五色の進路が白鳥沢学園に決まった頃、ナマエも突然白鳥沢へ行くと言い出した。
「へー、そんなに俺のこと追いかけたいんだ」
「そんなわけないじゃん」
 さらりと言った彼女の視線の先には、全国にその名を轟かせたスーパーエースがいた。


* * *


 ナマエに一般入試で白鳥沢学園への入学は厳しいだろうと。たかを括っていた五色は頭を抱える。
 なんでナマエがここにいるんだよ!
 割といい成績で白鳥沢に入学し、ちゃっかりマネージャーとして男子バレー部に入部したナマエは、体育館でシューズのゴム底がキュッキュッとなる中、壁に寄りテキパキとバレー部員が脱いだウインドブレーカーを畳んで並べていた。
「ミョウジさん、工と同中だっけ?」
 スパイク練習の順番待ちをしていると、前に並ぶ大平に問われる。
「あぁ、そうですよ」
「あの子すごい仕事できるな」
 感心したようにそう言われ、五色の鼻は高くなる。
「そうなんですよ! あいつ、中学ん時も男バレのマネージャーやってたんで!」
 言い終えて、そうじゃないだろ、とナマエを誇らしげに語った先程の自分に脳内で突っ込みを入れた。あいつは仕事はできるかもしれないが、マネージャーをやっている動機が不純なんだ。不純過ぎるんだ。
 マネ経験者か、どうりで、と頷く大平に、それほどでもないですけどね、とさっきとは真逆の返答をし、ナマエに視線を戻す。こちらに気付く様子もなく彼女はクーラーボックスを肩にかけ体育館の扉へと向かっていた。ドリンクでも作りに行くのだろうか。熱心なことだ。
 声出しをしながら歩く彼女の顔は歩いている先とは直角方向に位置するコートの方を向いていた。前見て歩けよ。転ぶぞ、と思っていると五色は、ライバル――といえば先輩達に白い目で見られるのだが。丁度、力強く地を蹴った現エースの動きに合わせ彼女の視線が揺れ動いていることに気づいた。あいつ、また、と苛立ちを覚えたが、前を並んでいた大平がスパイクを打ち終え、五色の番がやってくる。
 見てろよ、ナマエ、と張り切って鼻から息を吐いた五色は助走に入って、地を蹴り飛んだ先で体を弓のようにしならせた。五色の振り上げた手は白布があげたボールを激しく叩く。ストレートに打ち込んだボールがサイドラインを華麗に踏むのを見届けた五色は着地と同時に、どうだ、見たかとナマエを探す。まるで、五色の打つスパイクには興味ありません、とでも言うように、さっきとは打って変わってきちんと前を向いて歩く彼女の後ろ姿を発見した。
 なんなんだよ! あいつ!
「五色! 集中しろ!」
 隣で白布の怒号が飛び、びくりと肩を上げた。

 牛島の休憩という号令を合図に、部員達は重たそうに足を引きずりながら壁際に寄る。皆が思い思いに汗を拭いたり、水分補給をする中、五色はタオルを持って牛島の元へ駆けるナマエの元へ足を伸ばした。
「うしじ――」
「ありがと、ナマエ」
 ナマエの持っていたタオルをひょいと取る。
「あ、ちょっ、それ五色に渡すつもりじゃ」
 ナマエの言葉を無視して、そのタオルで汗を拭いてやった。むくれた顔が五色を見上げる。
 なんだってそんな顔するんだよ。中学の時は俺に持ってきてくれてただろ。
「あっ、牛島さん汗拭いちゃったじゃん」
「ナマエには牛島さんは合わねーよ」
 さらにむすっとした顔をしたナマエはうっさい、と言って頬をぷりぷりさせながら、背を向けた。
 このやり取りは彼らが白鳥沢学園バレー部に入部して以来ずっと続けられており、かれこれもう一週間以上は繰り返されていた。

 その日の部活が終わり、すっかり日も暮れ、星の輝く夜空が頭上に広がる頃。寮へと帰ろうとしていた五色は電気の消えた体育館の角に張り付き、身を隠すようにして曲がり角の先を覗くナマエの後ろ姿を見つける。後ろから彼女に近づくと、片手で小さくガッツポーズをした彼女が小声でセーフと言っているのが聞こえた。
「何覗いてんの?」
「五色!? しーっ! しーっ!」
 五色を見上げたナマエは立てた人差し指を口に当て、声を殺しながらも必死な様子でそう言った。そして、再び体育館の角に張り付く。何がそんなにも彼女の興味を引いているのだろうか。五色はナマエの後ろから、角を曲がった先を覗く。夜の暗がりの中で、ウインドブレーカー姿の牛島と制服を着た女子生徒が向かい合っているのを、彼らの近くにある自動販売機の白い光が照らしていた。ここからは二人が何を話しているかまでは聞き取れなかったが、明らかに楽しそうに話している雰囲気ではない。牛島はいつもの澄ました様子だが、女子生徒からは張り詰めた空気が伝わってくる。
「何? 牛島さん告られてんの?」
「だからしーっ!」
 すごい形相でこちらに振り返ったナマエは前に向き直り言った。
「そう見たい。でも牛島さん断ってるっぽい」
「人の告白覗くとか趣味悪いだろ」
「分かってるよ、でもしょうがないでしょ」
 何がしょうがないんだよ、と心の中で毒づきながら五色の胸の位置あたりにある後頭部を見下ろす。つむじまで見下ろせる彼女の後頭部。
 そういえば昔このつむじを人差し指で押してやったなと思い出す。すごい嫌な顔で怒られたのだった。
 その後、仕返しにと彼女は五色のつむじを押そうとしてきたが、結局五色のつむじは押されることはなかった。勢いよく五色の肩に手をかけ、背伸びをしてまでつむじに手を伸ばしてきた彼女がそのままバランスを崩し、五色の胸に飛び込んできたからだ。
 その時に見えた、五色の胸に顔を埋める彼女の真っ赤な耳が懐かしい。
 何やってんだよと。倒れ込んだ勢いでシャツにしがみついてきた彼女の肩を掴んで体を支えてやったら、顔を上げた涙目の彼女に恨めしそうに言われたのだった。
『もう……五色のせいなんだからね……』
 今、この目の前のつむじを押せば何と言われるだろうか。どんな顔で見上げてくるだろうか。また仕返しに五色のつむじを押そうとしてくるだろうか。
 なんだか最近はずっと。彼女にこの後頭部ばかりを見せられているような気がする。
「もう、諦めろよ」
 彼女の丸い後頭部に向かって言う。
「五色には関係ないでしょ」
 後頭部が答えた。
「なんで牛島さんが断ったかって考えねーの?」
「それはバレーに専念したいからじゃ……」
「彼女がいるから――」
「彼女はいないって噂だもん」
「じゃあ、他に好きな人がいるのかもって思わねーの?」
 相変わらず後頭部を向けたままのナマエがびくっと震える。
 なんだ、ちゃんと分かってんじゃん。
「ナマエには牛島さんは合わねーよ」
 ようやく振り返ってくれた。
「そんなの私が一番よく分かってるもん!」
 叫んだ彼女は言い終えるや否やしまったと言わんばかりにあっ、と口に手を当てる。そして、大きな皿でも割ってしまった子どものようにふるふる震え出し、角からそっと牛島の方を覗いたかと思えば、軍人のような硬い動きで一歩前に出て直立し、勢いよく頭を下げて、すみませんでした、と声を張り上げた。
 顔を上げた彼女は、未だ体育館の影に隠れたままの五色を見上げる。暗い中だからこそ五色ははっきりと見えてしまった。唇を噛んだ彼女の瞳の中で星光をきらりと反射させたものが、彼女の目の縁に沿ってぷっくりと溜まるのを。
「ご、五色のせいだからね」
 ナマエは震える声で捨て台詞を吐き、五色が声をかける間もなく、走り去って行く。
 あれ? 俺やっちまった?
 春の冷たい夜風がヒヤリと五色の体を包む。ナマエを追いかけるべきだろうか。しかし、足は石像になってしまったかのように動かない。バクバクバクバクと鳴る鼓動は大きくなっていき、開いたままの口の中は乾いていく。強ばった喉からは彼女の名前さえ出てこないでいた。ただ、牛島と、そして五色と同じウインドブレーカーを着た彼女の背中がどんどんと夜の闇に溶けていくのを眺めていた。
「なんだ、お前もいたのか」
「牛島さん!」
 いつの間に隣に並んでいた牛島に声をかけられ、心臓が飛び出そうになった。先程牛島と向かい合っていた女子生徒はいないようだった。他の道から帰ったのだろうか。それとも隣を通ったのを気づかなかっただけなのだろうか。
「俺もあいつもたまたまですよ! たまたま通りがかっただけです!」
「分かっている」
 なんで俺があいつのフォローしてんだよと思うのと、牛島さん全然分かってねーじゃんと思うのとで苛立ちがふつふつと湧いてくる。
 もう知らねー、事実をはっきりさせてナマエに突きつけてやる!
 五色の火山が噴火した。
「牛島さんはなんで付き合ったりとかしないんですか!? 他に好きな人でもいるんですか!?」
「いや、バレーに集中したいからだ」
 牛島はこういうことで嘘をつくような男ではない。入部したてで牛島とは付き合いの短い五色だが、なんとなくそれは分かっていた。
 冷水をぶっけられたかのように一気に怒りを鎮火させられた五色は、このことナマエには黙っておこうとこっそり心に思うのであった。

 そんなことがあった翌日の部活だが、ナマエはいつもの様子でマネージャー業に専念していた。サーブ練習が始まると、部員達が打ったサーブが何本もネットを超えていく中、転がるボールをせっせと拾って、ボール籠へと運んでいる。
 ナマエが白鳥沢のバレー部に入部した動機は不純だったかもしれないが、懸命な様子で自分の役割をこなす彼女には、彼女なりにバレー部に対して、何か特別な思いがあるのかもしれない。男バレのマネは中学の頃から続けていることなのだし。
 ナマエが玉拾いをしているコートとは対面側のコートからサーブを打っていた五色は、ネット越しにナマエの様子を見て、もやもやとする気持ちに舌打ちする。そして、両手で持っていたボールを上に投げ、コートのエンドラインへ向かって助走し、エンドライン手前で体を沈め上へ高くジャンプした。空中で弧の形に反らした全身を使って腕を振り抜き、先程上げたトスを打つ。やっちまった。ホームランだ。五色の打ったサーブは、ネットのはるか上を通り、コートのエンドランの向こうで玉拾いをしていたナマエに向かって一直線へ飛んでいく。やべっと五色の口から漏れたが、慣れた様子でさっと一歩踏み出し向かってくるサーブを避けた彼女のおかげで、ボールは彼女に当たることはなく。爆発音にも似た大きな音をたてて体育館の壁にぶち当たった。
 サーブを当てられそうになった彼女と目が合った五色は顔の前で両手を合わせる。うっすら笑う彼女の口がナイスサーブと動くのが見えた。
 ナイスサーブじゃねーよ! ナイスサーブじゃ! 誰のせいだと思ってんだ!
「五色、集中しろ」
 後ろから白布にぼそりと言われ、ぞっと背筋が凍った。

 サーブ練習が終わり、休憩に入るとナマエはいつもの様子でいそいそとタオルを片手に牛島の元へ駆け寄けよろうとしていた。
「うし――」
「ありがと」
 五色はいつものようにナマエが持っていたタオルをひょいと取る。
「あ、ちょっ、それ!」
「俺のじゃないんだろ」
「分かってるのになんで毎回毎回!」
 いつものように顔を赤くして怒るナマエに少しほっとする。
「ナマエの方こそ昨日の今日でよくまた牛島さんのところに行こうとできるよな」
 赤い頬を突ついてやりたくなるくらいぷぅっと膨らませたナマエはぷいと顔を背けた。
「あれくらいでへこたれるんだったら、最初から行こうと思いません!」
「俺もだよ」
「は?」
 キョトンとこちらを見るナマエを横目に五色は思わずぷっと吹き出してしまった。昨日あんな泣きそうな顔をしていたくせに、全然元気じゃねーか。
 すると、ナマエは不審そうに眉を寄せる。
「何言ってんの? 意味分からない」
「ナマエの方が意味わかんねーよ」
 はぁ? と言いたげにナマエは首を傾げるのでもう一度吹き出してしまった。昨日の絵に描いたような恋する乙女はどこへ行ったのやら。五色が笑っていると、彼女はますます不思議なものを見るかのように首を捻る。彼女に五色の考えていることは全く伝わっていないらしい。五色の胸の内を考えても仕方がないと踏んだのか、五色に興味を失せた様子のナマエは、明日こそは、と言って前屈みになり拳を握った両手で小さくガッツポーズをとった。
「明日もタオル。俺がもらってやるよ」
「なっ……! いつもそうやって私をからかって! 明日こそは絶対その包囲網抜けてやるんだから!」
 はいはい、頑張れ、と五色は真剣な様子でこちらを見上げる彼女の頭にぽんぽんと手を置いた。思えばこの後頭部にこうして触れるのは久しぶりかもしれない。そういえばこんな感じだった。バレーボールよりも小さくて硬くて。ぎゅっと掴めば、いだっと色気のない声が上がる。
「もう、馬鹿にして!」
 五色の手を払い、むくれた彼女は去っていく。その後ろ姿を見送りながら五色は彼女から奪ったクローバーのような淡い緑のタオルで顔を拭った。柔軟剤の香りだろうか。ふんわりと懐かしい花の香りが鼻孔をくすぐる。瞳を閉じるとその香りが強まった気がした。
「ナマエには……俺がいるだろ」
 タオル越しに彼女の背中を覗きながら、ぼそりと呟くと、牛島の声で練習再開の号令がかかった。