「翔ちゃん、暑いです……」
「クーラー下げる?」
後ろで抱きつく翔ちゃんが言った。
そうじゃないと心の中で叫ぶ。
それは翔ちゃんからのプロポーズを受けた日から一年後――ブラジルでの生活を始めてしばらく経った頃のこと。
その日、翔ちゃんはオフだというので朝から一緒にいた。とはいえ、もう二人で観光して回る日々は終わったので、翔ちゃんがバレーの動画を見ている傍らで私はポルトガル語の勉強をしていた。英語だけ出来ればいいとたかを括っていたのが間違いだった。いざ現地に着いてみると、観光地はともかく地元のスーパーや小さなレストランなど意外と英語が通じない。人間必要となれば本気になるもので、朝から始めた勉強だったが、気がつけば太陽は南に登っていた。
そろそろお昼ご飯作らなきゃとキッチンに向かうと、タブレットから顔を上げた翔ちゃんが「俺も手伝う」とついてきた。それが十分前の出来事で、それから翔ちゃんは私のお腹に手を回し、後ろでずっとひっつき虫になっている。冷蔵庫に歩いても、フライパンを出しても、包丁を握っても離れる気配がない。手伝うのではなかったのか。正直邪魔である。
「翔ちゃん、暑いです……」
「クーラー下げる?」
間違ってはいないけれど間違っている。
確かに今日は蒸し暑い。というか、今日”も”蒸し暑い。肌を合わせていれば尚更だ。だけど本当に暑いからそう言ったわけではなかった。
「翔ちゃん、包丁するから危ないよ」
「大丈夫。邪魔しないから」
十分邪魔なんだけどなぁと思っていると、翔ちゃんは私の首筋に顔を埋めた。翔ちゃんの柔らかな唇があたり、ぞくりと肌が粟立つ。
「好き」
翔ちゃんが呟いた。
「もう、何しにきたの?」
私は包丁を置いて、肩の上で俯く翔ちゃんの方を向く。視界がオレンジで覆われて、その毛先がちくちくと優しく頬に刺さった。
「ちょっとくらいいいじゃんかよー」
翔ちゃんは顔をあげ、駄々っ子の様にむくれた。思わず可愛いと思ってしまったが、いけない、いけない。だって全然ちょっとじゃないんだもん。
どうしたものか。翔ちゃんは時折こんな風に小さな子どもになることがあった。昔付き合ってた時もこんなだったっけと考えていると
「だってナマエはすぐ不安になるから……」
翔ちゃんがぽつりと零した。
「もう大丈夫だよ」
私はいつまでこのことを言われるのだろうかと苦笑する。すると翔ちゃんは顔を擦り付けながら言った。
「俺は大丈夫じゃないのー」
翔ちゃんの私のお腹に回す腕の力が強くなる。
「ナマエにはいっぱい好きをあげたいんだ」
「もうこの一年で沢山もらったよ」
「でも俺の中にはまだいっぱいある。六年も待ったんだ。六年分の好きがまだ、いっぱい、いっぱい、残ってる……」
六年。私はその言葉に思わずその過ぎ去った日々に思いを馳せた。あの頃は、翔ちゃんが言う様に私は本当にどうしょうもないくらい頑なで幼かった。愛は踏み込むものとはよく言ったものだ。ずっと手を差し伸べてくれていた翔ちゃんは一体どんな思いでその六年を過ごしたのだろうか。
私は翔ちゃんの腕を解いて、翔ちゃんに向き直る。
「じゃあその好きはいつか無くなっちゃうの?」
私がそう言うと、翔ちゃんが優しく微笑み、両手で私の顔を包み込んだ。そして額と額を合わせると
「一生無くなりません」
そう言って口付けた。
「んっ……しょう、ちゃん」
私は絶え間なく続くキスの合間に辛うじて声を上げる。
「そろそっ……ん…………離、しっ……」
「だめ」
いつお昼ご飯にありつけるのだろうか。
それは、甘い、甘い金平糖のような日々。