ごめんと言って、再び翔ちゃんから逃げたあの日から、何年経っただろうか。私は大学を卒業して社会人になりそれなりに働いていた。翔ちゃんもチームで活躍している様だった。というか、翔ちゃんは日本代表選手になっていた。テレビで見かける度に、随分と遠くに行ってしまったなと苦笑する。
 あの後も皆を交えて翔ちゃんと会うことはあった。最初はぎこちなかったが、次第に普通に話せる様になり、今ではただの友人に戻ったかの様だった。思えばどうしてあの頃あんなに傷つき苦しんでいたのか不思議だった。きっと、この恋は終わったのだ。一つの恋を終わらせるにはひどく時間がかかってしまったけれど、ようやく終わらせることができたのだと、悟った。



 ある日、仕事を終え電車で帰宅していると、スマートフォンが新着のメッセージを知らせた。何だろうと思いながらタップすると、それは翔ちゃんからの連絡だった。
“近いうちに会えないかな?”
 急にどうしたんだろうと思いながら”いいよ”と返信する。すると直ぐに既読となり“いつなら空いてる?”と。いやむしろいつなら空いてるのかはそっちでしょと思いながら”休日ならいつでも大丈夫だよ”と送る。そして、送信ボタンを押してしまってから、あ、暇な女って思われたかなと少し後悔した。するとすぐに返信が返ってきて”じゃあ今週の土曜そっち行く”、と。なんだ、翔ちゃんも案外暇なんじゃないと思わず笑みを浮かべながら”いいよ”と返した。



 約束の日の13時。私が駅前で翔ちゃんを待っていると「ナマエ、久しぶり!」と翔ちゃんに声をかけられた。
「久しぶり」
 もう、こうして顔を合わせても自然に笑える。
「そこの喫茶店でいい?」
 私が近くの喫茶店を指さすと、翔ちゃんは「おう」と言って喫茶店へと向かう。私もその隣に並んで喫茶店へと踏み出した。



 飲み物を買って席に着く。すると、翔ちゃんがぷぅっと頬を膨らませた。
「どうしたの?」
 その突然の様子に私は吹き出しそうになりながら問うと
「頑固でどうしようも無いナマエちゃんに最終通告です!」
 と言って翔ちゃんは自身の鞄に手をかける。
「俺の海外移籍が決まりました!」
 翔ちゃんは、何やら取り出して、ばんと机に片手を置く。
「俺と結婚してください!」
「…………え、あ……えぇっ!?」
 翔ちゃんが机に置いた手の下には一枚の紙が見えた。
「返事は保留もありだけど、その場合はなるべく早く決めてくれ!」
 そう言って、翔ちゃんは再び頬を膨らまし腕を組む。暫しの沈黙が訪れた後、私は思わず笑ってしまった。
「いや、それ、そう言う顔して言うことじゃないから」
「だってナマエは頑固でどうしようもないから……俺なりに一生懸命考えたんだよ」
 翔ちゃんが拗ねた様子で言う。紙の正体は言わずもがな婚姻届だった。こんなのあの日向選手が取りにいって、ちょっとした騒ぎにならなかったのだろうかと心配になりながらそれを見つめる。夫の欄は既に記入済みだった。翔ちゃんはこれをどんな顔をして書いたのだろう。
「翔ちゃん、これだけだと市役所に受け付けてもらえないの知ってる?」
「え、そうなのか?」
「なんか一緒に戸籍が書かれた書類もいるんだって。友達が言ってた」
「え、そうなのか?」
 組んだ手を緩め慌てる翔ちゃんに再び頬が緩む。
「なんだよ、別に今日出そうって言ってるわけじゃ無いんだし、いいから笑ってないで早く返事聞かせてくれよ」
 翔ちゃんは唇を尖らせた。
 返事、か……と心の中で反復する。私の心は不思議なくらい穏やかだった。嬉しいとか、感極まるとかこう言う場面でよく出てくるようなそう言うものではなくて、この気持ちは何なのだろうか。
「そうだね……翔ちゃんは、ほんと……変わらないね……」
 そう呟くと
「…………だって、約束しただろ?」
「約束?」
 瞬間、弾かれたようにあの日の記憶が蘇る。
『翔ちゃんに私の不安なんてわからないよ!』
 私が泣いてそう言ったあの日。翔ちゃんも泣きながら私に言った。
『確かに俺にはナマエの不安はわかんねーけど!』
 それは、もう忘れてしまっていたあの日の約束――――
『じゃあ何回でも言う! 何回でも言うよ! 俺はナマエが好き! 世界で一番ナマエが好き! たとえ遠く離れても、一緒に居られなくなっても、絶対迎えに行くから! そしてまた何度でも言うから!』
 目の前が霞む。またたくとたまらず涙が零れ落ちた。
「俺はナマエが好き。世界で一番ナマエが好き」
 翔ちゃんが確かめる様に、噛み締める様に言う。そして、
「だから俺と結婚してくれ」
 そう言って顔をくしゃくしゃにして笑った。
 私は震える唇を噛んで。俯いて。口を開いて長く息を吐く。そして、顔を上げて。その人の太陽の様な笑顔を捉えて。
「私も翔ちゃんが好き。世界で一番、翔ちゃんが好き」