※悲恋※
 高校に入ってからだろうか。私は、”及川徹”という存在の幼馴染であることが苦痛で仕方がなかった。
 及川は、昔からずっと変わらず無邪気に、私をナマエと呼ぶ。その度に、刺さるような視線が周囲から投げかれられるのが分かった。
 嫌がらせは日常的にあったし、体育館裏に呼び出された数は、あげたらきりがない。はじめは気にしない様にしていたけれど、結局耐えられず、私は及川と距離を取るようになった。
 なるべく目立たない様に、下を向いて、顔を隠すように前髪を伸ばし、目が悪いわけでもないのに、伊達の眼鏡なんかかけちゃったりして。
 眼鏡をかけたときから、枠のついた世界は、ひどく狭かった。
 そして、目があえば、ぱっと顔を明るくする及川に、気付かないふりをして下を向きながら早足にその場を去った。
 そうするうちに、嫌がらせは次第になくなっていった。

 その日も、廊下で前から及川が歩いてくるのを見て、私はいつものように反射的に視線を落とした。
 人通りのない廊下。教室を移動するときに、私が好んで通るその廊下はとても静かで、人とすれ違うことはほんとどない。それなのにどうして及川がと思いながら、近づいてくる足音に、体が強張る。
 そうして、すれ違った瞬間。
 プラスチックのレンズ越しに見えていた景色から、枠が取り払われた。

「え?ちょっ……」

 驚き振り返れば、私の眼鏡を手にした及川が私を見下ろしていた。

「か、返して」

 困惑したまま発した声は、情けないくらいに震えていた。思えば及川と言葉を交わすのは久しぶりだ。

「どうせ、伊達眼鏡なんでしょ」

 そういって、及川はその眼鏡をかけてプラスチック越しに私を見つめる。「ほらやっぱりね」と及川が薄く笑った。
 私は眼鏡を取り返そうと手を伸ばす。
 すると及川は素早く眼鏡を取り、高く持ち上げた。どんなに手を伸ばしても、例え、背伸びをしても及川が持ち上げた先に届くはずがなく。

「返してよ」

 睨み上げると、及川が「嫌だよ」と笑う。
 そうやって人を小ばかにする笑い方は、昔とちっとも変らない。
 私は、小さく溜息を吐く。別に安物だし、返してもらえないのなら無理に返してもらわなくていい、そう思った刹那、及川が私の前髪にそっと触れた。体がびくりと震える。

「前から思ってたんだけど、なんでこんなに前髪伸ばしてるの?顔隠れちゃってるじゃん」

 そしてそのまま、私の前髪を掻き揚げた。

「ほら、こうした方が可愛い」

 さっきとは打って変わって及川の穏やかな表情に私は思わず後ずさる。及川の手にかかっていた前髪はぱらりと顔に落ちた。

「ま、いっか」

 胸が、じんじんと痛みだす。及川は笑顔を崩さない。

「眼鏡さ、昔みたいに徹ちゃん大好きって言ってくれたら返してあげるよ」

 そういって笑う彼は、全てが自分の思い通りになると思っているのだろうか。

「ほら、言ってごらん。ナマエ」

 自信に満ちた及川の優しい笑顔。自分が意地悪を言っていると知っているのに彼は綺麗に笑う。
 目頭がじわりと熱くなるのを感じて俯く。

「やめてよ」

 呟くように言葉を発したら、せきを切ったようにどんどんと溢れ出た。

「私は、徹と関わりたくないの!」

 ――嘘だ。

「話しかけないでよ」

 本当は、嬉しかった。名前で呼んでくれることが。目があった瞬間、ぱっと顔を明るくして片手をあげてもらえることが。
 そして、願っていた。

「徹なんか……」

 再び、あの頃の様に、言葉を交わせる日を。

「徹なんか大嫌いなんだから!」

 私は言い終えてはっとする。

「……知ってる」

 そう言った徹の声は、悲しいくらいに穏やかで。恐る恐る顔を上げると、徹は辛そうに笑った。
 両手で眼鏡をそっと私の耳に戻す。

「全部、知っていたよ、ナマエ」

 そういって徹は、私の耳に触れていた手で私の頬をなぞり、私の肩を優しく抱きよせた。

「今までごめんね。ナマエ……」

 そして、離れた。
 きっと、徹が私の名を呼ぶのはこれが最後だ。
 徹はそのまま踵を返して去っていく。
 私は口を開くが言葉がでてこない。
 背中がどんどん遠くなっていく。
 たまらずしゃがみ込むと、ぼやけた視界で、大粒の涙がぽたぽたと廊下に落ちるのが見えた。