翔ちゃんがブラジルに行くと言った。二年で帰るというが、二年という月日は長いし、翔ちゃんのことだから本当に帰ってくるかどうかも怪しい。それに、帰ってきたとしてもその足でまたどこかに行ってしまうのではないかという不安があった。私はきっとバレーに一途でがむしゃらな翔ちゃんが嫌いだった。そして、そんな自分がもっともっと嫌いだった。だから、翔ちゃんから離れた。出口の見えない迷路を彷徨うのは限界だった。もう翔ちゃんといたあの頃の様に心を大きく揺さぶられることはないけれど、まどろみの中にいる様な今は今で心地がいい。私は全てを捨てた気で地元を離れ、大学生活を満喫していた。



“日向の飛行機の時間分かったよ”
 仁花ちゃんから私たちの代宛に連絡が来た。皆で迎えに行こうというのだ。日向というその人の名を目にした瞬間心がざわめき立つ。私は、何も知らされていない。黒い染みの様なものが広がりかけて慌ててかき消した。もう大切なものを汚すのはうんざりだ。月島くんは行かないらしい。私も断りの連絡を入れた。
 それから数日後、翔ちゃんから連絡が来た。心が震えて、涙が込み上げてきて、自分は何をやってるんだと自嘲する。意を決してその新着の知らせをタップした。
“近いうちに会えないかな?”
 続け様に”渡したい物があるから”と来た。月島くんのお土産Tシャツの写真が出回ったのを思い出す。あぁ、お土産かと思い、”休日のお昼なら大丈夫だよ”と返した。そうだ、翔ちゃんが私に会いたいなんて、ただの思い上がりだ。ただ、夜に会って私が変な気になるのが嫌でお昼という時間を設定した。さっと行ってさっと帰ってこよう。会う約束は翔ちゃんがこっちに来られる月末の土曜日13時となった。



 久しぶりに見た翔ちゃんは相変わらずだけど、少したくましく見えた。
「ナマエ、久しぶり!」
 待ち合わせ場所に来た黒焦げに焼けた翔ちゃんはそう言って片手を上げる。腕あんなに太かったっけと思いながら、私も軽く手を振った。会う前はガチガチに緊張していたのに、あまりに翔ちゃんが自然体だから私の強張りも解けていく。翔ちゃんに笑いかけられると笑みまで零れた。私が「そこの喫茶店でいい?」と指差すと、翔ちゃんは「おう」と言って喫茶店へ歩みを進める。背中も少し大きくなった気がするなんて考えながら、その背中についていった。



「これお土産」
 飲み物を買って、席に着くと早速翔ちゃんがテーブルに包みを出す。ブラジルのお茶らしかった。
「これすげーうまい」
「ありがとう」
 そう言ってそれを受け取り鞄にしまうと、翔ちゃんが「ちゃんと帰ってきただろ」とまるで子どもをあやす様に笑った。心臓がどきりとなる。あの日の記憶が蘇った。
『翔ちゃんに私の不安なんてわからないよ!』
 泣きながら言ったあの言葉を翔ちゃんは覚えていたのだろうか。
 顔に笑顔を貼り付け、答えた。そうだね、と。
 でも、またすぐにどっか行っちゃうんでしょと言いかけてそれは飲み込んだ。私にはもうそれを言う資格はない。
「あと、チームへの所属が決まった」
「え、すごい」
「木兎さんとか侑さんがいるチーム」
「えーすごい」
「これで、安心した?」
 翔ちゃんがまた優しく微笑む。
 翔ちゃんは一体何のことを言っているのだろうか。鼓動がうるさくなっていく。店内のざわめきが、消えていく。
「これから先どーなるかわかんねーけどさ」
 やめて。その先は聞きたくない。
「俺ナマエを守れる様に頑張るよ。だからまた――」
「ごめん」
 私は俯き、テーブルに置いていた手に拳を握った。
 翔ちゃんといた頃は、沢山嬉しいことがあったし、沢山楽しいことがあった。でもその分辛い時はまるで辻褄合わせのように酷く胸を抉られた。苦しかった。もう、あんな思いはしたくなかった。
「じゃあ……何で泣くんだよ。おかしいだろ……」
 そう言われて、頬に涙が伝っていることに気づく。
 確かにどうして涙が溢れるのだろう。ぽたぽたと落ちていくそれはテーブルに不規則な水玉模様を描いていく。
「俺のこと嫌なら嫌って、ちゃんとそう言ってくれよ。でないと俺、ナマエのこと諦めらんねーよ」
 弱々しく言う翔ちゃんの言葉が胸に突き刺さった。そこからじわじわとまるで果実が傷んでいく様に痛みが広がる。辛い。苦しい。
 私が嫌だと言えば、それはもう終わるのだろうか。
 視線を机に落としたまま口を開く。
「私は翔ちゃんのこと――」
 顔を上げると、悲しげに笑う翔ちゃんと目が合った。
「翔ちゃんの、こと……」
 続きを言おうとして、息が詰まる。口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返している内に更に涙がぼろぼろと溢れ、嗚咽が混じった。
 翔ちゃんのこと、嫌い。だなんて、そんなこと、嘘でも言える筈がない。
 唇を噛み再び俯くと、翔ちゃんが私の拳にそっと手を重ねた。体がびくりと震える。昔より少し大きくなった翔ちゃんの手。包み込む様に私の手を握る。
「俺はナマエが好き。世界で一番ナマエが好き」
 翔ちゃんの言葉は静かで力強い。だけど、顔を上げれば翔ちゃんは、泣きそうな顔をして笑い
「だからまた……だからまた、そばにいてくれよ」
 祈る様にそう言った。
 翔ちゃんと過ごした日々が巡る。それはまるで金平糖のようにカラフルでとげとげした記憶。口の中に入れると優しい味が広がり、少しだけ苦味を残して消えていく。そんな、淡い思い出。
「ごめん」
 私はそう言って翔ちゃんの手を払い立ち上がる。そして、もう一度「ごめんね」と微笑み、涙を拭いて喫茶店を出た。