高校に入学したばかりの五色は早速退屈な授業を数え出す。数学、現国、世界史、化学、英語……と上げていき、ん? と首を捻った。体育以外は全部退屈じゃねーかと。
 学校生活の大半を占めるそんな退屈な時間を五色は斜め前に座る彼女を見て過ごすことが多かった。彼女の名前はミョウジさん。五色の好きな女の子。
 なんてことはない。いわゆる一目惚れだ。入学式で初めて彼女の横顔を見た時に、あ、いいなと思い、クラスの皆の前で自己紹介する凛とした姿を見た時に更にいいなと思い、最初の席替えで彼女が斜め前に座り、日頃の友人と話している姿や、授業中発言している姿を見ているうちに、段々色めき立つものを感じるようになり、落とした消しゴムを拾ってもらった時に、どっぼんと。向けられた笑顔に完全に恋に落ちたのである。それ以来不思議な引力を感じるほどに目が彼女に釘付けで、授業中は黒板を見ているのか彼女を見ているのか分からないほど、首ったけなのだ。
 きっと彼女も自分のことが好きなのだと五色は思っている。明確な理由はないが、話しかければ彼女は嬉しそうに返してくれるし、なんたって五色は時期エース。カッコ良い五色を彼女が好きでない筈がない。きっとこのまま放っておけば彼女の方から告白してきてくれるはず。
 なぜ、彼女からの告白を待っているかだって。そんなの決まってる。
 告白なんてみっともねーこと、俺ができるわけねーだろ!

 そして、春が終わり、夏になり、夏休みが終わったかと思えば、あっという間に秋になった。
 あれ? と五色は首を傾げる。おかしい。実におかしい。なぜ未だ彼女から告白をされていないのだ。
 インターハイも終わり、バレー部での五色の活躍は彼女も耳にしているはず。何よりも、五色は最近彼女と言葉を交わすことが多いのだ。朝の挨拶はもちろんのこと、昼休み、移動教室の時など、昨日帰ってから何してたのとか、休みの日何してたのとか。彼女はいつだって消しゴムを拾ってくれたあの日と同じ、柔らかな笑顔で答えてくれた。更に言えば、五色は彼女の頭を撫でてやるほど彼女と親密になったのだ。すれ違い側に彼女の頭にポンと手を置き、相変わらずちっさいなと。彼女がとりわけて小さいというわけではないが、女子は頭を撫でられるのが好きだと聞いてから事あるごとに彼女の頭に手を置くようにしている。最初は女子に触るということで手が震えたが、やめてよと言いながらも照れ臭そうに笑う彼女の姿を見ると、もっとしてやりたくなったし、彼女に触れると日干しした布団の上に寝転ぶようなふわふわとした気持ちになるので、今はバレーボールを掴むような感覚でやっている。
 これはもう、付き合うのも時間の問題ではなかろうかと五色は思うのだが、明日になっても、その次の日になっても彼女に告白されることはなかった。
 そして、秋も深まり、新たなイベントが訪れようとしていた。白鳥沢学園文化祭。クラスの出し物はお化け屋敷。
 よく分からぬ焦燥感にかられた五色は彼女と同じ衣装係に志願した。
「五色くん、指怪我しちゃダメなのになんで衣装係になったの?」
 くすくす笑う彼女に、裁ちばさみを渡されながら言われた。五色は生地を切る専門なんだそうだ。
 もちろん、ミョウジさんがいるからだよなんてことは口にしない。
「看板作りとかは服が汚れるからな」
「買い出し係なら、指怪我することもないし、汚れないよ?」
 五色がぐっと口をつぐむと、やはりくすくす笑われた。
 そして、早々に自分の役割を終えてしまった五色はチクチク針で縫っている彼女の横に張り付き他愛の無い会話を重ねるのだった。決して、好きだと思っていることを彼女に悟られないように。取るに足らないいつも交わしているようなそんな会話を。
「ミョウジさんはバレー好き?」
「うーん、好きってほど詳しくはないけど、インターハイ予選の決勝見に行ったときは面白かったよ」
「俺の活躍見てくれた?」
「うん、見たよ。カッコよかった」
「だろ! 俺は時期エースだからな!」
 やはりこれはいい雰囲気なのではと五色は思った。だってこんなに可愛く、活躍してる姿を見ているとアピールされ、カッコいいとまで言ってくれたのだ。まるで彼氏と彼女のようではないか。
 彼女の持つ針が、等間隔で縫い目を残していくのを眺めながら、再び他愛の無い会話を続けていく。
「ミョウジさんはさ、文化祭誰と回るの?」
「特に決めては無いけど、友達とかな」
「俺はバレー部でも模擬店あるから、ゆっくり回れないんだけどさ。次期エースとして皆に頼られてるから」
「流石五色くんだね」
「だろ! ミョウジさんが遊びに来てくれたら俺が接客してやるよ」
「ありがと。楽しみにしてる」
 彼女が嬉しそうに笑うのを見て、やっぱり俺のことが好きなのだと五色は思った。彼女は五色に接客されたいからバレー部の出し物に来るというのだ。五色目当てだと明言したようなものだ。つまりは、五色はもう彼女に好きと言われたようなものではないか。
 だったら、早く告ってこいよ。そしたら、すぐにオッケー出してやるのに。
 その後も五色は彼女に張り付き、いつまでも針に糸を通せぬような気持ちで、彼女の作る衣装が縫い終わるのを待っているのだった。

 そして、文化祭前日。最後の授業は文化祭の準備に当てられていた。準備を万事無事に終えていた五色のクラスは衣装調整を行っていた。男子は教室で。女子は家庭科室で。
 男子だけにもなると会話は弾む。
 バレー部の出し物のため、当日のクラスの役割がない五色が、手持ち無沙汰に男どもの衣装合わせを眺めていると、男子の一人が茶化すように声をかけてきた。
「五色、最近ミョウジさんといい感じじゃね? お前ら付き合ってんの?」
「は!? んなわけねーだろ!」
 友人にそう返すなり、急に顔が熱くなったのは、でかい声を出してしまったからだと思った。でかい声を出してしまった理由までもは考えもしなかったが。
 確かにこの先、彼女と付き合うことになるかもしれない。いや、なる。でも、まだ告白されていないのだ。ここで五色がそれっぽい反応を見せたら、お前彼女のことが好きなのかという話になる。そんなことになれば、みっともない。あくまでこちらは惚れられた側なのだ。
「でも、ミョウジさん絶対お前のこと好きだよ」
 知ってる。それは随分と前から知っている。けれど、そんなことは微塵も出してはいけない。無関心を装うのだ。
「まぁ、俺はエースになる男だからな。女子にモテて当然だろ」
「そういうところ、ほんと流石だな」
 だろ、と。おだてられりゃ、木にも登るし、空だって飛ぶ。
「俺はミョウジさんなんて眼中にないけどな」
「そうやって言い切るところがすげーよ。俺だったら自分のこと好きになってくれる女子、好きになっちゃうけどなー」
「俺はエースになるんだ。目標は高く。妥協なんて一切しねーよ。女子だって同じだ」
 勿論これは本心ではない。彼女ほど、可愛いと思う子はいないし、彼女ほど、自分の隣にいて欲しいと思う子はいない。けれども勝手に口が滑ってしまったのだ。
 さっきまでケラケラ笑っていた友人の顔が曇りだす。
「何変な顔してんだよ」
「いや、五色。後ろ……」
 指を刺された先。五色の後ろ、教室の出入り口。彼女が立っていた。
 さっきまで熱かった顔が嘘のように冷えていく。
「ま、待って! 待って、ミョウジさん」
 踵を返した彼女を追いかけた。

 とりわけて小さいわけではないが、五色より遥かに小さな彼女に追いつくのは容易だった。がやがやと準備に追われる人たちの声を聞きながら、廊下の真ん中で、彼女の折れてしまいそうなほど細い腕を掴む。
 立ち止まった五色達を、チラリと見るものはいるが、だからといって立ち止まるものはおらず、段ボールを抱えた人や、折り紙で作った鎖を持った人達などが、慌ただしくすれ違ったり、追い抜いたりしながら通り過ぎていった。
「何? 五色くん」
「いや、あの……」
 俯いて頭頂部しか見せてくれない彼女にかける言葉は見つからない。教室で振り向いた瞬間に見た彼女の顔が頭に焼き付いて、そのことしか考えられないからだ。
 あの時、教室の扉に片手をかけて俯いていた彼女の顔には垂れ下がった前髪が目元まで影を落としていた。きつく一文字に結ばれた口は笑っているように緩やかな弧を描いていたが、彼女が絶対に笑ってはいないということは、彼女の洞窟の中を覗き込むような暗い瞳を見れば分かった。
 きっと、五色が彼女にそういう顔をさせたのだ。
 何か言わなければ。けれども、何を言えばいい。
 先程自分は教室で何を言ってしまったのか――それすらも思い出せぬほど、五色の頭はきちんと回ってくれない。
 ああ、クソっ、とこぼして五色は自分の髪を掴むと、彼女が顔をあげた。
 真っ赤な顔。すこし、涙目にも見える。五色の心臓が跳ねたのはきっと、可愛いと思ってしまったから。そして、こんな時ですら。抱いてしまったから。初めて笑顔を向けられた時からずっと胸に潜めていたあの気持ちを。
「私も五色くんなんて眼中にないから」
 秋にしては冷たすぎる言葉が五色の胸に刺さった。聞き間違いだろうか。きっと聞き間違いだ。彼女がこんなこと言うはずがない。
「えと、さっきのは――」
「用がないなら離してくれる?」
 彼女のこんな冷たい声など、聞いたことがなかった。こんな声、出せたんだ。
「離して!」
 悲痛な彼女の声色に、ぎくりと震えた五色の手は勝手に緩んでしまう。いとも簡単に彼女の腕はすり抜けていった。再び五色は手を握ったがもう遅い。何も掴めなかった拳は宙ぶらりん。
 きっと将来五色の隣にいた筈の背中が離れていく。いや、本当に将来隣にいたのだろうか。眼中にないとさっき言っていたではないか。今までの彼女との会話も思い返せば、五色だけが喋っていたような気がする。
 でもちゃんと彼女は笑ってくれていたじゃないか。
 あれは彼女の嘘だったのだろうか。それとも五色の思い違いだったのだろうか。
 次、彼女と顔を合わせることができるのはいつだろう。言葉を交わせることができるのはいつだろう。
 五色は唇を噛んで、俯き、やはり誰もが気にせず通り過ぎていく廊下をやっとの思いで踏み出し、教室へと戻った。