HRが終わり、教室は帰宅しようとする生徒でざわざわと騒がしくなる。帰り支度を済ませていた角名は、自分の席の斜め前方、ナマエの席へと歩み、丁度立ち上がろうとしていた背中に「ミョウジさん」と声をかけた。ナマエが振り返ると、角名は抑揚のない声で言う。

「一緒に帰ろ」

 テスト期間。それは、例外なく全ての部活が停止する期間。稲荷崎高校では年の暮、今年最後のテスト期間に突入していた。

「え……? 角名くん寮じゃなかったっけ? 私反対方向だよ?」
「知ってる。徒歩でしょ?」
「そうだけど……」
「送ってく」
「流石に悪いよ」

 ナマエが困ったように笑う。

「別にいいよ、普段出来ないし。こういう時くらいいいじゃん」

 単調な話し方とは裏腹に、角名の切長の目が優しく細められる。ナマエは僅かに視線を落とし「じゃあ」と微笑んだ。



 門を出て、ナマエが「こっち」と示した先は、角名がいつも使っているバス停がある方とは逆方面だ。角名はコクリと頷きナマエの横に並んだ。バスを利用する生徒が多いせいか、この道を通る学生はまばらだった。広めの歩道を端により2人で並んで歩く。猫背がちな角名はナマエの歩くスピードに合わせ、長い足をゆっくり動かした。

「ミョウジさん、テストどうだった?」

 角名はナマエの方をチラリと見る。ナマエも角名を見上げ、苦笑しながら「英語がやばいかも」と前に向き直った。

「今回範囲広いもんね」
「角名くんは?」
「俺もそんな感じ」

 そうやって話す二人の間で振られる手と手は少し伸ばせば触れられそうだった。
 ナマエははぁと長い息を吐き、霞んだ空を見上げ「早く冬休み来ないかなぁ」と漏らす。

「なんか予定あるの?」

 「特には」とナマエが苦笑した。

「角名くんは実家帰るの?」
「正月だけ」
「後は部活?」
「全部じゃないけどそんな感じ」
「流石強豪校だね」

 ナマエが笑みを零した所で、「あ、ここ曲がる」と曲がり角を指刺す。住宅街へと入っていくようだった。細い道だ。ここまで来ると同じ制服を着る者はおろか通行人すら殆どいない。

「帰り大丈夫?」

 歩みを続けながらナマエが見上げて問うと、「大丈夫だよ」と角名も見下ろしうっすらと笑った。

「最悪迷っても地図アプリ使えばいいし」

 そう言ってポケットに入れたスマートフォンを取り出しナマエに見せるようにひらひらかざして、再びポケットに戻す。
 刹那、冷たい風が吹き抜ける。色あせた落ち葉が風を舞ってかさかさと音を鳴らせた。

「寒っ……」
 
 角名は肩を上げて、ぶるりと体を震わせる。ナマエも同じように肩を上げ、凍える手を温める様に胸の前で握った。角名がその様子をじっと見つめる。そして、呟く様に言った。

「……手、繋いでい?」

 ナマエは顔を上げない。

「…………ごめん」
「いいよ」

 角名は何事もなかったかのように前に向き直る。二、三歩足を進めたが、伸ばしかけた足を止め、振り返った。

「どうしたの?」

 後ろには隣にいたはずのナマエが視線を落としたまま立ち止まっていた。

「ここでいいよ」

 顔を上げたナマエは胸の前で両手を掴んだまま微笑んだ。

「なんで?」
「角名くんに悪いし」
「いいよ別に」
「でも……」

 ナマエは気まずそうに視線を逸らした。角名は首を傾げる。表情は変わらない。

「他に好きな人できた?」

 声色も変わらない。

「そういうんじゃないけど」
「じゃあ、いいよ。俺に悪いとか、そういうの」

 そう言って角名は自嘲にも似た淡い笑みを浮かべた。

「だって、俺が頼んだことじゃん」



 それはまだ、寒さが本格的になる少し前のこと。放課後、遅れて部活に向かっていた角名は、急ぐ様子もなく体育館に向かう中庭に面した渡り廊下を歩いていた。ぼんやりと眺めた先の庭で、ナマエが俯き、男と面しているのを見る。男の方は角名が一年の時のクラスメートだ。二人が付き合っていることは知人の間では有名で、角名も何度かその男の口からナマエの名を聞いたことがあった。小さなため息をつきそのまま通り過ぎようとした角名だったが、近づくにつれ露わになるナマエの表情を見て、僅かに目を見開き足を止める。

『げ、角名』

 角名に気づいた男は罰が悪そうにそう発し、ナマエに『じゃあそう言うことだから』と片手をあげ足早に去っていく。ナマエはその男を追いかけるように顔を上げるが、唇を噛み再び俯いた。そして、項垂れたままその場を後にしようとするナマエを角名が追いかけた。
 『待って』と言って、角名はナマエの腕を掴む。ナマエは立ち止まるも俯いたままだった。

『何?』
『俺と付き合お』
『……急に何言って――』
『別れたんでしょ?』

 ナマエの体がびくりと揺れる。

『向こう浮気してるって噂、あったもんね』

 ナマエは顔を上げない。

『角名くんに関け――』
『だから、俺と付き合お』
『何言ってんの?』

 ナマエは語気を強め角名を見上げる。またたくと瞳から涙が零れ落ちた。ナマエは慌てて頬を擦る。

『からかわないで』
『からかってない』
『でも……そんな……急に、無理』

 ナマエは力なく顔を背けた。その頬に残る涙を夕日が照らす。遠くで、運動部たちの練習する声が響いた。
 角名はナマエの頬にそっと手を伸ばす。ナマエの体が強張るのをみて、気弱に微笑えんだ。

『じゃあ……一緒にいるだけでいいよ』



「ミョウジさんさえ良ければ、一緒にいてよ」

 角名は再びあの日言った言葉を繰り返した。それは酷く悲しく響いた。ナマエは一度角名を見上げ、気まずそうに口を開き、何かを言おうとして止め、そして暫くした後あの時と同じように下を向いて「……いいよ」と短く答えた。

「じゃあ行こ。寒いし」

 角名が呼びかける。ナマエは視線を地面に落としたまま角名の隣へと戻った。
 再び角名はナマエの歩調に合わせ足を伸ばす。ナマエの方をチラリと見て口を開いた。

「今度一緒に勉強しよ」

 ナマエは顔を上げない。

「……いいよ」
「どこでやる?」
「静かなところがいい、かな」
「じゃあ探しとく」
「ありがと」

 二人は歩く。まるで恋人のように並んで。手と手が触れそうで、でも決して触れることのない距離で。