恒人はそう言って立ち上がった。
「おやすみ・・・」
その背中を見送りながらようやくその一言だけ絞り出して、英蔵は頭を抱えた。
ミヤに言われたことが突き刺さる。
安易だったのだろうか、簡単に考えすぎていたのだろうか、自分が手に負える問題ではなかったのだろうか。
目の前のチェス盤から黒のクイーンを取る。
「・・・あと3日、か」
距離を取れと言われた、それが最善なのだろうか。
それでも交わした言葉は現実で、見せた表情は現実で、3日後には全てと別れてはいさようならなんてことは到底出来そうにない。
じゃあ何を言えばいい?何をすればいい?
そもそも恒人は自分をどう思っているのだろうか。
黒のクイーンを元に戻して英蔵は立ち上がり、恒人の寝室の前へ移動した。
小さくノックをしたが返事はなかった。
「あ、あのさ・・・今日はごめん、ちょっとびっくりしただけなんだ、だから本当に怒ってるわけじゃないから、変な言い方してごめん。その・・・なんだ、この計画が終わった後も、ツネがイヤじゃなければ、だけど・・・一緒にどっか行ったりしてくれたら嬉しいんだけど、その・・・あれだ、友達としてな。そう、それだよ・・・友達になってくれない?」
返事はなかった。途端に自分の言ったことが恥ずかしくなり、英蔵はゲストルームに駆け込んでベッドに転がった。
「ああ、もう・・・違うだろ、俺・・・」
あの時はただ、悪くもないのにあやまってくる恒人に少しだけ腹を立てて、そんな自分に怒っていただけで。あんな状況で平然としてられる恒人に住む世界の違いを見せつけられたことだとか、明希に痛いところをつかれたことだとか、恒人の髪が切り落とされたことが時間差で肝が冷えたとか、色々なことがぐちゃぐちゃになって、何一つ、上手く説明できなくて。
言葉にできないことが多すぎて、言葉にならないことが多すぎて、どうしようもなくて。
「・・・でも、友達になって欲しいってのは本気なんだけどな」
覚悟がないならやめろとミヤは言ったが、それでもそう思ったから伝えてしまったけれど。
「これが考えナシってことかな・・・」
枕に顔を埋めて深くため息をついた。
翌朝、英蔵が目を覚ますと寝室の扉は開け放たれていて恒人の姿はなかった、リビングにもいない。昨夜の気まずい空気を思いだし、もしや置いて行かれたかと思った時、あのモニターだらけの部屋から恒人が出てきた。
「・・・おはよう」
「おはようございます。局面が動きました。相手の駒は全部落ちてキングしか残っていない、チェックです。今日ですが、会社はどうします?」
「どうするって?」
「とんでもない騒ぎになるでしょうから、まぁ一つの帝國が陥落する瞬間です、見て損はないと思いますが」
「ツネが行くなら俺も行くけど・・・」
「じゃあ行きましょうか」
そう言う間も視線はまったく合わされない、それが単に気まずい空気を引きずっているのか、英蔵が言った言葉に対する拒絶かは分からなかった。
玄関を開けるとミヤが待っていて、軽く英蔵を睨んだ後そのままエレベーターへ歩き出した。
ベンツに乗り込んだところで運転席のミヤが口を開いた。
「もうこうなったら必要ない情報かもしれないが、闇口明希の雇い主はマオって奴だった。知ってるか?」
「なんでも屋の人でしたっけ?」
「ああ、どっかの依頼だったのか本人が利用するためなのかは分からないけれどな。漏れたのが完璧に独立して、どこの傘下にも入っていない人間でよかったな」
「どっから漏れたかも微妙というか重要なんですが・・・」
「調べるか?」
「お願いします」
後部座席から身を乗り出すようにして喋っていた恒人はシートに背中を預けた。英蔵の隣。
「あのさ・・・結局その、計画ってなにがどうなったの?」
「もう話してもいいですから話しましょう。内部告発を誘導したんです。英蔵さん達が入ってもらった部署にはそれぞれ、上層部の不正を知ってる人物やそれに関わっている人物がいました。英蔵さんのいた《人事部》の場合は部長とそして・・・金森という男です。金森は単独で突き止めてその内容をどこかに売り渡すつもりだったんでしょうけれどね」
「・・・内部告発を誘導?」
「浅葱さんの言う通り、《心理戦》ですよ、細かい指示は出していたでしょう?あれでプレッシャーをかけたり、色々です」
細かい指示・・・確かに『すぐに喫煙所へ』だとか『屋上へ』だとか『○○に話しかけて』だとかまったく意味の分からない指示はこなしていたけれど、それがどうして内部告発の誘導になるのかさっぱり分からない、分からないけれど。
「・・・ツネってすごいんだね」
「ありがとうございます」
やはり視線は合わされないままそう言われた。
会社に行くとまるで通夜のように静まりかえっていた。皆が皆視線を彷徨わせ、落ち着かない様子で黙って席に着いている。部長と金森の姿はなかった。
黒スーツの集団が社内を軍隊の行進の如く歩いている。適当な人に話を聞くとあれは捌限(はちきり)の者だと言われた。内部告発と言っても監察や報道機関ではなく捌限(はちきり)にされたらしい。一日中、黒スーツ集団が社内を引っかき回すのを見守るしかやることはなかった。
夕方、誰かが何かを言ったのを皮切りにエントランスへ移動すると、黒スーツ集団に上層部連中が連れて行かれるところだった。その中にあの木幡一折もいた。
ふと恒人の話を思いだし、一折を睨め付けると、向こうもそれに気づいたかのようにこちらを見た。この状況でも変わらない暴君の目。
これが崩壊だと言うならあまりにもあっけない。
黒スーツ集団が去ってから社内は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。当然だろう、上層部が根こそぎいなくなってしまったのだから。
日が暮れる頃、連絡用の携帯電話で呼ばれて英蔵は地下駐車場へ移動した。ベンツにもたれて恒人が立っている。運転席にはミヤの姿があった。
「こんな中にいてもしかたないでしょう、家まで送りますよ。英蔵さんのアパートまでね。とりあえず乗って下さい」
扉を開けた恒人にそう言われて返す言葉もなく英蔵は後部座席に乗り込む。恒人が同じく後部座席に乗ると車は動き出した。
地下から出ると雪が降っているのが分かった。粉雪の乱舞を横目に恒人は言う。
「私物やらなにやらは後で届けてますから。すいません、思った以上にやることが多くて余裕ないんですよね。その他連絡事項も後ほどということで」
拒絶されているのだろうかと思うと怖くてなにも聞けない。そのまま静かに車は移動を続けたが丁度、イルミネーションが施された並木道のすぐ横で突然車を止めてミヤが言った。
「・・・なんかエンジンの調子悪いみたいだ、英蔵君、此処からなら歩いて帰れるよな。恒人君見送ってあげて」
何か言いたげな顔をしながらも恒人が車を降りたので英蔵もそれに続く。
バックミラー越しにミヤと目が合って、ようやくミヤが嘘をついたことに気づいた。
時間をくれるつもりらしい。
「せ、せっかくだからさ、見ていかない?イルミネーション・・・」
断られるかと思ったが恒人は黙ってついてきた。
並木道に入るとまるで夜空の星が全て降りてきたのではないかと思うほどの光が瞬いていた。色とりどりの光達は静かに降る雪を照らしていて、行き交う幸せそうな顔の人々はそれを見上げてさらに満たされた表情になる。
そういえば今日はクリスマス・イヴだ。
「キレイ・・・」
恒人はそう感嘆の声をもらして装飾された木々と雪を見上げる。
「なぁツネ、昨日・・・その、俺が言ったこと聞いてた?」
「聞いてましたよ・・・英蔵さん、とても楽しかったです、夢のような日々でした。分からないことも多かったし、戸惑うこともいっぱいあったけれど心が満たされるというのはこういう感覚かと思えました・・・でもやっぱり、ダメですよ。住む世界が違います、どう足掻いても俺は《表》の人間にはなれない」
「そんなこと関係ないよ」
「関係ありますよ、影響が出ます、英蔵さんも《表》にいられなくなる、巻き込まれる。明希さんに襲われた時気づいたんですよ・・・やっぱり違うんだなって」
ゆっくりと英蔵を見て恒人は微笑む。
「それでもいいよ、これ本気だから・・・」
「だめなんですよ・・・その代わり、《キング》とは仲良くしてあげてください、すぐに正体が分かりますよ。でももう俺とは会えませんし会いません、英蔵さんはそっちの世界にいて下さい」
「それはイヤだよ、理屈じゃなく、もう会えないのはイヤだ」
恒人は困ったように首を傾げた。
「・・・雪って本当に音もなく降るんですね。不思議な光景です、イルミネーションも雪も視覚的には賑やかなのになんの音もしない。直接見ないと分からないことってやっぱり多いなぁ・・・ねぇ英蔵さん。命令したのは一折だったとしても、俺が一折に手を貸していたことに変わりはないんですよ。俺が立てた計画でたくさんの人が犠牲になりました。盤上から落ちた駒の数ははかりしれない、明希さんの言うとおりです、そこに刃物や流血がないだけで犠牲者が出たことに変わりはないから・・・だからこその《ぎりぎり表》です。それはこれからも変わらない。兄貴が木幡のトップになる以上、私利私欲のために犠牲を欲することはなくなっても、捌限(はちきり)と関連を持ち、木幡財閥自体が大きな力を持っている以上、どうやったって暗部を背負う人間は必要になりますから、ね」
舞い踊る雪に手を伸ばし、すぐに消えてしまうそれを受け止めながら恒人は静かに言葉を紡いだ。
寂しげな横顔も、漆黒の瞳も雪に染められていく。
消えてしまえばいいと思った、彼に罪というものがあるならこの雪が消してくれればいいのにと。
「納得いかないって顔ですね・・・《解呪の呪文》って言うのを聞いたことがあるんですけど、ようやく意味と使用方法が分かりました」
言われていることの意味が分からずきょとんと恒人を見る英蔵の頬を指先でかるく触れて恒人は表情を消す。
「《英蔵さん、嫌いです》。だからもう会いません」
それだけ言うと恒人は背を向けて歩き出した。遠ざかっていく細い背中にかける言葉は出てこない、伝えたいことならばいくらでもあるのに一つも言葉にならない。
追いかけたいのに足が動かない、勇気がなくて、勇気がなくて、動けない。
地上に作られた人工の星々も、空から降る雪も、全てが意味をなくしていく。イルミネーションは隠してくれない、雪は消してくれない、ただ痛みと寒さだけが胸を占めていく。
行き交う人々はどこまでも幸せそうで、微笑みを浮かべ、手を繋ぎ、プレゼントの包みを抱え、通りすぎていく。
その中で一人、立ちつくしたまま、見えなくなった背中を女々しく探しながら、やがてそれもぼやけて見えなくなる。光が滲む、冷えた頬にあたたかいものが伝う。
「・・・人生最悪の誕生日の次は、人生最悪のクリスマス・イヴじゃん」
そう自嘲気味に呟いて英蔵は恒人とは反対方向に背を向けて歩き出した。
翌朝、久しぶりに帰った自宅で眠ることもできず、かといって布団から出る気力もなくだらだらと時間を潰しているたがそれも退屈になり、ドアポストから朝刊を抜いて広げた。
そして驚いた。
一面ぶち抜きで『木幡財閥上層部総入れ替え』の記事が載っていた。昨日の今日で?と疑問に思いつつも、読み進める。不正のことは一切書かれていない、《謎の辞任》ということになっている。しかし最大の衝撃はその後にあった、新しい木幡財閥代表となった者の名前。そう言えば恒人も「すぐに正体が分かる」と言っていたか。そもそも「仲良くしてあげて下さい」という言葉があの推理を肯定するものだ。
彼が《キング》だったのだ。
その日の昼、彼から《キング》として呼び出された。指定されたオープンカフェに3人、時折視線を交わし合いながらも会話はなく、《キング》がやってくるのを待つ。
やがてカフェの横にロールス・ロイスが横付けされて《キング》は降りてきた。運転手を除けば一人で、着ているスーツが高級そうなものに変わっただけでいつもの調子で手を降って笑う。
「ごめんなぁ〜、呼び出して」
《キング》・・・涙沙は軽い足取りで英蔵達のいるテーブルに来るとちょこんと腰かけた。
「ぶっちゃけてんてこ舞いなんやけど、やっぱ最初にお礼とお詫びせなあかんし、話したいこともあったからな〜。えっと、まず騙しててごめんなっ!」
手を合わせて軽く頭を下げてから涙沙は愛くるしい笑顔を浮かべて三人を見る。
「いやあ・・・いやあ・・・って感じだよ、まさかるいちゃんだったとは」
「・・・てっきり浅葱君だとばかり」
引きつった笑顔を浮かべる英蔵と大城に「えへ」っとばかりに舌を出してから涙沙は浅葱をのぞきこむ。
「でも、浅葱君は気づいとったやろ?」
「・・・うん、まあね」
ゆったりとした笑顔の浅葱をさらにのぞきこんで涙沙は言った。
「なぁどこで気づいたん?俺、なんかミスした?」
「まず、恒人君のことをツネって呼んだ時にひっかかったかな」
「あ〜やっぱ!?アレなぁうっかり呼んでまってうわ、やばーーっと思ったんやけどなぁ」
「ツネって呼んだこと自体はかまわないんだよ、恒人君のほうが年下だし、るいちゃんはフレンドリーだからそこまで不自然じゃない。問題なのはツネって呼んだことを恒人君に《かまわない》って言われたのに呼び方を《恒人君》に直したとこだよ、それがひっかかった」
「浅葱君、細かい・・・」
涙沙の笑顔が若干引きつったが浅葱は続ける。
「もう一つ、恒人君が《キング》は東京都内の育ちじゃないって言う前、《た・・・》って言いかけて止めたでしょう?あれなんだったのかなって考えた時に思ったんだ、《他県》って言いかけたんじゃないかなって。なんで言いかけて止めたのか、その直前に恒人君は《嘘をつかない》と宣言していた、だから些細なことでも、言い間違いで済ませられるレベルのことであっても嘘をつきたくなかった、だから《他県》っていう言葉を止めた」
「・・・どういうことですか?」
英蔵が恐る恐る聞くと浅葱は指を三本立てて笑う。
「《他県》という言葉が当てはまらない場所が東京を除いても3つあるよね。もちろん《他県》って言ったところで語弊があるってほどではないんだけれど・・・」
「あ!北海道と大阪府と京都府!?」
大城が手を叩いて声を上げると浅葱は頷いた。
「この中で北海道訛りがある人間はいないけれど、るいちゃんは関西弁を使う・・・」
「浅葱君、すっげー細かいなぁ・・・」
今度はやや呆れたように涙沙は笑った。大城も「そういえば」と手を上げて言う。
「俺も一つだけ引っかかってたことがあるんだよ、ミヤ君が言ったとおり浅葱君が《キング》だとしたらパーティ会場で恒人君と喋ってないなんて言う必要はなかった。でもこれ、逆に言えばだれど《喋ったと嘘をつく必要がある》ってことじゃないかなって、俺と英ちゃんは間違いなく恒人君と喋ったけれど、るいちゃんが恒人君と喋ったっていうのはるいちゃんの自己申告だ・・・まあそれだけなんだけどね」
「・・・大城君も細かいわ!」
涙沙は軽快に笑い、それから真顔になった。
「んで、話したいことってツネのことなんやけどな・・・俺は物心ついた時から自分が木幡の直系だって知っとったし、ツネのことも知ってた、弟がいるってな〜。だからずっと会いたかった、どんなヤツかな〜仲良くなれるかな〜ってずっと思ってたけれどなかなか会えなかった、でも父親が死んだどさくさに紛れて会いに行った。今はずいぶん普通に見えるけど、最初に会った時は・・・言葉は喋れるけど表情はまったく変わらなかったんや、あのだだっ広い部屋で、一人で、本当に人形みたいやった・・・」
そこで涙沙は煙草に火を点けて空を見た、曇り空から微かに刺さる日の光に目を細めて続ける。
「どんな育てられ方をしたかも聞いた、俺めっちゃ頭に来て怒ったけど、ツネはなんで俺が怒ってるのか全く理解できなかったみたいやな、なんとかしてやりたいと思ったけれど、なんもできんかった。トップが一折に変わった時に仕事上だけでも外出許可を出させるようにツネに助言したぐらいかなぁ、それもよく意味が分かってなかったみたいやけど。それからたまに内緒で連絡取って、ごくたま〜〜〜〜に会えるぐらいだったけど。ツネな〜、表情変えれるように練習したみたい、表情変える練習ってのもおかしな話やけど・・・勉強熱心つーか努力家ではあるんや、方向がとんちんかんなだけで。でも悪くはなかった、多少でも外に出てやっぱ変わった、まぁ最初のうちはいちいち考えてから表情変えてるからかな〜り不自然だったけど、それもだんだん上手くなってそれなりに感情に沿った表情浮かべるようになったし同時に間も短くなった、まぁどうあろうと俺はツネのこと好きやし、大事な弟やけどな〜。でも、半年前に知った、一折がツネになにをさせてるのか知ったんや。まぁ逹瑯君から聞いたんやけど・・・また俺が怒り狂ってるのにツネはこっちがなんで怒ってるのか理解してくれなくて、ツネにも怒ったな、さらに困ってたけど。でもツネ自身、一折のやり方に納得はしてないみたいだったから・・・今回の計画の発案は俺や、俺からツネに頼んだ、一折達を陥落させて変わりに俺をトップに行くようにして欲しいって」
涙沙は三人に視線を戻して笑う。静かな笑みを浮かべる。
「俺に正義感なんてなかったで?一折のやり方は汚い、反吐が出る。でも俺が助けたかったのが一折のせいで犠牲になる幾多の人間やない、ツネ一人や・・・あの馬鹿、まだ塔のてっぺんに居続ける気やけど、俺がトップになった以上、捌限(はちきり)が絡んでこようがどうしようが絶対にツネを自由にする、そもそもそのためにやったことやもん」
煙草を灰皿に押しつけて涙沙は英蔵に視線を合わせた、睨むように。
「あんな、英蔵君。ミヤ君達への命令権・・・あんま好きな言葉やないけどそれはツネだけじゃなく俺にもあったんや、だから全部俺の耳に入ってる、ミヤ君はほとんどツネについてたからな、ツネに気づかれないように、もちろん英蔵君にも。ツネはたまに様子見に来るぐらいに思ってたんやろうけど、ほとんど張り付いてもらってた。闇口に襲われたのは想定外やったけどな」
「あの・・・それが・・・」
「それが、ちゃうわ。俺から見てもツネは英蔵君といるの楽しそうやったけど、英蔵君は違った?」
「・・・っそんなことねぇよ!」
「だったらなんで明らかに嘘の拒絶されて引き下がってんの?それとも怖いか、《ぎりぎり表》に関わるのは・・・怖いならしゃあないけど」
「怖いけど、でもそれはあんまり・・・問題じゃない・・・」
ほとんど語尾が消えかかっている英蔵を涙沙は身を乗り出してさらに睨め付ける。
「あんな、俺はラプンツェルで一番気に食わんの王子の態度やねん、魔女にラプンツェルに二度と会えないって聞いて、真実を確かめもせずに自殺未遂して、そのあとも嘆きながら彷徨うだけっていう態度が気に食わん!」
「・・・すいません」
あまりに的確な比喩と涙沙の剣幕に押されて英蔵が本気で謝ったので、涙沙は背もたれに身体を戻した。
「ツネのちょっとばかり・・・あんま良い言葉やないけど病的な部分は《嘘をつかない》って宣言したら、本当に頑ななまでに一切嘘はつかなくなるねん・・・意味分かる?だからツネが英蔵君に言ったことはぜんぶ本当、最後の最後・・・《解呪の言葉》やっけ、あれ前置きしたら意味がないのに前置きしないと言えなかった、嘘はつけなかった・・・本気で英蔵君を突き放したいならいっぱい嘘ついて、突き放せばよかったのに、その方法は知っていてもそれができない・・・」
《嫌いです》は《解呪の言葉》、突き放すための《台詞》それすらまともに言えないほどに、涙沙の言うとおり、あの時「本当は邪魔だった」とでも嘘をつけば、英蔵も諦めがついたのに、それも分かるはずなのに、できなかった。
「付き合いやすい相手ではないと思う、俺とツネは兄弟やから大丈夫やけど・・・友達として付き合うにはやっぱり難しい人間だと思う、だから無理にとは言わないけど・・・英蔵君にはその気持ちあるやん、そして英蔵君にはそれができると思うから、俺が基盤は固める、捌限(はちきり)にも話ねじ込んであの鳥籠の扉は開けるから・・・引っ張り出してやってくれへん?」
ファーン!とロールスロイスからクラクションが鳴ったのを聞いて涙沙は慌てて立ち上がる。
「あかん、もう行かんと。またゆっくり話しような、できたらツネも入れて5人で・・・じゃあ」
来た時と同じ軽い足取りで車に戻っていく涙沙を見送っていた4つの目が、車が走り去るのを確認してゆっくり英蔵に移される、俯いたままの英蔵に。
「・・・どうするの?」
柔らかい声で問いかけてくる浅葱の言葉に英蔵はゆっくり顔を上げる。
「俺は・・・」
恒人は上昇するエレベーターの中で後ろに身体を預けて目を閉じた。やらなければいけないことは山ほどある、表のことから裏のことまでカウントするのが面倒なほどにたくさん。
それでも計画は成功した。だからこれでいいのだ。
とりあえずお手伝いさん達をみな呼び戻さなければ、思ったより計画の完了が早かったので呼び戻す間がなかった、この忙しさで身の回りのことまでやる余裕はない。
「あ〜・・・夕飯どうしよう・・・冷蔵庫にゼリーが・・・」
そんなことをしたらまた英蔵に小言を言われるな、と思ってからもうそれはないのだと思い直した。部屋に戻っても誰もいない、あの広い部屋でまた一人になるのだ。
「・・・だからなんだって言うんだよ」
自分にとってはそれが当たり前だ、寂しいだなんてそんなこと思うわけがない。
《寂しい》?
寂しい?
誰かと一緒にいたいと思うこと。
この感覚がそうなのか?
エレベーターが到着を告げるチャイムをならして恒人は目を開け、ついでに思考も遮断する。
疲れで重い頭を押さえながら玄関の扉を開け、中に入ろうとした瞬間、後ろから強い力で突き飛ばされた。まともに身体を床に叩きつけられ、息が詰まったまま顔を上げる。
木幡一折がそこに立っていた。暴君の目で恒人を見下ろしている。一折は玄関の扉を閉めると土足のまま恒人の方へ踏み出す。
「・・・アンタなんで?捌限(はちきり)から逃げて来たのか・・・?」
痛む身体を無理矢理起こし、恒人は一折と距離を取りながらベルトに手をかけるが、そこにあるはずの物がなかった。
「探し物はこれか?」
一折は床に転がったクボタンを蹴って笑う。
「・・・なんの用だよ?」
「誰に向かって口をきいているんだ」
「てめぇしかいないだろうが。アンタはもう木幡の代表でもなんでもねぇ、俺に命令する権利もない、さっさと出ていけよ」
「そうだな。でもオマエならなんとかできるんじゃないか?俺をまた木幡の代表に戻すことも」
「どこの馬鹿が自分で引きずり下ろした人間をまた祭り上げるんだよ」
「へぇ、やっぱりオマエの仕業だったか。まぁそうだとは思っていたが・・・」
ゆっくり後ろへ下がりながら恒人は一折を睨め付ける。
「・・・じゃあなにしに来たんだよ、アンタ」
「お礼だ、俺にこんな屈辱を味あわせておいて只で済むと思っているのか?」
「どうなるんだよ?」
一折の顔が変わった、残忍な笑みはいつものことだったがさらに凶暴で恐ろしげな形相で恒人を見ている、追いつめられた暴君の顔。
「嬲り殺しにしてやる、地獄へ堕ちるならオマエも道連れだ・・・」
ある程度下がったところで恒人は走り出した、警備部直通のボタンを押すために。しかしリビング駆け込みソファーを避けようとした時、距離を詰められ、背中に何かが押しつけられ激痛が走る、痛みは全身に回って脳を揺らした。口からは自然と悲鳴が吐き出され、そのまま床に倒れ込んだ。何が起こったのか分からない、ただ身体が言うことをきかない。腹を蹴り上げられ仰向けにされた時、視界に入ったのはスタンガンだった。わざとらしく目の前で火花を散らせてから、一折は笑みを浮かべたまま恒人の腹にスタンガンを押し当てた。恒人の口から再び悲鳴が漏れるのを満足そうに聞いてから、一折は立ち上がって、先程より強く恒人の身体を蹴り上げた。華奢な、力の抜けた身体は簡単に跳ね上がって床を転がる。
「痛いか?」
可笑しそうにそう聞いてくる一折の声が聞こえる。
指先すらまともに動かない。床に転がったまま動くことができない。
『君は絶対、ろくな死に方しないと思うよ?』
一年半前、そう言われたことを思いだす。まったくの偶然、あるいは不運で恒人は匂宮祈の《仕事現場》に居合わせてしまった。
とても殺し屋とは思えない美しい青年は微笑を浮かべて言った。
『此処で俺が君を殺すととてもややこしいことになるからね、見逃してあげるよ。でも君は絶対ろくな死に方しないと思うよ?いずれはこの連中と同じになるさ』
床に積み上げられた、すでに原型を止めていない死体を指さして匂宮祈は笑う。
『君を見てると気持ちが悪くなる、人間でないモノが人間の形をして人間のフリをしているみたいだもの』
ああ、こういうことかと恒人は思った。
でも、あの台詞を言われた時ですら、何とも思わなかった。
世界がデータにしかすぎないなら、自分の存在もまたデータだ。
文字配列の一つにすぎない、消えたところでなにも変わらない。
だから死ぬことは怖くなかった。
それがどんな死に方であってもかまいはしなかった。
髪を掴まれ無理矢理上を向かされると一折の歪んだ顔が映る、残虐さを残しながらも明らかに追いつめられているその表情が滑稽で、笑い返してやると頬を強く打たれた。
「存在しない人間を一人殺して憂さが晴らせるなら安いもんだよ」
そんなことは・・・
「オマエなんか最初からそのために作られた道具だもんな、人間としてはどこにも存在していない只の道具だ」
そんなことは言われなくても分かっている。
一折が馬乗りになって首に手をかけてきたので恒人は視線を逸らした。なんとなく最期に見るのがこの男の顔というのはイヤだなとその程度の気持ちで、横に逸らした。
どのタイミングでそうなったのか気づかなかったがチェス盤がひっくり返って駒が転がっていた。目の前には黒のビショップ。
英蔵が選んだ駒。
それを見た途端、泉が決壊するように思い出が溢れ出した。見たものが、交わした言葉が、なにもかもが渦巻いて心を揺らす。
《心》?
心?
締めつけられる喉が苦しく、息が漏れる。
自分がここで殺されたら兄は、涙沙はさぞかし怒るだろう、自分の死の知らせが英蔵にも行くなら彼も怒るだろう、あの時のように泣くかもしれない。
僅かに感覚を取り戻した右手をあげて、首を締め上げる一折の腕を掴むが、指先が震えて力が入らない、もっともそれがなくても一折をはねのけることなどできはしなかっただろうけれど。
自分の境遇を聞いて涙沙が怒った意味が、英蔵に言われた意味が、今までまったく分からなかったことが理解できた。
至極簡単なことで、そのままの意味だ。
好きな人に苦しんで欲しくない、泣いて欲しくない、そのために自分が傷ついてはいけなかった、結果的に相手も苦しむことになるのだから、自分を盾にしてはダメなのだ。
自分を軽んじることは、相手も軽んじることだ。
人は人との関わりで影響を与え、変わる。理屈では理解していた、そもそも今回の計画はそれを前提に立てたものだ。
チェスとは違い駒に『心』があるからこそ成立した筋書きだ。
でも自分が変わっていくことに気づけなかった。
盤上に降りた棋士はもう棋士ではない。
いや、本当はあの時から、涙沙がこの部屋に来た時から変わり始めていた。
確かに自分は道具でもソフトでもなく、只の人間だったのだ。
なるほど、確かに匂宮祈の言うとおり『ろくでもない死に方』だ。今までどうでもいいと思っていたのに、最期の最期で「死にたくない」と思いながら死んでいくのだから。
一折の腕を掴んでいた手を離し、白み始めた視界の中、黒のビショップへ手を伸ばす。答えを、英蔵の言葉に答えを返したくて、手を伸ばす。
しかし目の前にあるように見えたそれは思ったより遠く、手は届かなかった。
視界が白くなる。
終わりなのかと思ったその時、鈍い音がして一折の身体が床に転がった。急激に入ってきた酸素に咽せながら視線を上げる。
英蔵が立っていた。おそらく一折を殴り飛ばすのに使ったであろうクボタンをかまえたまま、荒い息を吐いている。
そんな都合のいいことがあるわけがない、幻だと最初はそう思った。
「ツネ・・・大丈夫?」
英蔵の手が頬に触れ、その感触で、これが現実だということを知った。
まだ身体は床に転がったまま動かない、横目で一折を確認すると側頭部から血を流して倒れていた、呼吸はしているので死んではいないらしい。
「英蔵さん、すいませんが・・・前に言った警備部に直通しているボタン、押してきてもらえますか?」
「えっ!?あ、うん」
慌ててテレビの方へ向かう英蔵を見ながら、恒人は呼吸を整える。
使うのは初めてだったのでどうなるか本当のところ分からなかったのだが、下に詰めている警備部の人間が2人、1分もしないうちに飛んできた。状況説明は後にするからととりあえず一折だけ捕まえてもらい、医者を呼ぶと言われたのは断って、ばたばたした数分ほど。
まだ身体が上手く動かないので床に転がったまま、隣でへたりこんでいる英蔵を見た。
「えっと、助けてくれてありがとうございます」
「ありがとうございますじゃないよ、なにこの状況で冷静に対応してるんだよ・・・」
「ん〜、性格ですかね?」
泣きそうな顔でのぞき込んでくる英蔵にそう返せばため息をつかれた。
「ホントに大丈夫?痛くない?」
「・・・大丈夫ですよ」
ゆっくり身体を起こすがふらついてしまい英蔵に抱きとめられる形になった。その瞬間、鼻の奥がつんとして視界が歪んだ。
「・・・なんか目の前よく見えないんですけど」
「え!?・・・ってツネ・・・オマエそれは・・・泣いてるからだろ」
恒人の顔を確認した英蔵がそう言って頭を撫でる。
「怖かったんだろ、そりゃ。もしくはほっとしたからとか・・・」
ぽろぽろと零れてくる涙を手で拭いながら恒人は困惑した声を上げる。
「え?なんかこれ、止まらないんですけど・・・」
「そりゃ泣いてるから・・・って、まさか、泣くの初めて!?」
「これ、どうやったら止まるんですか?前、英蔵さん泣いた時どうやって止めてました?あの時俺、途中で寝ちゃって覚えてないんですけどっ・・・!」
頭を引き寄せられて肩に顔を埋める形になった恒人の頭を撫でながら英蔵は言う。
「泣くだけ泣けば勝手に止まるから、泣けよ、思いっきり」
英蔵はしばらくそうして、肩に顔を埋めて泣く恒人の頭をなでつづけた。時折震える細い肩を優しく叩きながら。窓の外では雪がちらついていた。
「・・・英蔵さんはどうして此処に来たんですか?」
「ん?いや、ほら・・・まだ鍵返してなかったじゃん・・・」
「そーいうことではなくて、ですね」
分かっている、照れくさかったので誤魔化せないかと思っただけだ。
「るいちゃんに怒られた。んで改めて考えてやっぱツネを放っておけなくてさ、会いたくて、もう一度ちゃんと話したいから・・・来ました」
「・・・そうですか」
そこで今更ながら英蔵はあることを思いだして、聞いてみる。
「そういえば人に触られるのイヤなんじゃなかったっけ?」
「・・・慣れていないだけです。それに一つ発見しました。こうされていると、とてもあたたかくて落ちつきます」
放たれた言葉を噛み締めること数秒、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「あの・・・ツネヒトクン?その発言はちょっと・・・」
英蔵の動揺っぷりを不審に思ったのか、恒人は肩から顔を離して視線を合わせてくる。まだ涙で濡れた赤い目で不思議そうに見つめてくる。
「え・・・っと、何かダメなこと言いましたか?」
「いや、ダメではないのよ、ダメでは・・・でもびっくりしちゃう、かな」
「ん・・・?分かりました、気をつけます」
「それで、あの・・・改めてなんだけど、ツネが一折の手伝いをしていて、悪いことに手を貸していたとしても・・・それはツネが此処を出ちゃいけない理由にも、幸せになっちゃいけない理由にもならないと思うんだ、確かに俺とツネじゃ住む世界は違うかもしれない、どっかで俺も巻き込まれるかもしれない、でも俺が、俺自身が選択して、覚悟した上でツネとは一緒にいたいと思うから・・・もう一度言うね、俺と・・・友達になってくれない?一緒に遊んで、悩みがあるなら相談して、楽しいことがあったら報告して、なんでもないことも喋って、そういうのでいいから、友達・・・」
あの時、ミヤが言ったことは逆だったのだ。「覚悟がないなら離れろ」と言ったのは「覚悟を決めろ」という意味だったのだ。料亭で大城との話に割り込んで来た時、ミスリード役としては適切な浅葱が《キング》であることを否定し、涙沙が《キング》であるヒントを与えたのと同じ。
分かり難いにもほどがある。言葉をの裏を読むのが苦手な英蔵には難しすぎるアドバイスだ。
でも、それに気づいて最後の糸が吹っ切れた、だから此処へ来た。
恒人の澄んだ瞳が目の前にある。
人生において友達になりたいと思った相手に「友達になろう」だなんて言ったことはない、そんなことはなくても自然になっていくものだ。
でも、この手順を踏まなければ恒人に意味は伝わるまい。薫にあれだけ言われても気づかなかったのだ。面と向かって言うと、下手をすれば愛の告白よりもずっと恥ずかしい台詞の返事を待つ。
「俺が《はい》って答えたら・・・俺ら友達になるんですか?」
本来はこんな手順自体踏まないものだということも教えなくてはいけないだろうなと思いつつ英蔵は苦笑を浮かべながら頷く。
「・・・じゃあ、はい。友達になりましょう」
「ありがとう」
そして今度は本当の笑顔を浮かべ合った。
「・・・雪、降ってますね」
窓の外に視線を移した恒人がそう呟いた。雪の乱舞は先程より激しくなっていて、黒い世界に清らかな色を与えていた。
「ホワイトクリスマスだね」
「今日はクリスマスでしたか、なんか俺のせいでまた変なクリスマスになっちゃったんじゃないですか?」
「いや、人生最高のクリスマスだよ」
「・・・たぶん、俺もです」
「やっぱり外に出てみるものだね。あきらめなきゃいいこともあるんだ」
「みたいですね・・・メリー・クリスマスと言えばいいんでしたっけ?」
「うん、まぁ一般的には、メリー・クリスマス、だね」
「・・・すいません、英蔵さん。人生初の《メリー・クリスマス》をめっちゃ軽く言ってしまったことがなんとなく悔しいんですが、どうしたらいいですか?」
人生初だったのかということ、今まで悔しいだなんて言ったことはないのにということに笑いながら英蔵は言う。
「じゃあノーカウントで、言い直したら?」
「そんなんでいいんですか!?じゃあ改めてメリー・クリスマス!!」
思った以上の大声で言う恒人に英蔵は驚いてそれから笑いながら言った。
「メリー・クソス・・・あ、噛んじゃったっ!」
「クソって!!」
恒人も声を上げて笑い出したが、すぐに顔をしかめて止まってしまった。
「どうした!?」
「いや、さっき殴られた時に口の中切れてたみたいでめっちゃ痛いです・・・」
「怪我大丈夫じゃないじゃん!?」
「だって、今気づいたんですもん!」
「殴られたって時点で冷やさないと腫れるだろ〜!冷やす物持ってくるよ、念のため聞くけど、後なにされたの?」
「ん、スタンガンでバチバチっと・・・」
「・・・っ医者呼ぶ!今すぐ医者呼ぶ!全然大丈夫じゃねぇし、それ!つーかそこ見せて、痕残ってたらどうすんの!?」
「え〜、大丈夫ですよ〜」
「こーいう時は大丈夫かどうか自分で勝手に決めないのっ!あ〜もうっ!」
恒人の肩を掴んでため息をつく英蔵のあまりに情けない顔に、恒人がまた笑ってしまい、結局、英蔵もつられて笑った。
柔らかな日差しに目を細めて、英蔵は少し前までイルミネーションが施されていた木々を見上げた、もう少しすれば桜の季節だ。この並木道も薄紅色に染められるだろう。
先月買った愛車(といっても友人から破格で譲り受けたもの)にもたれて、道の方へ視線を移す。
まだ待ち合わせ時間を1分すぎただけだが妙に心配になって身を乗り出して確認すると、その姿が見えた。向こうも英蔵に気づいたようで軽く手を振って小走りでやってくる。
「ちゃんと一人で来れたでしょう?」
小さくジャンプするように英蔵の前で停止して、恒人は得意げに笑う。
「えらいね〜ツネは」
「心がこもってないですねぇ、まぁいいですけれど」
相変わらず、雑誌を見てそのまま着たようなファッションながらそれでも妙に格好いい。
「ようやく一段落ってとこですよ。これ以上ないぐらいの大騒ぎでした。兄貴も忙しかったからあまり連絡つかなかったでしょう?」
「るいちゃんとは一回電話で話しただけ、浅葱さんともその時・・・いやあ、まさか浅葱さんがるいちゃんの秘書になるとは思わなかったよ・・・あれが一番驚いた」
「そもそもパーティで浅葱さんをあの計画の人材に選んだのは兄貴でしたからね。こっちもびっくりですよ、予想以上に有能な方でしたから、本当は4月末まで暇ができるわけなかったんですけど、浅葱さんのおかげでこんな早くことが片付きました。俺の負担が半分は減りましたよ。なんであれだけの方があの時点でどこにも属してなかったのか疑問です」
車に乗り込みながらそんな会話を交わした。もちろん運転席に英蔵で、助手席に恒人。車を発進させ、大通りに出たところで英蔵は会話を再開させる。
「んで、ツネは本当にもう・・・自由の身なの?」
「完璧にじゃあないですよ。まさか捌限(はちきり)と縁を切るわけにもいかないし、多少はそっちの仕事も。でも兄貴の働きかけのおかげで制限はなくなった、いえ・・・権利は得ましたね。イヤなことは断る権利、まぁそれだって100%とはいかないんでしょうけれど・・・」
「そっか、でもよかった・・・」
「兄貴は一度やると言ったことはなにがなんでも実行する人なんで、上に立ってくれて頼もしいですよ。英蔵さんも大城さんも元気でしたか?」
「うん。ちょー元気。有り余ってるぐらい」
「よかったです。暇ができたら5人で集まりましょうか・・・」
「そうしよ。大城さんもみんなに会いたがってるし」
「で、英蔵さん。俺の数ヶ月ぶりの1日休みにわざわざ呼び出した理由を聞いてもいいですか?」
「ん〜。車買ったからドライブつきあってもらおっかな〜と思ってさ」
「ドライヴなのは聞いてます。遠目で見てあまりに見事なヤン車なので近づくの躊躇しましたよ」
「・・・返す言葉もないっす!あ、運転は自信あるから大丈夫だよ。それでまぁ、ドライブですよ!」
「は、あ・・・で何処へ行くんですか?」
「ドライブといったら・・・海でしょう」
「つまり・・・俺が海を見たことがないと言っていたので連れていってやると思って誘ったはいいけれど、どういう物言いにしたら恥ずかしくないか熟慮した結果が《ドライヴに行こう》という台詞だったわけですか」
「ツネ・・・なんか、電話で話した時も思ったけど、だんだん会話のセンスがすごいことになってきてるよね?」
「ダメですか?」
「いや、楽しいよ〜」
前を向いたまま笑う英蔵に恒人も笑う。
「すっげー楽しみです、海・・・」
「あの頃はさ、全然ツネから希望出してくれなかったから俺がいいかな〜って思う所に行ってただけだけど、これらからツネも行きたいとこあったら言ってよ。行ける範囲なら連れて行くから、さ・・・」
「行きたい所、そうですね・・・考えてみます」
バックミラー越しに並木道が遠ざかる。人生最悪のクリスマス・イヴを迎えた場所で春になったら花見でもしよう、できれば5人で、辛い思いでも癒される、変えていける、他でもなく自分の手で、幸せは掴み取れる、大切な人を救うことだってできる。
この両足で何処にだって行くことはできるのだ。
- 6 -
*前次#
ページ: