※五色が下ネタをばんばん言ってます※

 目が覚めると、知らない天井。普段と違う質感のシーツ。昨夜はホテルにでも泊まったのか。なんでだ? と思いながら寝返りを打って、心臓が止まる。
 なんで! なんで隣にナマエさんが寝てんだ!?
 思わず飛び起きた。

 とりあえず、体を起こす。ドキドキドキドキ、心臓が耳元でなっていたが、隣で肩まですっぽり布団を被り、すやすや寝息を立てているナマエさんを見ると、可愛いなぁとぼうっと眺めてしまう。
 ちょっとだけほっぺ触ってみてもいいかな。触ったらきっと柔らかいんだろうな。
 ナマエさんのほっぺに吸い寄せられるように人差し指を伸ばし、もうすぐ触れるというところで、ぐっと堪えた。こんな行為、寝ている女性に対して失礼だ。悲しいことにナマエさんは俺の横で寝てていい人じゃない。連絡先すら教えてくれないただの先輩でしかない人なんだ。
 邪な考えを払うべく、顔をブルブル横に振る。瞬間、凄まじい吐き気。乗り物酔いでもした気分だ。頭もトンカチで叩かれ続けているようにガンガンする。これは二日酔いか?
 今にも戻しそうな口を手で押さえながら、ナマエさんを起こさないようにそっと、ベッドの端によった。
 色々な意味で痛い頭を両手で抱える。どうしてこんな状況になったんだ。昨夜のぼやぼやとしている記憶をなんとか辿り始める。
 昨夜は、白鳥沢バレー部の同窓会だった。久しぶりに先輩や、同級生、後輩に会って、楽しく飲んでいた。
 でも、ナマエさんとはテーブルが違ったんだ。同じ代といる方が落ち着くといった様子で、ナマエさんは牛島さんたちと同じテーブルについていた。
 ナマエさんとは、こういう皆が集まるような機会でもなければ会えないのに、このままでは、今回はナマエさんと話ができず仕舞いで終わってしまう。そう思って、会もそろそろ終盤戦だし、今のうちに席を変わってもらおうと立ち上がろうとした時、坊主頭の天童さんに絡まれたんだった。
 今回の同窓会は、天童さんの帰国に合わせて開かれたようなものだった。天童さんとの絡みは久しぶりだったし、次いつ会えるかなんて分かったものじゃない。天童さんともちゃんと話をしとかないとな、とそのまま天童さんと話し込んでしまった、ような気がする。記憶がだんだんと怪しくなってきた。
 天童さんとはいつまで話をしていたんだ? 話しかけられてからずっと話をしていたような気がする。いつものようにからかわれて、いや、久しぶりに、褒められていた。こないだの試合見たよ。ついに若利くんの背中が見えて来たんじゃない? と。それで、さすが天童さん。天童さんは俺のことちゃんと見ててくれていたんですね。もっと言ってくださいよと思いながら、近くにあった水の入ったコップを手に取り――そこから記憶が全くない。
 そういえば、水を一気に飲み干した後、慌てた様子の天童さんに持っていたコップを奪われたような気がする。工!? それお酒だよ! 大丈夫!? そんなことを言われていたような気がする。
 あれは、水ではなかったのか?
 だめだ。そこから先がどうしても思い出せない。
 あーくそ。頭を掻きむしり、思い出そうと粘るが、水、いや、酒か。酒を飲んだ後の記憶が真っ白に塗りつぶされていて、覗くことができない。
 多分、いや、絶対、記憶がないのは酒のせいだ。記憶が飛ぶのは今回が初めてじゃない。やらかした時は大体こういう吐き気と頭痛で目が覚める。そこまではいい。そこまではいいんだ。でも、どうして隣にナマエさん? 俺はあのまま潰れたのか? それを介抱してくれたのがナマエさん? ナマエさんは夜通し介抱してくれていたのか?
 ナマエさんの未だ穏やかな寝顔をじっと見つめる。やっぱり可愛いです、ナマエさん。ほっぺ触りたいな。少しくらいなら――って待てよ。伸ばした人差し指から続く腕にかけて、肩、胸と。やたら肌色が目につく。まるで服を着ていないみたいじゃないか。
 自分の体を軽い気持ちで見下ろす。さーっと血の気が引いていき、ぶっ倒れそうになった。
 俺。今服――着てない。上半身、服。着てないです!
 見たいような、見たくないような。いや、ちゃんと見るべきだ。凄じい緊張感に包まれながら、布団をめくって自分の下半身を確認する。下着のみの着用。慌てて布団を閉じた。
 アウトだっ……! これ完全にアウトだっ……! 酔った勢いでなんて最悪だろ、俺っ……!
 うぅっ、泣きそう。昨日の俺何してくれてんだよ。心臓は止まりそうな気分なのに、鼓動は大きくなっていく。呼吸はしようと思わなければ、止まってしまいそうだった。
 動かし辛い首を動かして、隣で眠るナマエさんに視線を戻す。
 果たして目の前のナマエさんは、服を着ているのか。
 肩まで布団を被っているから、口から上しか見えない。こんな時でもナマエさん、可愛いって思ってしまう。でも、今はそれどころじゃない。
 もし、俺だけがパンイチで、ナマエさんがちゃんと服を着ていれば、まだセーフの可能性はある。多分、たぶん……そうだ! 例えば、暑くて最初からパンイチで寝ていただけとか。
 いやでも、ナマエさんが隣で寝ている時点で……いやいやいや、考えるな、考えるな。悪いことは考えるな。
 そして、ナマエさんが服を着ていなければ、完全にアウトだ。
 確認しないと。確認して、真実を知らないと。生唾をごくりと飲み、震える手で、ナマエさんの口元にある布団に触れた。
 待て、工ッ!
 布団をめくってナマエさんが服を着ていなかったらどうするんだ。ナマエさんの裸を見てしまうということになる!
 無理です、無理です! 俺にはできません! そんなこと、俺にできるわけないです!
 あぁ、くそ。どうなってんだ。再び頭を掻きむしる。毛が何本か抜けてしまい、手に絡まったそれを眺めてふと気づいた。
 昨夜。俺はちゃんとできたのか?
 だって。記憶が飛ぶほど泥酔していたんだ。ちゃんと勃ってくれたのか?
 かつて、それで失敗したことがある。その時は、こんなことになるなら飲むんじゃなかったと涙が滲むほど後悔した。記憶のある状態でその体たらくの俺が、ちゃんとできたとは思えない。ということは、俺セーフ!?
 いやでも、ナマエさんだ。ずっと憧れてた、あのナマエさん相手なんだ。一世一代の大プロジェクトとして望んで成功させた可能性は高い。失敗していたとしても、あのナマエさん相手だ。いつかはあなたの隣にと思っていたのに結局届かなかったあのナマエさん相手なんだ。タガの外れてしまった欲情に任せて、あんなことやこんなこと――あ、やばい。想像したら下半身が。
 落ち着け。まず、落ち着け、俺。深呼吸をしよう。目を閉じて、集中するんだ。いつもやってるだろ。プレー中を思い出せ。プレー中を。
 真っ暗闇の中、呼吸をすることだけに集中する。鼻で息を吸って、肺全体が膨らむのを感じたら、ゆっくり口から息を吐き出していく。そうすると、自ずと余計なことは思考から外れていくんだ。
 頭の中では脳みそがグラグラ揺れてはいるが、やっと落ち着いてきた気がした。かと思えば、背筋が凍る。高校時代監督にどやされていた時とは比べ物にならないほど背筋が凍る。落ち着いたら落ち着いたで、妙に頭が働いてしまった。
 もし、もしだ。もし、あんなことやこんなことをしていたとして。それはちゃんと、合意だったのか。間違っても嫌がるナマエさんを無理やりなんてことはしてないだろうな。昨日の俺!
 自分で言ってて悲しくなるけど、ナマエさんが俺のことを好きだなんて話、聞いたことがない。それに、ナマエさんは酒に酔った勢いでこういうことをする人か。
 また大きくなっていく鼓動に合わせて頭の痛みが酷くなっていく。
 自分が好きな女性を無理やり自分のものにするというような最低な男ではないと信じたい。信じたい、けど! 記憶がない! 記憶がないんだ! そして自信もない! ナマエさんのことがこんなにも大好きなんだ。同窓会の知らせがくれば速攻で日程を調整して、どんなに日程がきつくても顔だけは出す。例え、沖縄にいて、北海道で同窓会やると言われても、絶対顔だけは出してやると思うほど大好きで、いつも会いたい会いたいと思っているんだ。それなのにナマエさんの連絡先すら知らず、普段はお預け状態。自分で言うのもなんだが、飢えた狼状態だ。獰猛で猛々しい狼状態なんだ。そんな自分が、理性の吹っ飛んだ状態でナマエさんを前にして、何をするかなんて分かったものじゃない。現に、さっきまで何度もナマエさんのほっぺを触ろうとしていたじゃないか、俺は!
「あぁああぁあぁぁああっ!」
 背負ってしまったものに耐えきれず頭を抱えて叫んだ。背中が重い。背中が重すぎる。
 俺はなんてことをしてしまったんだ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!
「五色くん?」
「ヒィっ」
 急に声がかかり、びくりと肩を上げる。もう泣いてしまいそうだったけど、我慢して、でもぶるぶる震えるのは抑えることはできず、声の方へ向くと、隣で眠っていたナマエさんは眠そうに瞼を重くして俺を見上げていた。
「大丈夫?」
「あ……はい、起こして、すみません……」
「大丈夫だよ」
 ナマエさんは微笑みかけると、被っていた布団をめくろうとする。ナマエさんの裸! と思い、反射的に両手で顔を覆った。
「何してるの?」
「いや、あのっ……そのっ……」
「あぁ、大丈夫だよ」
 何がですか!? 見られても大丈夫って意味ですか!? ということは、俺たちは合意の上でそういう関係に至ったってことですか!?
「服ちゃんと着てるから」
「あ、はい。そうですよね。はい」
 ほっとしたのか、がっかりしたのかよく分からない気持ちで、でもナマエさんの裸を一瞬でも意識してしまった手前、目を合わせるのはなんだか気恥ずかしくて、指の間からチラリと覗く。ウエスト部分を紐で締めるガウンを着たナマエさんの座っている姿が見えて、心臓が飛び跳ねた。
「そ、それもダメですよっ……!」
「え? そうなの? あ、そっか、そうだよね、ごめんね。はしたないよね」
「そうじゃないです! そうじゃないんです! とてもいいからダメなんです!」
 見ちゃダメだと分かっているのに、指の間を閉めることができず、ナマエさんをガン見する。なにそれ、と可笑しそうにくすくす笑うナマエさん。あぁ、可愛い。可愛い。この姿を目に焼き付けとかないと、と思っていると、着替えるからあっち向いてて、と言われ、手を顔に当てたまま、あっちを向いた。
 あー、心臓の鼓動が痛い。多分もう、一生分は鳴った気がする。
「もういいよ」
「はい! ありがとうございました!」
「え? 何がありがとう?」
「いえ、なんでもないです!」
 素敵なお姿をありがとうございました、と思いながらナマエさんに向き直る。ナマエさんは、ベッドの前にある椅子に腰掛けていた。化粧をしていないナマエさんを見るのは久しぶりだ。卒業して、化粧をするようになったナマエさんは本当に大人っぽくて、もともと大人っぽい印象だったけれど、なんといえばいいのか。白鳥沢のウインドブレーカーが似合う清楚系おねーさんから、ワンピースの似合う綺麗系おねーさんに変わったって感じ。けれども、今はマネージャーをやってくれてた頃に戻ってる。爽やかで、優しそうで、可愛い。
「五色くんの洋服は、五色くんが戻しちゃって汚れちゃったから脱がせたの」
 え、ナマエさんがですか!? と、顔に出ていたみたいで、ナマエさんが慌てた様子で両手の平を俺に向けて振って見せた。
「私がやったんじゃないよ。五色くんの代の子たちがやってくれたの」
 安心したような、残念なような複雑な気持ちになる。いや、服にゲロをぶちまけてるんだ。そんな姿をナマエさんに見られたら駄目だろ。
 ということは、結局昨日は潰れて、皆に散々迷惑をかけて、ここに連れてこられたのか。うぅっ、情けない。
「それで、後輩たちが五色くんにバスローブを着せてあげてたはずなんだけど……脱いじゃったみたいだね」
 苦笑するナマエさんが顔を向けた先を見ると、ベッドの横に脱ぎ捨てられたバスローブが落ちていた。
「す、すみません……」
「大丈夫。高校生の時にその姿は散々見慣れてるから」
「俺はもう高校生じゃありません!」
「そうだね、ごめんね」
「あ、いえ、もう子どもじゃないってことが言いたかっただけで、謝って欲しいわけでは……」
 ナマエさんは、分かってるよ、と優しく微笑む。
 本当に分かってくれているんだろうか。一人の男として俺を見てくれているんだろうか。と思って、ぎくりと思い出した。ナマエさんのローブ姿や久しぶりのすっぴん姿に浮かれて忘れていたが、肝心なことをまだ、聞いていない。
 ここにいる理由は分かった。パンイチの理由も分かった。だからと言って昨夜ナマエさんとは何もなかったとは限らない。
「五色くんの洋服はちゃんと洗濯してここに置いてあるから」
 ナマエさんは、ナマエさんの後ろにある鏡台を指さす。そこには昨日俺が着ていた服が綺麗に四角く畳まれて置いてあった。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
 ナマエさんが立ち上がろうとして、慌てて、待ってください、と声をかける。
「どうしたの?」
 ちゃんと、確かめなければ。セーフか、アウトか。そして、俺はクソなことをしていないか。
「いや、あの、その……起きたらナマエさんが隣にいて……でも、俺、記憶が……」
「あぁ、大丈夫だよ」
「へ?」
「昨日は何もなかったから」
「あ、はい……」
 じゃあ、なんでそんな風に悲しそうな顔をするんですか。それじゃあまるで、何かあった方が良かったって言ってるようなもんじゃないですか。
 俺は、分かってしまったかもしれない。
「じゃあ、なんで俺の横で寝てたんですか?」
 驚いたようにへっと漏らしたナマエさんは、頬をかきながら困ったように微笑む。じっと見つめると、すっぴんのナマエさんの顔は微笑んだまま固まり段々と赤く染まっていった。それでも見つめ続けると、ナマエさんは耐えられないと言わんばかりに俯く。ナマエさんのきつく結ばれた唇は震えているように見えた。
 やっぱり分かってしまった。ナマエさんの気持ちが分かってしまった!
 ナマエさん。別にそんな泣きそうな顔をしなくてもいいですよ、俺は嬉しく思っているんですから。だって、俺たち両思いってことですよね!?
「その…………本当は私用に部屋も取ってたんだけど……」
 顔を上げてぎこちなく笑うナマエさんの顔がますます赤くなっていく。
 いいですよ、ナマエさん。そのまま俺に思いの丈をぶつけてください。俺のそばにいたかったんでしょ。俺はナマエさんの全てを受け止める準備はできています。だって、俺もナマエさんのことずっとずっと好きだったんで!
「その……部屋に帰ろうとは思ったんだけど……」
「はい!」
「五色くんにぎゅってされて……」
「へ……?」
 俺が、部屋に帰ろうとしたナマエさんに抱きついてしまったの?
「それで……そのまま寝ちゃって……」
「あ、えと……それは……」
 ナマエさんがまた恥ずかしそうに俯く。線審に勢いよく旗を上げられるのが見えてしまった。
 つまりは、何もなかったけど、俺は部屋に帰ろうとしたナマエさんに抱きついて、無理やりナマエさんをベッドに引きずり込んだというわけですね――いや、これ何もなかったのうちに入らないだろ! 昨日の俺何やってんだよ!
「す、すすす……すみませんでしたっ!!」
 布団から飛び出し、両手をついてベッドの上に頭を押し付ける。その勢いで頭がぐわんぐわん揺れて、吐きそうになったけど、飲み込んだ。
「え! 違う、違う! 謝らないで。五色くんのせいじゃないから。私がしっかりしなかったのが悪いんだから。ごめんね」
 ナマエさんの慌てるような声が降ってくる。
「いえ! 俺が悪いです! 絶対に俺だけが悪いです! 本当にっ……本当にすみませんでした!」
 ナマエさんにそんな狼藉を働いてしまって……!
 もしかして、俺殺されるんじゃ……こんなこと先輩方に知られたら多分。いや、絶対殺される。
「ほんと、謝らないで! 五色くんのせいじゃないから!」
「いえ! ナマエさんを無理やりベッドに引きづり込んだ俺が悪いです!」
「あっ、違う違う。そんな感じじゃなくて、五色くんは子犬みたいな感じで――」
「子犬!? 狼、ではなくて……?」
「狼? 全然そんな感じじゃなかったよ。だから安心して」
 宥めるように言うナマエさんは多分俺をフォローしてくれているんだろうな。そりゃ、ナマエさんによだれを垂らした狼と怖がられていないことには安心したけど、俺はナマエさんにとって子犬でしかなかったのか。そう思うと、ベッドのシーツしか見えない視界がちょっと霞む。
「本当にね、私が悪いの。つい、幸せな気分になっちゃって……」
「へ?」
 急に思っても見なかったことを言われ、ベッドに押し付けていたおでこをあげた。
「じゃなくて!」
 じゃなくて!? じゃあ、違うってこと!? 俺に惚れて幸せな気分になったというのは違うってことですか!?
「今度からはこんなになるまで飲んじゃダメだよ! 今回は事故って聞いたけど、気をつけないと悪い女の人に悪戯されちゃうからね」
 顔をあげると、ナマエさんは目も合わせてくれず、さっと走って部屋の扉へと向かってしまった。そして、ドアノブに手をかけながら真っ赤にした顔だけを俺に向けて。
「私ですら我慢するの辛く、て……や、結局我慢できなかったんだけど……じゃなくて……あれ? 何の話だっけ……? ごめん! なんでもない!」
 言い切るや否や、バタンっと大きな音を立てて扉を閉め、部屋から出て行ってしまった。
「え、まっ……」
 今のなに!? 今のなんですか!? “我慢するの辛くて”!? なんで!? “結局我慢できなかった”!? 何を!? 昨日本当に何があったんだ!?
「ナマエさん!」
 ベッドから飛び降り、部屋の扉へと走る。そして、ドアノブに手をかけようとして、自分の素足が目に入り、パンイチじゃねーかと気づいて落ちているバスローブへ走る。無残に床にへばりついたバスローブを拾って、震える手でもどかしく思いながら体に巻き付け、再び扉へ走ってようやく扉を開けた頃にはナマエさんはもういなかった。
「なら、連絡先教えてから帰ってくださいよっ……」
 がくりと誰もいない廊下で膝をつく。暫く動けないで廊下のくすんだ白いカーペットの毛を一本一本眺めていた。
 俺、もしかしてナマエさんにからかわれたのか? ナマエさん俺のこと子犬としか見てないみたいなこと言ってたよな。いや、でもナマエさんはそうやって人をからかうような人じゃないだろ。クソ! 昨日本当に何があったんだよ!
 それにしても、最後に見せてくれたナマエさんの赤い顔。素敵だったな。バレンタインを思い出すなぁ。高一の時に一回しか訪れなかったあの舞い上がりすぎて失神すんじゃないかと思った瞬間。あの時もナマエさんチョコを持ってあんな顔してたなぁ。あの姿、また見たいな。
「大丈夫ですか?」
「へ? あ、ああっ大丈夫です」
 宿泊客だろうスーツを着た同い年ぐらいの男性に声をかけられ、慌てて、立ち上がる。これからお勤めですか! お疲れ様です! と心の中で叫び、頭を下げて、部屋に戻ろうとドアノブに手をかけた。がちゃがちゃとドアノブを動かす。開かない。
 オートロック……かかってるっ!
 歯を食いしばり、思わず、上を向いて目をぎゅっと瞑ると涙が滲み出た。