なかなか敷居をまたぐことのない高級料亭。それでも堂々と振る舞うことができるのはこの男の家柄のおかげか、素質のおかげか。高校の制服を身に纏ったその男は、料亭の入り口で仲居に向かって臆することなく自身の名を口にした。
「牛島だ」
 それは春の訪れを感じるような朗らかな日の日曜日のこと。

 料亭内に案内された牛島は、淡い桃色の着物を着た中居の後ろを付いて歩いていた。牛島より遥かに小さなその中居がゆっくりとした歩調で歩くのに合わせ木造の廊下を進む。廊下に面したふすまは全て閉められているが、休日のお昼だからだろうか。ふすまの向こうからは和やかな話し声が聞こえてくる。そして踏むたびに廊下が軋む音を聞きながら暫く進んだのち、前を歩いていた中居がこちらです、と到着したふすまの前で膝をついた。牛島は立ち止まり、その桜の花があしらわれたふすまの前に立つ。中居が丁寧に、ゆったりと目の前のふすまを開いていき、部屋の中の様子を見た牛島は。固まった。
「あら、若利さん。早かったのね」
 そう言ったのは既に席についていた母親だった。母はたんぽぽのような綺麗な黄色のフォーマルスーツに身を包んでいる。隣に座る祖母は若葉のような柔らかい緑の着物を着付けていた。
「何、突っ立ってるの。早く入んなさい」
 母にそう言われて、牛島はようやく重い足を踏み出す。
「ごめんなさいね。きっと緊張しているんだわ」
「いえ、大丈夫です」
 そう言った母の対面に座る娘は誰だろうか。母の対面側の席には、牛島と同じ年頃の娘と、その母親らしき人物が座っていた。
 今日は家族の食事会ではなかったのか。
 少なくとも牛島はそう聞かされていた。
「こちらミョウジさん。娘さんのお名前はナマエさんというそうよ」
 母は戸惑う牛島に気にするそぶりもなく二人を紹介する。初めから気にする気がないのかもしれない。
 母に紹介された二人は立ち上がった。娘の方は慌てたように、しかし優雅に立ち上がりこちらに向かって小さくお辞儀をする。彼女が着る着物はとても美しく、赤の下地にいくつも艶やかな花があしらわれていた。
「ミョウジナマエです」
 小さな口から鈴の音のような声でその名を聞く。
「牛島……若利だ」
 牛島は顔に変な汗が伝うのを感じながら、辛うじて自身の名を口にした。


* * *

 
 目の前で繰り広げられている会話は果たして本当に日本語なのだろうか。牛島はそう思えるほどに会話の内容が頭に入ってこないでいた。だからだろうか。目の前の豪華絢爛な食事を口にしてみるが、味はしない。唯一理解できたことといえば、自分が見合いの席に迷い込んでしまったということだけだった。
「若利さん」
 母に呼ばれて、顔をあげる。皆が牛島を注目していた。牛島の横にいる母が、その隣にいる祖母が。そして牛島の斜め前にいる娘が、正面にいる娘の母親が。
 しんと鎮まり帰った空間にどこからか鹿おどしの音が高らかに響いた。
「ごめんなさいね。やっぱり緊張しているみたいだわ」
 母が口に手を当て笑う。
「若利さんの趣味は? って」
 母に言われて、初めて牛島は質問されていたことに気づいた。
「バレー……だ」
 辛うじて答えた。
「この子昔からバレーばかりしてるのよ。ねぇ、お母さん」
 母が祖母に視線を送る。
「そうなんですよ。高校も寮でバレー漬けだからなかなかうちにも帰ってこないんです」
 ゆったりとした口調で祖母は対面の娘たちにそう言った。そして、娘の母親が口を開く。
「あら、子どもの頃から打ち込めることがあるのは立派なことじゃないですか」
 牛島が話さずとも、そうやって大人達だけでどんどんと会話が進んでいった。ならばなぜ自分はここにいるのだろうか。牛島はちらりと斜め前に座る娘の顔を見た。
 彼女は朗らかな笑顔で大人の会話に相槌を打っている。自分から話し出すことはしないが、何か聞かれればちゃんと答えていた。感じの良い娘だった。
 この娘は自分と違ってこれがお見合いだと分かっててここに来たのだろうか。ふとそんな疑問が牛島の脳内に過る。そして、分かって来ているのだろうと自分で答え納得する。分かって来ていなければこんなに着飾ることもないだろうと。
 改めてじっくりと彼女を見る。頭には着物に合わせた赤い大きな花が飾られていた。彼女が頷くたびに、その花から垂れ下がる花びらを連ねた飾りが揺れる。揺れる度に目を引くそれは付けてる本人は邪魔ではないのだろうか。実用性を全く感じない。現に今もこうして頷いた彼女の顔にかかっているではないか。牛島がそんなことを考えていた刹那、彼女と視線がかち合った。少し驚いたように見開かれた彼女の瞳はすぐに柔らかに細められる。瞬間、牛島の胸がドキっと鳴り、牛島は首を傾げた。今のドキっはなんだ、と。
 なぜ、ドキっとなった。やたら気になった。ドキっとなったからといって、どうというわけでもないのだが。やはり気になった。気になりだしたら止まらなかった。
 ドキっとなったときから、なんだか胸にはひっかかれるような、締め付けられるような、よく分からない痛みがあるし、駆り立てられるような、急かされるような、変な焦燥感もある。これはなんだ?
「若利さん」
 母に呼ばれてはっとする。皆が牛島を注目していた。そしてコーンと響く鹿おどし。
「得意なことは何? って」
 母に言われてまた質問されていたのかと気づく。
「バレー……だ」
 またしても辛うじて答えた。


* * *


 食事が終わり、食膳が下げられる。その頃にはまだ困惑はあったが牛島もいつもの落ち着きを取り戻していた。
 そして、年配の中居の女性によって机にお茶と桜を思わせるような淡いピンクの丸い練り切りが並べられる中、牛島の母が思い立ったように提案する。
「ここは庭園も素敵だと有名なのよ。若利さん見せてもらってきなさい」
 そういい終えるや否や母は牛島の返答を待つことなく、茶菓子を並べる中居に「案内して頂けるかしら」と尋ねる。中居が「かしこまりました」と柔らかに微笑むと、母は「ほら、若利さん」と牛島を急かした。
 牛島はあぁ、と言って、立ち上がる。そして、茶菓子を並び終え「ご案内します」という中居の後について行こうとした時、「若利さん」と母に呼び止められた。
「何やってるの。ナマエさんも連れていくのよ」
「……あぁ」
 牛島がナマエに視線を送ると、彼女は困ったような顔で笑い席を立つ。
「行ってきます」
 彼女は皆に小さく頭を下げ、牛島の後ろに並んだ。

 仲居に履物をとってきてもらい、庭園に面した廊下から外に出る。年配の中居の女性は目じりに沢山の皺を寄せ「ごゆっくり」と言って去っていった。
 ここを歩けと言わんばかりに伸びる人一人分の幅しかない細い石畳の上を牛島が先に、その後ろを彼女がついて進む。母が素敵というだけあって、柔らかな日差しのもと見る庭園は緑豊かで趣きのあるものだった。全体が生き生きと伸びた芝で覆われ、石畳の先にはゴツゴツとした岩で囲んだ池が見える。池のそばには腰丈に丸く刈られた木々が寄り添っていた。そして、池の先には、敷地を囲む竹の塀に沿って桜が並んでおり、ちらほらと開花が始まっているようだった。
 牛島たちは緑や土の匂いに囲まれながら石畳を進み、池の前に立つ。楕円形の大きな池の中では立派な鯉が泳いでいた。赤、白、黒。一色のもの、二色のもの、三色のもの。色とりどりの鯉は池の中を窮屈そうに、だけど気ままな様子で泳いでいる。牛島が池を覗くと、彼女も隣に並び池を覗き込んだ。
「立派だな」
「そうですね」
 不規則に泳ぐ彼らは見ていて飽きない。きっといつもここで餌を与えられているのだろう。鯉が集まり、こちらに向かって口をぱくぱく開けている。
 すまない。俺は餌を持っていないんだ。
「若利さん」
 ふいに隣で鈴が鳴る。
「なんだ?」
 横を向くと、彼女が柔らかに微笑んでいた。
「このお見合い断ってください」
 再びドキっと胸がなる。しかし牛島はもう首を傾げることはしなかった。ただ大きくなる鼓動を感じ、ただ渦巻く痛みに耐え、ただ襲いくる焦燥感に従い、彼女の顔をじっと見つめる。
「なぜだ?」
「若利さん、お見合いだって知らないできたでしょ」
 彼女はいたずらっぽく笑った。
「……なぜ分かった」
「分かりますよ。ここに来た時、戸惑われてましたし、ずっと上の空でしたし」
 彼女は笑ってそう言ったが、自分は失礼だっただろうかと牛島は心配になった。来た時は部屋に入ろうとせず、挙句席についてもだんまりだ。彼女の瞳には牛島はなかなか無愛想に映ったことだろう。日頃こんなこと気にするどころか考えたことすらなかったが。
「すまなかった」
「いいえ、私ももともと乗り気ではありませんでしたし」
 そうだったのか。それとも、愛想のない自分のせいで気分を害してそういう嘘をついているのか。
 やはり牛島は心配になった。牛島が黙り込んでいると、何かを察したのか、彼女は慌てたように両手を上げて顔の前で振って見せた。
「あ、若利さんに関係なくですよ。だってまだ高校生ですし」
 そう言われて牛島は初めて彼女が高校生だということを知る。恐らく会話には出ていたであろうことだが。
 殆どの会話を右から左へと流していたのだ。意図してやったことではないが、何か惜しいことをしてしまったという気になる。
 思えばこの娘のことを何も知らない。
「困っちゃいますよね」
 彼女は屈託なく笑う。
 あぁ、この娘はこんな風にも笑うのか。
「そういうわけなので、断っていただいて大丈夫です」
 また、ドキっとなる。
 この娘は、どうしてそんなことを平気な顔で言えるだろうか。
「断ったらもう、二度と会えないのではないか?」
「え?」
 彼女がきょとんとした顔で覗き込む。
「そんなことはないと思いますけれど……若利さんは私に会いたいんですか?」
 そうだ。会いたい。いや、会えなくなると思うと、胸の鼓動や痛み、焦燥感が増すのだ。このままではいけないと。
 この娘はそうではないのだろうか。
「お前は……あ、いや、その……」
 この娘の名前はなんといったか。そんなことすらきちんと聞いていなかった。
「ナマエですよ」
 牛島の心の声が聞こえたかのようにナマエは明るく答えた。
「すまない。ナマエは……いや」
 一度、咳払いをする。
「すまない。ナマエさんはもう俺に会いたくはないのか?」
「え? あ、や……え?」
「俺はまた、会いたい、と思う」
「……え?」
「俺はもっと……そうだな。もっとナマエ、さんのことを知りたいのだと思う。俺の都合だが、今日は全然集中できていなかったからな」
 心のままを口にした。
「は、はぃ……そんな風に言ってくださるなら……私も……」
 また会えたら嬉しいです、とナマエは俯きながら答えた。赤い髪飾りの下に見えるその頬は桃色に染まっているように見える。
 この娘はどうしてこんな顔をするのだろうか。
 知りたい。朧げだったその欲求が胸の内で明確になっていく。そして、もう一つ。胸をくすぶる欲求。
「俺のことも知って欲しい」
「はぃ……」
 ナマエは消え入りそうな声で答えた。さっきまでの柔らかな笑顔とも屈託ない笑顔とも違う彼女のその表情。これをなんというのだろうか。牛島は思案し、そうだ。と思い浮かんだ言葉を口にする。
「愛くるしいな」
「あ、あい?」
 ナマエが弾かれたように顔をあげた。その頬は牛島が予想した通り桃色に染まっていた。牛島は自分の顔が緩むのを感じる。
「愛くるしいだ。可愛いとか、そういう意味だ」
「あ、はい……や、そういう意味じゃ……」
 ナマエは再び俯き、ごにょごにょと言葉を濁す。
「やはり愛くるしいな」
「は、はぃ……ありがとう、ございます……」
 牛島はますます赤くなるその頬を眺める。もっと見たいと思うし、触れてみたいとすら思った。しかし、意思に反して手は動かない。無理に動かそうとすればその手は情けなく震えた。不思議だった。今まで全て思いのまま行動してきたというのに。
 牛島は役立たずの手を眺め一度ぐっぱぐっぱ動かしてちゃんと動くことを確認し、前を向き直る。
 相変わらず牛島の胸では鼓動が強く鳴っていた。引っかかれるような、締めつけられるような、経験したことのない痛みがあるし、駆り立てられるような、急かされるような、妙な焦燥感もある。けれどもそれは不快なばかりではなく。どこか温かみを帯び始めたそれに牛島はやはり疑問に思いながらも満足感に満たされていた。
「次に会える日が楽しみだ」
 牛島がそう言うと、池の中で鯉がぴちゃりと水を跳ねた。