※汚部屋女子のだらしない夢主※

 目が覚めると、見覚えのない白い天井。ノリのきいた硬めの白いシーツ。なんで私は寝ていたのだろうと首を傾げると、菜の花のような淡い黄色のカーテンで自分の寝ているベッドが囲まれていることに気づく。消毒の匂いがするこの清潔感を絵に描いたような空間は保健室だろうか。いや、もう学生ではない。社会人だ。まだ、夢でも見ているのだろうか。なんだか久しぶりに体が軽くなったような気がして、体が求めるに従い伸びをすると、腕に違和感。
「は、針! 針刺さってる!」
 腕にはチューブのついた針が刺さっており、チューブの先を辿れば点滴の袋が吊るされていた。
 何事!? これ、何事!?
 すると、ベッド周りのカーテンがシャァっと音を立てて開き、パリッとした白いTシャツとパンツに身を包んだ女性が顔を出す。
「ミョウジさん、やっと目が覚めましたね」
 後光が差すような笑みを向けるこの若い女性は看護師さんだろうか。なんとなく状況を理解して、血の気が引くのを感じた。

 ベッドで横になった私を見下ろす人は白衣を着た中年の男性。朗らかな笑みを浮かべたその医者に、過労ですね、と言われ、現在の状況が明確になった。
「ですよね」
 最近、熱っぽいようなふわふわしているようなそんな感覚はあった。会社にいたのに、気づいたら病院のベッドの上でしたってなるなら、それしか原因は見当たらない。
 睡眠時間や勤務時間など生活習慣について色々聞かれ、素直に答えると苦笑され、薄い冊子を渡される。冊子のタイトルは『規則正しい生活を!』
 まんまだなぁと思いながら、ぱらりとめくれば、脅してくるように過労が招く病気についてデカデカと書かれたページが目に入り、慌てて閉じた。
「点滴終わったら帰っていいですよ」
 そう言った医者はお大事に、と付け足し去っていく。また様子見に来ますねと言った看護師も去っていき、部屋には私一人が残された。
 馴染みのない白い天井をぼーっと眺める。よく見れば黄ばんでて、それほど清潔感はないなと思いながらあくびをする。早く会社に戻らなきゃとか、私が突然倒れて皆困っているだろうなんてことは考えない。皆に迷惑をかけたなとそこは大変申し訳なく思ってはいるが。別に家に帰れぬほど仕事が溜まっているとか、責任感に押し潰されそうな程の大きな仕事を抱えているとか、そういうわけではないのだ。
 では、なぜこんなにも呑気にしている人間が過労で倒れたのか。
 子どもの頃から、そうだったように思う。夢中になると、それしか見えなくなるのだ。寝ずに済むならずっと起きていたい。飯を食う時間があれば、他のことをしていたい。ようは仕事でやっていることが楽しかったのだ。睡眠も食事も疎かにするほど、知識や経験に飢え、その渇望に従い仕事に邁進し、帰れば勉強に勤しんでいた。
 実家にいる頃は、夜更かししたら怒られていたので、ちゃんと寝ていたし、食事は三食準備されていたので、ちゃんと食べていた。けれども、一人暮らしは自由だ。好き勝手できることをいいことに結局体を壊したということである。
 ふぁあと大きなあくびをし、襲いくる睡魔に身を任せ瞳を閉じた。

 いつの間にか点滴は終わったようで、看護師に起こされる頃には、腕の針は抜かれており、絆創膏のようなものが貼られていた。まだ、熱っぽい感覚はあるが、スッキリした体で、看護師に礼を言って、渡されたファイルを会計に提出し、お金を払う。病院を出て、会社に電話すると、今日はもう来なくて良いと言われた。それはそうだろう。やたら心配してくれる上司はとてもいい人で、本当に申し訳ございませんでした、と電話片手に一人で深々と頭を下げ通話を切った。帰りにでも百貨店に寄って迷惑かけた会社の人達に菓子折り買って帰ろ。

 菓子折り片手に駅から自宅マンションへと歩いて帰る。平日、真昼間にここを通るのはいつぶりだろうか。最後に有給取ったのは、と考えていると、到着した自宅マンションの前でキョロキョロと首を振って居心地悪そうに立っている幼馴染であり彼氏となった人を見つける。
「あれ? 翔ちゃんどうしたの?」
「ナマエちゃんこそ大丈夫!? 倒れたって聞いたよ!」
 声をかけるなり駆け寄る翔ちゃんは顔面蒼白だ。なんで倒れたってこと知ってるのかなと疑問に思いながらも、大丈夫だよと返す。
「なんか……ナマエちゃん思ったより元気だね。普通に歩いて帰ってきてるし……」
「そうだね。私もなんで倒れちゃったのか謎」
「でも、倒れたってことはそれが体のサインなんだよ! しっかり休まないと」
 そう言った翔ちゃんに逞しい腕でぎゅっと抱きつかれる。よかったー、と泣きそうな声が耳元で聞こえた。
「それより、なんで私が倒れたこと知ってるの?」
「おばさんから連絡来たから」
 おばさん。私の母親だろう。おそらく情報共有のルートは会社から母親へ。母親から翔ちゃんへ。帰りの電車で母からは連絡が来ており、点滴打って帰してもらえるくらいの軽症だよと返しておいたのだが。
 遠く離れた実家からすぐこちらに駆けつけることができない母は翔ちゃんを頼ることにしたのだろう。それほど翔ちゃんは母に信頼されている。でも翔ちゃんにまで迷惑はかけたくなかったのになぁ。翔ちゃん、仕事どうしたんだろ。
「そんなわけで、今日は俺がナマエちゃんを看病します!」
 私に抱きついていた翔ちゃんは離れ、ニッカリ笑う。先程から気になっていた、翔ちゃんの荷物。二又に分かれたネギの頭がみえているお買い物袋。
 私の視線を感じ取ったのが、翔ちゃんはその袋を掲げて、今日はお鍋にしますと言った。
「え!? いいよ、一人で大丈夫だらか」
「だーめ。ナマエちゃんを一人でほっとけないから。俺が看病するからしっかり休んで」
「本当にだい――」
「いいから、いいから。早く帰ろ」
「じゃあ、翔ちゃんのお家行こ」
 手を握られマンションへ引っ張られそうになり、慌てて提案する。翔ちゃんに迷惑をかけたくない。断る理由はそれだけではない。翔ちゃんは不思議そうに首を傾げ、あぁっと納得したような顔をして、優しく微笑む。
「いいよ、部屋。散らかってても」
 嫌だ、私の部屋は嫌だと何度も言っているのに、手を引かれ自室である汚部屋へと連行された。片付けた部屋しか見たことのない翔ちゃんは散らかっているの度合いを知らないのだ。

 本当に散らかってるから。本当の本当に散らかってるからと、引いても引いても足りない予防線。扉の前で暫く粘ったが、大丈夫と笑う翔ちゃんは一歩も引いてくれず、結局鍵を回した。
 ここは百足(むかで)のお家ですか、というほど靴で覆われた玄関。毎週捨て損なう段ボールを重ねた廊下を超えると、桜の花びらが池を覆うように、印刷した論文が床を覆ったワンルームに到着する。ベッドと食卓テーブルで窮屈になったこの部屋をA4サイズの紙で覆うのは簡単だった。そして、テーブルの上では、パソコンの周りを囲むように毎朝使う化粧品が散乱し、二つある椅子のうち一つは平積みされてる専門書が占拠している。その椅子の横では再び書籍が山を形成し、その隣の雑誌の山では雪崩が起きていた。雑誌ってなんでこんなにすぐ溜まるんだろうねと、部屋の隅に視線をやれば洗濯した衣服がこんもり積まれている。唯一普通なのはベッドだけ。
 でも、ゴミだけはちゃんとしてるよ! 虫が湧くからね! シンクの横に並んでる栄養ドリンクの空き瓶だってちゃんと洗ってあるんだからね!
「ごめんね……こんな部屋で……」
「いいよいいよ、ナマエちゃんは休んでて」
「はい……」
 相変わらず天使のような眩しい笑顔を崩さない翔ちゃんに、とぼとぼと洗濯物の山へと向かい、着替えとタオルを引っ張り出して、お風呂場へと向かう。ベッドだけは神聖な体で入りたいという謎のこだわり。
「ごゆっくり!」
 背中からかかるどこまでも明るい声に泣き出しそうになった。

 お風呂を上がると、翔ちゃんがいそいそと片付けをしていた。
「片付けなくていいよ!」
「でも片付けないと、ご飯食べられないし」
 遠慮がちに笑われ、ですよねと項垂れる。
「ごめんなさい。私も手伝います」
「大丈夫。ナマエちゃんは休んでて」
 天使の微笑みが胸に刺さった。嬉しい反面、申し訳なさが半端ない。再びごめんなさいと謝り、恥ずかしい時に入る穴はここかとベッドに潜り込む。
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「本当?」
「……本当」
 翔ちゃんがキッチンに置いてある、蓋付きのゴミ箱へと向かう。翔ちゃんが、ゴミ箱のペダルを踏んで、蓋を開ける前に、ベッドから飛び出し、ゴミ箱の蓋に覆い被さった。
「見ないで!」
 後ろからお腹に手を回されたかと思えば、ひょいと抱えられ、そのままベッドに戻される。
「ナマエちゃんはここで大人しくしててね」
 天使の笑顔に圧を感じるのは気のせいだろうか。
「待って! 見ないで!」
 静止の声も虚しく、翔ちゃんは再びゴミ箱へと向かい蓋を開けてしまった。
「何これ! バランス栄養食品の箱ばっかり」
 諦めて、お布団に潜る。やりたいことに夢中になっている間、こういう生活をしていることを恥ずかしいと思っていないわけではないのだ。
「これじゃ、栄養偏るし、体に悪いよ」
 栄養は偏ってないよ、とお布団に潜りながら、もごもご答える。
「その箱は朝だけだし……夜は別のメーカーの栄養バランス食品にしてるし……」
「それ同じだからね、ナマエちゃん」
 分かってて言ってるんだろうけれど、と付け足され、喉からぐうの音がでる。
「お昼は野菜ジュース飲んでるし……」
「野菜ジュースしか飲んでないんでしょ」
「たまには牛乳も飲んでる……」
 返事がない。あっと思い出し、お布団から出た。
「でも、休日はちゃんとおにぎりとか食べてるよ! 平日も飲み会があればちゃん、と、ご、はん……やめて、その顔やめて!」
 逃げるようにお布団に潜り込んだ。
 翔ちゃん怖い。喧嘩しててもこんな怖い翔ちゃん見たことないのに。もしかしてこれ……幻滅された? 失望された?
 お布団に避難してガクブル震えていると、足音が近づいてくる。ナマエちゃん、と優しく言われ、お布団越しにぱふぱふとこれまた優しく叩かれ、何故か涙ぐむ。
「どうせ女として、というか人として終わってるとか思ってるんでしょ」
「思ってないよ」
「思ってるよ! 翔ちゃんは、バレーも自己管理も完璧にやってるもん」
「完璧だなんてそんな……俺なんてまだまだだよ」
 照れたような声が聞こえる。今、自分で自分の首絞めちゃったかも。翔ちゃんにそうやってまだまだと言われると、ますます私の立場がなくなってしまうようで、お布団の中で小さくなる。
 翔ちゃんは忙しくても全部きちんとやってることを知っているから、生活に関しては殆ど何もやれてない自分に後ろめたさはある。だから、今までなんとか隠してきてたのだ。
 部屋に呼ぶときだけ、部屋の片付けなんかしたりして。部屋のものをクローゼットに押し込むだけだけど。
 ベッドの下に置いてある掃除機を引っ張り出したりなんかもしたりして。その時ぐらいしか掃除機使わないから出すだけで毎回すごい埃が舞うんだけど。
 そして、毎日やってます風を装って料理なんかもしちゃったりして。翔ちゃんが帰る前にお皿洗ってくれるから本当に助かってます。
 ダメだ。考えると涙が溢れてきた。もしかして、このまま別れられるんじゃないだろうか。こんな生活能力のカケラもない汚部屋女子は無理ですとか言って。翔ちゃんだからそこは言葉を選ぶんだろうけれど。
 お布団の中で一人ふるふる震えていると、お布団の上から抱きしめられる。
「大丈夫。思ってないから。ナマエちゃんのそういう一生懸命なところ、好きとは思ってるけど」
 本当に?
「一生懸命って……物は言いようみたいに聞こえるんだけど」
「短所は長所の裏返しって言うだろ」
「やっぱそれ物は言いようって言ってるじゃん」
 翔ちゃんのはははっと笑う声がする。
「それに今更だから」
「今更?」
「昔からナマエちゃんそうだったでしょ」
 昔から? 確かに昔からそうだったけれど、家族以外は知らないはずだ。
「夏休みとか、徹夜で何かに没頭してなかった? 自由研究だっけ? 工作だっけ? あの時の部屋も凄かったよ」
「なんで知ってるの!?」
「今はお菓子のゴミがないだけだいぶまし」
「なんで知ってるの……」
「俺遊びに来てたの気づいてなかった?」
 そうだっただろうか、と布団の中で首を傾げていると、翔ちゃんに自分の体は大事にして欲しいけどね、と言われる。
「そんなわけでね、プレゼントがあるんだ」
「プレゼント?」
 体に覆い被さってた翔ちゃんの重みがなくなったので、布団から顔を出す。翔ちゃんはネギが刺さっていたお買い物袋から、白い四角い箱を取り出した。いちごパックぐらいの大きさのそれを、はい、と笑顔で手渡され、それが厚紙の箱だと知る。蓋をそっと開けて、翔ちゃんを見つめる。天使の笑顔がそこにあった。

 病院送りになり、翔ちゃんが看病してくれた日、お肉、お魚、それとたっぷりのお野菜が入ったお鍋を食べて、ぐっすり眠った私は翌日から元気に出社していた。朝一に菓子折り片手にお詫び行脚を済ませ、業務をこなす。
 お昼になり、いつもは野菜ジュースを片手にパソコンをカタカタしていた私だったが、職場の皆がお昼へ出払ったのを見計らい、鞄の中から今日のお昼ご飯を取り出す。
「あれ? ミョウジさんお弁当?」
 後ろからかかった先輩女性社員の声にびくりと肩を上げた。私が手にしていたものは、オレンジの包みに包まれたお弁当だった。
「珍しいね。自分で作ったの?」
「いえ……自分では……」
「あれ? 実家暮らしだったっけ?」
「いえ、一人暮らしです」
「え? じゃあ、それ誰のお手製?」
 顔が段々と茹だっていくのを感じながら口を開く。
「か、彼氏……です」
「嘘ー! すごい!! 中見せて見せて!」
 興奮気味に食いつく先輩に急かされ、お弁当の包みをそっと開けて、淡いオレンジの下地に向日葵の白いシルエットが端に描かれたお弁当箱の蓋を開ける。
「やばっ! 超、彩りいいじゃん」
「そうですね……」
 梅干しの乗った白いご飯に、生姜焼き、さやインゲン、卵焼き、ひじきの煮物、にんじんのナムル。完成度の高さに息を飲んだ。

 翔ちゃんがプレゼントと渡してくれたのは、このお弁当箱だった。
『これから俺が毎日ナマエちゃんにお弁当を作ってあげます』
『え……嬉しいけど、大変じゃない?』
『自分の作るついでだから大丈夫』
 俺が作ればちゃんと食べてくれるでしょ? と微笑む翔ちゃんに涙がぽろぽろ溢れ、食べると言えば、いい子いい子と頭を撫でられたのだった。

「ミョウジさんの彼氏まじで神じゃん」
「あ、ありがとうございます」
 翔ちゃんが朝お弁当を詰めてる姿を想像すると、先輩の笑顔が涙で滲んだ。