「お、お前ら勉強してんの?」

そういって部屋を覗いてきたのは俺の姉である。すると、西谷と縁下が持っていた鉛筆を置いて「お邪魔してます」と声を揃えた。

「おぉ頑張ってるね」

姉は笑う。歯を見せて笑う姉の笑顔は豪快だ。そして、その姉とは対照的に穏やかに笑みを浮かべるのがナマエさんであった。パンクにきめている姉とは違いナマエさんはワンピースやスカートがよく似合う。そんなナマエさんを姉はよくうちに連れて来る。一見正反対に見えるこの2人がどうして仲がいいのか不思議でならなかった。そして今日も、その人は柔らかな笑顔を浮かべて姉の横にいた。その笑顔を見るとどうしてかいつも背筋が伸びる。

「ナマエさん、ちわっす」

俺がそう言うと、ナマエさんは「今日も元気だね」といって手を振ってくれた。その一つ一つの所作は優雅で輝いてみえた。自分以外の男衆2人もその姿に見入っているようである。

「じゃ、うちらは向こうで話すから」

そういって姉とナマエさんは去って言った。

「今日もナマエさん麗しいな」

西谷が興奮気味にいう。それは大いに賛成である。どこにも否定する要素はない。すると、縁下が「はい、勉強に戻るぞ」と追い立てるように手を叩いた。そんな縁下にも満更でも無さげな表情を浮かべさせるのだからナマエさんは流石だ。

その夜、風呂上がりにアイスを食べようと台所へ降りると姉が頭を掻きむしりながら携帯片手に何やら一生懸命紙に書いているようだった。

「そんな唸って何書いてんだよ」
「友人代表スピーチ」

姉はげっそりとした顔で言う。そして、また唸りながら頭を掻きむしった。相当手を焼いているようである。とはいえ他人事なので大変だなと言いながら冷凍庫からアイスを取り出す。すると姉がポツリと呟くようにいった。

「ナマエ、結婚すんだよ」
「え……」

開いた口が閉まらなかった。

「アイス落としてんぞ」
「いやいやいや、今なんと……」
「だからナマエ結婚すんだよ」
「ナマエさん、姉ちゃんと同じ大学生だろ」
「大学やめるんだとさ」

なんでも、付き合っていた社会人の彼氏が仕事でアメリカに行くことになったらしく、ナマエさんに相当惚れ込んでいたその男は一生面倒見るからとナマエさんを拝み倒したらしい。最初は姉も含め周囲は反対したが、実際その男に会うとなんともしっかりとしたいい男なんだそうで、いつの間にか皆賛成側に回り終いにはナマエさんの背中を押すほどだったとか。

「そんな清く美しいナマエさんが信じられん」

アイスを拾い、鼻息荒く言うと、姉が口を大きく開けて笑った。

「なーにいってんの。ナマエは私のダチだよ」

姉はそう言って持っていた鉛筆を器用にくるくる回す。そしてまた、呟くように言った。

「なんだかんだでぜーんぶナマエの計算通りなんだから」

その言葉にはどこか哀愁を感じさせた。

「って、こんな話してる場合じゃなかった。あー続きどうしよっ」

姉は慌てたように頭を掻きむしる。そして、ぽかんとしている俺をよそに再びスピーチの内容を考え始めたようだった。

『なんだかんだでぜーんぶナマエの計算通りなんだから』
俺はアイスを加えながら姉の話を反芻していた。姉から聞いたナマエさんはどこか知らない人のようだった。俺の中でのナマエさんはいつだって朗らかで優しくお淑やかな女性であったのだ。だから、ナマエさんの結婚には実感がわかなかった。しかし、いつまでたってももやもやとナマエさんのことが頭を離れなかった。

それから暫くナマエさんに会うことはなく日は過ぎていった。そんなある日、家の前で見知らぬ車が止まっていた。客かと思い玄関を開けると、大きな男性用の革靴とヒールのある女性らしい靴が並んでいた。その華奢な女性用の靴が姉のものでなければ母親のものでもないことはすぐにわかった。話し声の聞こえる部屋を覗くと姉から「お、龍おかえり」と話しかけられ部屋にいる全員から視線を向けられる。そこには、姉と向き合って座るナマエさんと、そのナマエさんの横には見知らぬ男がいた。ナマエさんの婚約者だ!直感した。

「あ、龍くんおかえり」

ナマエさんがいつもの穏やかな笑顔でこちらに向かって手を振る。いつもはきらきらに眩しかったその動作が、胸をぎゅっと締め付けた。そして、次の言葉が俺にとどめを刺した。

「最後に龍くんにも会えてよかったー」
「え……最後って」
「もうここを離れるから、挨拶によったところだったの」
「そう、だったんですか。お元気で」
「ありがとう」

そういったナマエさんは、とても幸せそうだった。

「じゃあ、俺自分の部屋行くんで」

俺はそういって、その場から逃げるかのように自分の部屋へと向かった。

部屋にいても、姉やナマエさんの声が聞こえてきた。時折男の笑い声が聞こえる。ナマエさんより少し大人で落ち着いた雰囲気の男だった。ナマエさんの結婚がいよいよ現実味を帯びてくる。何もやる気にならなかった。ただ、寝そべって天井の木目を眺めていた。

*

「おい、龍。ナマエかえんぞー」

玄関の方から姉の声がする。ゆっくりと重い体を起こすと、「龍ー」ともう一度姉から声がかかった。へいへいと呟きながら、重たい足取りで玄関に向かう。玄関では、靴を履いたナマエさんが待っていてくれたようだった。

「じゃあ、元気でね」

ナマエさんが笑う。その笑顔が好きだった。憧れだった。

「その……えっと」

うまく口が動かない。お幸せにと、口の手前まで出かかっているのに言葉に出せなかった。すると、ナマエさんがぐっと俺に顔を寄せる。

「な、な、な、なんですかっ」

慌てていると、ナマエさんにぴんと指で額を弾かれた。

「いてっ」

額を手で抑えながらナマエさんをみると、ナマエさんがにっと、歯を出しながら笑う。

「頑張れ、バレー少年!」

その笑顔は、まるでいたずら好きの子供が見せるそれだった。

「あ、あざっす!」

俺がそう言うと、ナマエさんの笑顔はいつもの穏やかなものに戻った。そしてナマエさんは姉と少し言葉を交わした後、愛する人が待つ車へと向かった。

俺と姉はナマエさんたちが乗った車を見えなくなるまで見送った。

「げっ、龍泣いてんの?」

姉が言う。俺はナマエさんが最後に見せた笑顔を思い出していた。初めてみる表情だった。もしかしたらそれが本当のナマエさんの笑顔なのではないのだろうか。

くっそー。ナマエさんにそんな魅力もあったなんて。

「ナマエさん!お幸せになってください!」

姉にバシンと背中を叩かれた。