「こういう大人になったらだめだよ」
 その人は涙で瞳を濡らしそう言った。それはどういう大人を指すのだろうか。惨めに涙を零すその人のことか。それともその人にそんな顔をさせた男のことだろうか。
 いや、きっと言葉そのものに意味はない。
 その人は人目も拒まずぼろぼろと泣いているくせに、大人という言葉を使って高校生の俺と線を引きたいだけだ。ずるい大人だと思う。それこそこういう大人になってはいけないと言ってやりたい。俺が、どうしてあんたに声をかけたか、知っているくせに。





「あれ、ナマエさんじゃないですか」
 そう声をかけると「二口くん」と持っていた携帯から顔を上げたその人は、一瞬驚いたような顔をした後優しく微笑んだ。
「久しぶり、どうしたの?」
「俺も待ち合わせですよ」
 というのはこの場に留まりたいがゆえについた嘘である。


 休日のこの日、俺は新しいサポーターを買うため馴染みのスポーツ用品店へと向かっていた。
 ナマエさんを見かけたのは、その行きしなに立ち寄った駅前である。駅は平日とはまた違った混雑をしていた。人自体は平日より少ないのに、家族連れやカップル、友達などの絡み合ったラインのせいで歩きづらい。ひときわ目立つモニュメントの周りは待ち合わせの人たちでいっぱいだ。そこから少し離れたところで携帯を握っていたのが、昨年度卒業したナマエさんであった。
 ナマエさんとの接点をまるっきり持たない俺は話しかけずにはいられなかった。これを逃せば次いつ会えるかなんてわかったものではない。


「ほんと久しぶりっすよね」
「そうだね。キャプテンになったって聞いたよ。どう?」
「ほんっと大変っす」
 俺がそういって笑うと「そうなんだ」とナマエさんも笑った。
 ナマエさんは笑う時口元に手をやる癖がある。その度に、その指にはめられた指輪が光る。俺は、その指輪が嫌いだった。
「まだ、付き合ってるんすね」
 俺は指輪に視線をやる。それに気づいたナマエさんは
「あぁ、うん。そうだよ。今日もこれから出かけるところなの」
 と嬉しそうに微笑んだ。俺もちゃんと、笑えているだろうか。
 その時である。ナマエさんの携帯が震えた。「ちょっとごめんね」と言って顔を明るくし携帯を覗き込むこの人を見てはいけない気がして視線を逸らす。しばらくして、小さなため息が聞こえた。
「私、行くね」
 そう言うナマエさんは確かに笑っていた。
「お疲れ様です」
 俺がそう言うと、ナマエさんは背を向け早足にこの場を去ろうとする。
 少し気になった。「行くね」と言った声色とか、強張った笑顔とか。この駅がナマエさんの最寄りであるにもかかわらず、駅を離れようとするところとか。今から出かけるところではなかったのだろうか。気のせいならそれでいい。
「ナマエさん、ちょっと待ってください」
 俺はナマエさんの腕を掴む。
 なんだよその顔――振り返ったナマエさんは慌てて目をこすった。そんな乱暴にこすって痛くはないのだろうか。
「なんで、泣いてんすか」


 人ごみのざわめきが、どこか遠くに感じた。目の前には、ずっと好きだった人が、瞳に涙を溜めて、立っている。なんとなく、状況を察することができた。「なんで、泣いてんすか」という問いかけに、その人は、「何のこと?」ととぼけて笑う。そのくせ、きつく結んだ唇は震えていて、「いや、ばればれなんですけど」というと、「そっかなぁ」とへらりと笑ってみせた。
 ナマエさんの腕を掴む手に力がこもる。じっとナマエさんを見ていると、ナマエさんは再び困ったように笑い、視線を逸らす。
 「ナマエさん」
 確かめる様にその名を呼んだ。ナマエさんの身体がびくりと震える。そして、だんだんとその笑顔は崩れていき、まるで宝石を落とすかのように大粒の涙が零れた。
 ナマエさんは「ごめんね」と言って、頬をこする。しかし、涙は次々とあふれ落ちた。
「だめだね。人前で恥ずかしいよね」
 そして、ナマエさんは言う。
 ”こんな大人になったらだめだよ”
 俺はその言葉に思わずナマエさんを掴んでいた手を下ろした。大人って何だよ。その言い方はあまりにずるくはないだろうか。
 ナマエさんは俯き涙を拭う。その度に指にはめられた指輪がキラキラと光を反射させた。
 俺はその指輪が嫌いだった。まるで幸福を象徴するようなその指輪が。白い無垢な輝きを放ち彼女を縛るその指輪が。俺は、嫌いだった。あぁ、そうだ。あぁそうだった、と俺は思う。どうして今その手を放す必要があるのだ。この人に線をひかれるなんてそんなことはもう、今更じゃないか――
 思わず溜息が零れる。するとナマエさんは何を勘違いしてか無理やり笑顔を作ろうとするものだから。
「ナマエさん、この後どうせ予定ないんでしょ。俺の待ち合わせっていうのも嘘なんですよ」
 俺は服の袖を伸ばし、ナマエさんの頬へあてる。涙が吸い寄せられるように袖に染みていった。
「え? 何?」と困惑するナマエさんの頬を、「なかなか止まんねーな」と袖で抑える。
「どうすりゃ止まんだよ……」
 呟くと、
「ねぇ、ちょっと……ねぇってば!」
 ナマエさんが語気を強めた。俺は手を止める。
「なんすか?」
「何って……二口くんこそ――」
「あ、」
 と遮る。
「やっと涙止まりましたね」
 ナマエさんはぽかんとこちらを見た。
「じゃ遊びに行きましょ。たまには子供と息抜きしたらいいじゃないっすか」
 俺はそう言って再びナマエさんの腕をとる。
「えっと、二口くん……?」
「どこ行きたいっすか?」
「えー……どこって……」
 ナマエさんは困ったように笑った。けれど、それは先ほどのような辛く悲しいものではなく。
 まぁ、いいか。どこでも。この人が笑ってくれるのであれば――と、俺は思いながらナマエさんの腕をひいて、慣れない休日の人ごみの中へと入っていった。