はっと目を覚ますと、午前三時を回っていた。五色くんの洗濯物はとっくに終わっている時間だ。早く取りに行かなきゃ。
 お化粧したまま寝ちゃったから顔がかさつく。ニキビできてないといいんだけど。そういえば大人になってできるニキビは吹き出物と呼ぶのだと友人が言っていた。

 洗濯物を回収して、五色くんのお部屋にお邪魔する。カードキーを二つ貰っておいて良かった。もう用無しになったそのカードキーを、すでに入っていたカードキーと重ねてホルダーに入れる。
 バスローブを着た五色くんは相変わらずよだれを垂らした口を大きく開けて眠っていた。足の方の布団が捲れていたので、かけ直してあげる。本当に子どもみたい。可愛いなぁ。
 まだ少しホカホカする洗濯物を畳んで、ベッドの前にある鏡台に置いた。
 さて。お仕事も終わったので部屋に帰って寝るかと。思った時。
「ナマエ、さん?」
 突然、背後からかかった声にびくりと肩をあげる。振り返ると、体を起こした五色くんが目を擦っていた。
「どうしたの?」
「トイレ……」
「あぁ、トイレね。こっち」
「はい」
 甘えたような声でそう言った五色くんは、ベッドから出て猫背で歩きながら、部屋のトイレへと向かう。猫背になっても私より背の高い五色くんは、トイレの扉を閉めて、トイレを流す水の音と共にすぐに戻ってきた。
「大丈夫?」
「はい」
 再び猫背で歩く五色くんはベッドに戻り、布団に潜って仰向けになったかと思えば、すこーっと眠りに落ちた。いつも眉の上で切り揃えられている前髪は、真ん中のところで左右に分かれており、ベッドに落ちる横髪と合流している。珍しく顔を出しているおでこは間接照明の光をぴかりと反射させていた。
 本当に可愛いなぁ、と頭を撫でてしまう。おやすみ、五色くん、と心の中で呟き、さらさらの髪の毛から手を離そうとした瞬間。腕を掴まれた。
「ごめん! 起こしちゃ――」
「もっと撫でてくらしゃい」
 薄く目を開けた五色くんは、へらりと笑う。私を誰と勘違いしているのだろうか。確かもう、彼女はいないと聞いていたけれど。
「いいよ」
 五色くんの心にいるその子だと思って撫でられて。

 ベッドに腰掛け、暫く、頭の丸みに沿って五色くんを撫でる。五色くんから気持ちの良さそうな寝息が聞こえてきたので、そっと囁いた。
「じゃあ私帰るね」
「えっ、嫌だ」
 返事が返ってくるとは思わなくて、心臓がびっくりする。起きてたの? それともまた起こしちゃったのかな?
 バクバク鼓動が鳴る中、見下ろすと、眠そうに瞳を開けた五色くんは唇を尖らせていた。
「でももう遅いし……」
「嫌です、嫌です! 今日ナマエさんと全然おしゃべりできてない」
 確かにそうだ。だから、残ったのだ。ここに。まだ、離れたくなくて。
「でももう寝ないと」
「嫌ですっ!」
「えぇっ! 泣かないで」
 何がそんなに悲しいのか。ボロボロ涙をこぼし始めた五色くんは、両手の握った拳で涙を拭う。
 その様子を見て少し心配になってしまった。この子飲み過ぎたらこんなに無防備になっちゃうんだ。ちょっと危なくない? お腹を空かせた狼は男の人だけじゃないんだよ。
「ほんと、泣かないで」
「だってナマエさんが帰っちゃうって言うから」
「でも、もう――」
「嫌です!」
 五色くんはそんなに泣いたら体の水分全部抜けちゃうよと思うくらい涙をこぼし続ける。昔から私はそんな彼を突き放す勇気も度胸もなければ強さもない。多分弱さしか持っていないのだろう。
「じゃあお化粧だけ落とさせて」
「そう言って帰るつもりなんでしょ」
「帰らないよ」
「じゃあ、ここで落としてください」
「流石にここでは……そこの洗面台で落としてもいい?」
 目いっぱい頬を膨らませた五色くんだったけれど、不満げにうん、とうなづいてくれた。

 五色くんの部屋の洗面台に置いてある、一回分のクレンジング剤が入ったサンプルのような袋を開けて、手のひらに乗せる。洗面台の扉を開けっ放しにしているのは、五色くんがそうしてくれと言ったから。
 頬のメイクにクレンジング剤を馴染ませながら、扉の方をチラリと見る。半分だけ見える三角座りをした背中。俺もついて行きます、と言った五色くんは私の背中の服を掴みながらここまで着いてきたのだ。お母さんについて歩く子どもみたいに。
 私は五色くんにとってお母さん的な存在なのかなぁ、とふと思う。お母さんよりお姉ちゃんの方がいいなぁという思考に陥ってしまう私はきっと筋金入りの片思いプロ。五色くんに彼女がいない間くらいはそうやって満足させてよ。
 おでこ、顎、鼻とクレンジング剤を馴染ませていって最後に目を閉じ瞼のメイクを落としていく。これでいいかな、とそっと目を開くと、目の端でこっくりこっくりと船をこぐ背中が見えた。
「五色くんそんなところで寝ちゃうと風邪ひくよ」
「寝てません」
 びくりと肩を上げた五色くんは顔をブルブル振って答えた。そういえば、こないだ会った五歳になる親戚の子もこんな感じだったなぁ。

 お化粧を落として、クレンジング剤と共に置いてあった、一回分の化粧水、クリームと袋の封を切り、顔に馴染ませた後、五色くんとともにベッドに戻る。
 帰りも五色くんは、私の背中の服を摘んでいた。服で優しく胸を引っ張られる感覚が心地良い。
 五色くんがベッドの上で腰掛けようとするので、そのまま寝ても大丈夫なように横になるよう進める。えー、と駄々っ子になった五色くんだったけれど、それなら帰っちゃうよと言ったら意地悪ナマエさん、と言ってすごすごベッドに入っていった。布団を肩までかけて仰向けになると、再びおでこを露わにする。
 五色くんの隣に腰掛け、オレンジの光の下、五色くんを見下ろした。
「大学はどう?」
「大学はぁ……単位、やばいです」
 いつものハキハキとした喋り方よりも力なく感じる可愛い話し方で返ってくる。
「えー……留年しないでよ」
「ナマエさんが応援してくれるならしませんよ」
「そんなに単位って安いの?」
「ちょー高いってことっす」
 多分五色くんは天然のたらしなのだと思う。ターゲットは年上女性。まんまとやられた被害者Aさんは私です。
「ナマエさんは? お仕事じゅんちょーでふか?」
 でふか? 眠いのかな。
「順調といえば、順調かな? 毎日代わり映えしないって感じ」
「俺といっ……」
 五色くんは目をぎゅっと瞑って、大きなあくびをする。あくびを終えると、口は満足げに閉じられたが、瞳は暫く待っても開かれることはなかった。えー? 今ので寝ちゃったの? 五色くんの閉じられた口が何かを噛むように動いている。話の途中で急に寝ちゃった五色くんはどこまでも子どもになってしまったようだ。今度は起こさないように、そぉっと立ち上がろうとベッドに手をつく。手に体重をかけ、腰を上げようとした瞬間に腕をぎゅっと掴まれてしまった。
「え? あれ?」
 五色くんの瞳は閉ざされたまま。眉は力なく垂れ下がっており、口は半開き。寝てるんだよね? 腕に巻きつく長い指を外そうと、その指と私の腕の隙間に自分の指を入れようとするけど、ガッチリと掴まれているためか、全く指が入らない。どうしよう。
「ナマエさん、すき」
「え?」
 寝言? 五色くんの瞳は相変わらず閉ざされたまま。
 でも知っている。力なく発せられたその言葉はきっと聞き間違いだ。聞き間違いじゃなくともそういう好き、ではないことを私は知っている。ずっとずっと前から知っている。
 それなのにドキッとしてしまって馬鹿みたいだ。諦めたと思っていたのに。こんなんだから、片思いプロを辞められないんだろうなぁ。
 再び腕を掴む骨張った手と格闘する。中身は子どものようだったけれど、手の見た目も、入れられた力も大人の男の人の物だ。うーん、離れない。どうしよう。突き指させちゃったらと思うと怖くて、五色くんの指を掴む手にあまり力を入れられない。
「帰るの?」
 またしても突然声がかかり、びくりと体が震えてしまった。
 そうやって突然起きるのやめて欲しい。心臓に悪い。五色くんは瞼を重そうにしてこちらを見上げている。
「うん、もう帰るから離して?」
「嫌です。今日全然お話してないので」
「さっきいっぱいお話したよ」
「嘘です……ナマエさん嘘ついてる」
「嘘ついてないよ」
「嘘つくから離さないで……ぇふ」
 途中であくびを入れる五色くん。こんなに眠そうにしてるのに、夜更かし大好き五色くん。
「でももう寝ないと」
「ナマエさん寝たいの?」
「ちょっと眠いかな」
「じゃあ一緒に寝ましょう」
「えぇえっ!」
 本当にこの子大丈夫かな? 私が悪いお姉さんだったらどうするんだろう。五色くんなんて簡単にぺろりと食べられちゃうよ。
「俺、何もしませんよ」
 涙ぐまれる。
「うん、それは分かってるんだけど」
 絶対に五色くんは何もしてくれない。
「ナマエさんのそばにいたいだけなんです」
 本当にそばにいたいだけなのだろう。鼻を摘んでやった。
「いでっ!」
 人の気も知らないで。
「帰るなら、離さないですよ」
 そして、結局折れてしまう。ちょっとだけ添い寝してあげよう。させてもらおうと。お姉ちゃんならこれくらいはなんて、自分で言ってて寂しくなるような言い訳を、五色くんと自分にして。
「じゃあ着替えてくるから離して」
「そう言って帰るつもりなんでしょ」
「帰らないよ」
 
 五色くんの部屋に残っていた、腰のあたりに紐がついたタオル生地ではないローブを待ってトイレに入る。五色くんはやっぱり私の背中の洋服を摘みながらついてきた。流石にトイレの扉は閉めさせてもらって、着替えて開けると扉の横では五色くんが三角座りをしながら船に乗り旅立ってしまっていた。
「五色くんそんなところで寝てると風邪ひくよ」
「寝てません」
 五色くんはぶるぶる顔を振ってこちらを見上げると、目をキラキラに輝かせた。
「ナマエさん可愛い!」
「へ……」
 久しぶりに聞いたその言葉。五色くんは、勢いよく立ち上がったかと思えば、私の肩に腕を回してぎゅうと抱きついてくる。私のほっぺはぎゅうと五色くんの胸に押しつけられた。
 待って。理解が追いつかない。今何が起こってるの? お姉ちゃん役はどこまで許されるの? これは流石にアウトでしょと五色くんの胸を押すが、全く気にする素振りを見せないというか、胸を押されているなんてまるで気づいていないかのような五色くんに膝の下に腕を通されそのまま抱き上げられてしまった。
「五色くん!?」
 思わず五色くんの首に抱きついてしまう。そして、五色くんの肩に顔を埋めてしまう。五色くんの髪がほっぺに当たる。五色くんの匂いがする。だめだ。五色くんのこと以外何も考えられなくなる。というか、私も五色くんに抱きついちゃってるじゃん! だめじゃん!
「連れて行ってあげます」
「お、おろして!」
「やっぱり可愛いです、ナマエさん。好きです」
 もう。そういう好き、じゃないのは知ってるんだからね。
 高校生の時だって、可愛い可愛いって毎日言ってくれてたのに、五色くんは私が卒業したらすーぐに他の女の子と付き合っちゃったの。知ってるんだからね。私ばっかりがその気になっていたこと。知ってるんだからね。だからもう、その気になんてなってやらないんだからね。

 そうして抱き抱えられたまま連れて行かれたベッドで五色くんと並んで、横になる。五色くんはすーぐに寝ちゃう。
 降ろしてもらうと、好きな人とベッドインしたにもかかわらず、すっかりと通常運転に戻ってしまった私は、さっきの自分の慌てふためきようは、いわゆる、つり橋効果だったのだと悟った。落ちるのが怖いよ、のドキドキが頭を五色くんでいっぱいにしたのだと思う。いや、違うか。
 隣を向くと、こちらを向いて眠る五色くんは安心しきった様子で眉を緩ませていた。短めのまつ毛をぎっしりと生やして、すっと通った鼻筋の先には色素の薄い唇がある。
 あーあ。本当に可愛いくて、本当に、かっこいいなぁ。泣きそうになるくらい。五色くんが眠ってる隙にキスの一つでもできれば良かったのに。
 前髪からはみ出たおでこにデコピンしてやりたい気分だ。でも、ちゃんと、何もせずに帰るよ。キスもデコピンもせず、ちゃんと。
 布団をめくって、こっそりとベッドから出ようとすると、後ろからお腹に手が回った。
「え?」
 そのまま引き寄せられ、またぎゅーっとされる。
「五色くん?」
 今度は起きてくれない。なんて、なんて都合のいい展開。これじゃあ帰れないじゃん。帰りたくても、帰れないじゃん。
 五色くんの寝息が首筋にかかり、五色くんの鼓動が一定のリズムでドクン、ドクンと背中から伝わってくる。これってまずいんじゃないの? ちょっとだけのつもりだったんだよね、と片思いプロとしてのプライドが囁くけれど、目から涙がこぼれ落ちた瞬間にそのプライドは崩壊していった。
 眠さが限界だからか、それとも五色くんの腕の中だからか。随分と心地が良く。背中が温かいなぁ、もう、いいやと目を閉じる。
 ただ寝るだけ。ただ寝るだけだから、今日だけは許してください。
 お腹に回してくれた腕に手を重ねると、意識が溶けていく。
 好きだよ。まだ、五色くんのこと。大好きだよ。
 抱えきれず。それでも捨てきれないこの思いと一緒に、意識も体も溶けていく。