仕事が終わり、ビジネスマンが往来する帰路についたところでふぅと一息つきスマートフォンを覗く。時刻の下には若利くんからの着信履歴が表示されていた。どうしたんだろうと思い、邪魔にならないよう道の端に寄って電話をかけ直す。丁度、都会の星の見えない夜空を見上げた所で「はい」と若利くんが出た。
「電話あったけどどうしたの?」
「あぁ。すまない」
 そう言った若利くんはいつもの若利くんで、とりあえず緊急事態ではないのだと理解する。ほっと一息着くと、若利くんは普段と同じ低い声で静かに続けた。
「会って話したいことがある」
 これはまさかプロポーズ!? なんて一瞬は頭に過ったが、そういう話じゃないことは今までの経験上分かっている。あの若利くんだ。それは悪い意味じゃなくて、いつだって何に対しても真剣なのが若利くんなのだ。要件は検討つかなかったがその日になれば分かることなのであえて聞かなかった。彼が会って話したいというならそうすべきだ。私は「分かった」と軽い気持ちで答えた。その時の自分が今となっては懐かしい。若利くんは「じゃあ今週末会う時に」と言って電話を切った。
 そして、今週末。向かい合い座った喫茶店の席で私は開口一番に若利くんの海外移籍が決まったことを知らされる。
「え……急じゃない?」
「前から相談していたとは思うが」
「そうだけど……」
 私は目の前の熱い紅茶が入ったカップに手を伸ばす。
 何が”そういう話じゃないことは分かっている”だ。全然分かっていなかった。
 伸ばした手は心なしか震え、ソーサーとカップがカタカタと音を立てた。紅茶を口にすると、舌を火傷する。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
 私は若利くんが差し出してくれた水を一口飲む。舌のヒリヒリとした痛みがすっと消えていった。
 確かに海外移籍の話はちゃんと聞いていた。聞かされていた。しかしずっと遠い先のことだと思っていた。加えて言えば現実になるとは思っていなかった。今思えば世界で活躍する選手を前に何を呑気にしていたのだと思う。
「……もしかして私……別れ話、されてる……?」
 情けないくらいに声が震える私に対して、若利くんの表情は彫刻のように微動だにしない。
「どうしてそうなる」
「だって海外行くんでしょ?」
「あぁ、もう決まったことだからな」
「じゃぁ、無理だよ……海外で遠距離なんて、無理」
 私がそう言って俯くと若利くんの言葉が降りかかる。
「俺も、そう思っている」
 その言葉はストンと体に落ちた。顔を上げると悲しいぐらいにいつも通りの若利くんがいて、目頭がじわりと熱くなる。どうして若利くんはこんなことを平気な顔して言えるのだろうか。そう思うと更に目が熱くなった。
「だったら――」
「だから」
 私が声をあげそうになったのを若利くんが力強く遮った。しかし、その次の言葉はなかなか出てこない。そして若利くんは今度は弱々しくだからと言って、そのまま視線を落としてしまった。若利くんの視線をたどりテーブルを眺めると、きつく握られた大きな拳がそこにあった。
 そうだ。そうだった。若利くんはこういう人だ。澄ました顔をしていてもその胸にはちゃんと感情があって、私を思いやってくれている。そういう人だ。
 続きの言葉は聞かなくても分かった。きっと『だから、お前と相談したいんだ』あたりだろう。でもやっぱりこれは別れ話になる。それを若利くんも分かっているからなかなか切り出せないでいるんだ。
 笑顔で送り出そう。私は決意した。バレー一筋に頑張ってきた若利くんが得たせっかくのチャンスなんだから。ここは私から伝えるべきだ。
 心に言い聞かせ、震える口で笑顔を作る。その時だった。若利くんが顔を上げ、ゆっくり、丁寧にその言葉を紡いだ。
「だから、お前に……あ、すまん。お前じゃないな……ナマエに……」
 私は息を呑む。
「プロポーズしようと思っている」
「…………は? ん……え?」
 間抜けな言葉が出たのはその言葉が脳を介さず右から左へと流れていったからだ。そしてそのままどこかに行ってしまいそうになるそれを慌てて掴んで脳に仕舞い入れる。
 “プロポーズをしようと思っている”
 何が”続きの言葉は聞かなくても分かった”だ。全然分かってないじゃん。私!
 それにこの言葉はプロポーズと受け取っていいのだろうか。どちらかといえばこれからプロポーズをするという事前予告な気がする。この後プロポーズをされるのだろうか。私はそれを待ってればいいのか。
 だめだ。若利くんの言ってることが全然理解できない。
 頭がプスプスと音でもたててるんじゃないかと思うくらい混乱しながら若利くんを見ると、目を合わせた彼は静かにコーヒーの入ったカップに口をつけた。伏せ目がちになるとその端正な顔立ちに睫毛が影を落とす。そして一口飲み終えると、再び真っ直ぐに私を捉えた。
「だから、考えといてくれないか?」
 真剣な眼差しで言う。
 え? 何を? 私は何を考えればいいの? プロポーズをされる心づもりについて考えればいいの?
 思考が停止した状態でそう聞き返すこともできず、流されるままに私は答えた。
「……うん……考えとく……」
 すると若利くんはようやくその顔に柔らかな笑みを浮かべた。


「そろそろ答えを聞いてもいいか?」
 後日、若利くんが神妙な面持ちで尋ねた。
 あの後待っていればちゃんとプロポーズされると思っていたのだが、何もなかった。心の準備はできた、とかそういうことを答えればいいのだろうか。結局私は目を泳がせながら問う。
「何の話?」
「結婚して一緒に海外についてきてくれないかという話だ」
 衝撃の告白だった。
 だってそんなこと一言も言ってなかった!
 若利くんはじっとこちらを見つめる。その姿は真剣そのものだった。
 きっと周りから見れば私たちは甚だ滑稽に映るのかもしれない。私たちはそれほどちぐはぐだからだ。私はいつも分かった気でいて空回ってる。若利くんはそれに全く気づかないでどんどん進んでいく。きっとそれはこれから先も変わらないのだろう。私は何度も空回ってその度に一人浮かれて傷ついて。若利くんはそれに全く気づきもしないで私の手を引きぐいぐい進んでいく。でも一つだけ互いにきちんと認識していることがある。だから今までやってこれたんだ。この先だってきっと、それさえあれば、海外でもどこでもやっていける。
 私は短く、よろしくお願いしますと答える。すると若利くんは嬉しそうに微笑み、私の体をきつく、きつく抱きしめた。
「幸せになろう」
 私はそう言った若利くんの背中に手を回した。