二日にかけて行われた文化祭は例年通り、楽しく賑やかに終わりを迎えようとしていた。片付けを終え、生徒だけの後夜祭が始まる。体育館のステージではバンドによる演奏や歌などが披露され始め、熱気溢れる中、バレー部員に囲まれた五色は一人秋の夜らしく寒々しい顔をしていた。
「工、どしたの?」
 五色を皿のように大きな瞳が覗く。ステージでは丁度バンドが入れ替わり、ドラムのリズミカルな音に合わせ、上の方で鳴るギターが肌を揺らし、ベースが腹の底を震わせ始めたが、この人の声は良く耳を通った。
「あんなに張り切ってた文化祭なのに、この二日間全然元気なかったよね。どうしたの? 前髪にも覇気が感じられないよ」
 マシンガンのように続けざまに喋られる。
「別に。何もないです」
「ははっ、そんな普通に返してくるなんて本当に元気ないみたいだね。そこは前髪は関係ないでしょ! とか言うんじゃないの? 知らんけど」
 ケラケラ笑うこの先輩は心配しているのか。おちょくっているのか。
「俺、本当に何もないんで。大丈夫です」
「はははっ、嘘が下手だね。工は。いいよ、行ってきなよ。行きたいところへ」
 この二日間一生懸命働いてくれたんだし、俺たち先輩に気を使うことはないよ、と付け足される。
「行きたいところ?」
「あるんでしょ? さっきからずっとお母さんを探す迷子みたいにキョロキョロしてるよ」
「お母さんなんて探してませんよ!」
 体育館の熱気に負けないくらい顔が熱くなるのを感じながらそう返すと、また、はははっと感情の読めない笑いが返ってくる。さっきから訳の分からないことを繰り返すこの先輩は、何を考えているのだろうか。首を傾げていると、ほら行った行った、と背中を両手で押された。押されるに任せ、ステージに向かって拳を上げジャンプしている人溜まりを出る。人溜まりを抜けると、後ろにはもう先輩の姿はなく。遠い先でツンツンと上を向いた赤い毛先だけが、人の波の中で浮いているのが見えた。
 天童が言った行きたいところなど五色にはない。けれど、この体育館の熱気は肌にまとわりつき、気分が悪かった。少し風に当ろうと、体育館の出口へと向かう。体育館を出て、扉を閉めると、先程まで鼓膜を大きく振るわせていた軽やかな音楽が急に遠ざかった。外に出ると、冷たい風が体を冷ましていく。澄んだ秋の空に浮かぶ月は、もうすぐ満月か。それとも満ちた時間は終わってしまった後なのか。丸から少し端が欠けていた。

 新鮮な空気を吸い、体調はすっきりとした五色だったが、気持ちは晴れない。きっと文化祭の余韻がそうさせているのだろう。そう考えた五色は体育館に戻ろうと、体育館の扉に手をかけるが、あの人混みを考えると少し気が引けた。戻ってもバレー部に合流できるとは限らないし、友人を見つけられるとも思えない。ともなれば、行き先は決まった。
 灯りの消えた校舎へと向かい、ふらふらと暗い廊下を歩く。後夜祭は自由参加だ。終われば、点呼もなく、皆帰宅する。だからこのまま寮に帰っても問題ないのだ。五色は荷物を取りに教室へと向かっていたのだった。
 一年の教室に面した長い廊下を前にする。等間隔に並んだ窓から淡い月明かりがスポットライトのように差し込む暗い廊下。しかし、五色のクラス四組だけが灯りを煌々と放っていた。誰かが電気をつけっぱなしにしたのだろうか。人のいた形跡に少しの安堵を覚える。月の冷たい光しか差さない廊下は日常からはずっと遠く離れた知らない世界のようで、足音を響かせながら一人で歩いていると、不安に苛まれて、ますます気が滅入って行く気がしていたからだ。もう早く帰ってしまおう。五色は足を進める。その刹那。四組の灯りは突然消えてしまった。あれ? と思うと誰かが教室から出てくる。暗闇の中ではシルエットしかわからないが女子だ。誰だろう? と首を傾げてると、窓から入る光の帯が女子の正体を照らしてくれた。
『行ってきなよ。行きたいところへ』
 天童が言った行きたいとこなど五色にはなかった。しかし、会いたい人ならいたのだと、彼女を前にして思った。
「ミョウジさん」
「五色くん」
 教室一つ分を挟んで互いに足を止める。こうして彼女と目を合わせるのは久しぶりな気がした。恐らく、あの日以来だ。人の行き交う廊下で、眼中にないと言われたあの日、あの時以来。
 けれども彼女を前にした瞬間に、あの日の沈んだ気持ちは嘘だったかのように、五色の心には明かりがポッと灯った。だってこの二日間ずっとずっと会いたかったのだから。ようやく会えたのだから。
 お疲れ、と五色が弾んだ声で言うと、お疲れと返ってくる。
 なんだ。普通に返してくれるじゃねーか。
 そう思うと、次々と話したいことが湧いてきた。
 文化祭、どうだった? 俺はなんでか知らねーけど、あまり覚えていないんだよね。忙しかったからかな。つか、なんで来てくれなかったんだよ。バレー部の模擬店。俺ずっと待ってたんだけど。ミョウジさんが来るのを。
 しかし、その言葉の数々は五色の口から出ることはなかった。勘違いしてしまっていたのだ。彼女も笑ってくれていると。全てはきっと月が欠けているせいだ。満月のように明るく五色達を照らしてくれなかったせいだ。
 じゃあまたね、とそれだけで身をすくめてしまうほどそっけなく言った彼女は何をそんなに急いでいるのか。足早に歩みを始め、五色が口を開く間もなく、五色との距離を詰めて、あっという間にすれ違ってしまう。
「ミョウジさん!」
「何?」
 振り返った冷たい瞳が月明かりを反射させる。びくりと震えてしまった五色は凍えてしまいそうだった。彼女にこんな瞳で見られる日が来るなんて。
 五色の吐いた息はか細く、白く変わっていくような気がした。何も考えられなくなった五色は息を吐き続ける。苦しい。息を。吸わなければ。そう思った瞬間だった。ぽろぽろと。気がつけば、ぽろぽろと。目頭が熱いなんて感じる間もなく、ぽろぽろと。体の全ての熱を奪い取ったかのように熱いものが五色の目からこぼれていた。
「え、五色くん?」
「あぁ、クソっ」
 こんなのカッコ悪い。みっともない。時期エースに相応しくない。拳を握った腕で涙を拭うが止まらない。
「大丈夫?」
 こんな情けない姿を彼女に見られたくなくて、腕で目元を隠していると聞こえた、何? と振り返えられた時とは随分と違う丸い声。
 心配してくれるんだ。五色はあんなことを言ったのに。言われたのに。心配してくれるんだ。
「俺、眼中にないなんて、嘘ついた……」
 掠れる声はやっぱりカッコ悪い。腕で目元を隠したままの姿はやっぱりみっともない。堂々と前を向けない意気地のないところはやっぱり次期エースに相応しくない。だけど。伝えないと。彼女とこんな関係のままでいるのは嫌だ。涙が溢れてしまうほど嫌なのだ。彼女の氷を少しでも溶かすことができるのなら。カッコ悪くてもみっともなくても、次期エースに相応しくなくても。伝えなければ。
「本当は……」
 そう言ってぐっと喉を鳴らした五色は、新鮮な酸素を取り込む。声は掠れてもいい。震えてもいい。だけど、ちゃんと伝わって欲しい。神様。あの欠けた月でもいい。どうか勇気を。
 相変わらず腕に顔を伏せたままの五色であったが口を開いた。
「ミョウジさんのこと、好きだった。ずっと……好きだった」
 だから、そんな冷たい目で見ないで。
「俺のこと、眼中になくていいから……一緒に話したり、笑ったり、なんでもいいから……また俺と、友達でいて欲しい」
 暫く五色の鼻をすする音だけが廊下に響く。
 どうして彼女は何も言ってくれないのだろうか。やっぱり許してもらえないのだろうか。もう、取り返しはつかないのだろうか。
 そう考えると怖くて、顔をあげられない。すると、彼女の方からふっと息の抜けるような音が聞こえた。
 あれ? 今笑われた? 俺、笑われた? まじで。俺がカッコ悪いから? みっともないから? 時期エースに相応しくないから?
 さっきより増して顔がかぁーっと熱くなっていく。いくらなんでもそれは酷くはないか、と腕から顔を上げた。
「え……なんで……?」
 そうこぼした五色は目の前の光景に泣くことも忘れ、固まった。
「なんで、ミョウジさんが泣いてんだよ……」
 月の白い光をキラキラと反射させるそれを彼女は何度も、何度も。何度も手で拭っていた。
「だって、五色くんが泣いてるから」
「泣いてねーよ!」
「泣いてるじゃん!」
 喉からぐうの音だけがこぼれた五色は慌てて頬に残る涙を袖で拭った。その間も彼女はずっと頬を擦っている。
 女子に目の前で泣かれるなんて、小学生以来だ。どうすればいいのだろうか。涙を拭ってやるなんて大層なことはできない。女子の顔に触るなんてハードルが高すぎる。
 途方に暮れてしまった五色は、とりわけて小さいわけではないが、五色より遥かに小さな彼女の頭頂部をただじっと眺めた。
「そんなに泣くなよ」
 そこに置くことが当然であるかのように五色の手は彼女の頭の上に伸びた。バレーボールを掴む感覚とは違うが、やはりここに置くのが当然だったようで彼女の頭の上に手を乗せるとなぜがしっくりくる。彼女もそう思ってくれてたらいいのにという五色の心の声が手を通して彼女に伝わってしまったのか。今日はなぜか、やめてよ、と言われなかった。
 五色の手の下で、彼女の赤くなった頬はリスのように膨らんだかと思えば、空気が抜けた風船のように萎み、つぐまれてた口には弧が描かれる。彼女の涙は止まったのだろうか。涙を拭っていた彼女の手は下ろされ、安心した五色も彼女の頭から手を離した。
「五色くんは後夜祭出ないの?」
「でねぇ、もう帰るとこ」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「え……?」
「一緒に帰ろって」
「あ…………あぁ、うん……わかった」
 鞄取ってくる、と言って五色は教室に向かってとぼとぼ歩き始める。二、三歩進み、四歩、五歩と進む頃には前に出した足が地に着く前に、後ろの足を蹴っていた。そして、七歩、八歩と進む頃には教室に向かって走り出していた。

 雲一つない、爽秋の夜空。昨日が満月だったのか。明日が満月なのか。丸というには少し欠けた月が、足音が慌ただしく廊下に響く中、真っ赤な五色の顔に浮かべられたくしゃくしゃな笑顔を満月よりも柔らかな光で照らしていた。