もしかして、目の前に立つ五色くんは怒っているのだろうか。仁王立ちになり腕を組んで唇を尖らせながら私を見下ろしている。
 五色くんがこんなにも不満な様子を滲み出しているのは、私が五色くんを部活前に呼び止めてしまったからだろうか。きっと、そうだ。なんて、配慮のないことをしてしまったのだと後悔した。
「で、話ってなに?」
 早くして、と急かすように、爪先で地面を何度も踏みつけ土埃をあげる五色くんに、やっぱりなんでもないよ。もう部活行っていいよ、と言いかけそうになったけど、ぐっと留まる。これだけ彼を怒らせてしまったのだ。きっともう気まずくて五色くんに話しかけられないであろう私は、このチャンスを逃せば、ずっとこの気持ちを心に眠らせたままむず痒い気持ちで、女子に囲まれる五色くんを見ながら高校生活残り二年を過ごすことになってしまう。それなら、今当たって砕けて、どうせ、私にはもうチャンスないし、とやっぱりむず痒いけど諦めた気持ちで、いつかたった一人を隣に置く五色くんを見ちゃだめだと思いながらも眺めて高校生活残り二年を過ごした方がマシだ。
 冬の冷たい空気を吸って肺を膨らませる。
「五色くんが好きです!」
「で?」
「で……?」
 声を裏返しながらした精一杯の告白をまさか、で? と返されるとは思わず、おうむ返しをする。
「ミョウジさんは俺とどうしたいんだよ」
 改めて聞かれると困る質問、”どうしたいんだよ”。果たして、私は五色くんとどうしたいのだろうか。
 首筋を凍てつく風が通っていくのに、こめかみからは汗が流れる。
 草一本生えてない寂しい地面の乾いた土を眺めながら答えた。
「五色くんと、もっとおしゃべり、とか、したいです」
「なにそれ」
「え? ごめん……私何か変なこと言った?」
「別に。変なことは言ってないけど」
 慌てて顔を上げると鬱陶しそうに顔を背けた五色くん。冬の寒さよりも私の体を冷やす五色くんのそっけなさ過ぎる態度に、これはもう当たって砕けろという、振られるだけ以上の状況になってしまっているのではないだろうかと心配になる。
 もしかして、私。五色くんに嫌われてる?
「俺と付き合いたいとか……そんなんじゃねーのかよ」
「あ、はい。そうです……付き合いたいです」
「じゃあ、初めからそう言えよ」
「うん……ごめん……」
 なんで私怒られてるんだろう、と得体の知れない居心地の悪さに包まれながら言われるがままに、もう一度告白し直す。
「私と付きあ――」
「いいよ」
「え?」
「だからいいよって言ってるんだけど」
 五色くんは相変わらずそっぽを向いたまま。
 今、何が起こったのか。展開が早すぎて、思考回路が追いつかないでいた。
「俺、もう部活行ってい?」
 はい、どうぞ、となぜが敬語で返すと、じゃあ、と言って五色くんは背中を向けてしまった。離れていく背中から、さみぃと聞こえ、広い肩が上げられるのを見る。風が吹く度に、落ち葉の転がる音がカサカサと鳴る校舎裏で一人残された私の脳は、先ほどの五色くんとのやり取りを未だ処理しきれていなかったようだったけど、五色くんの鼻もほっぺも耳の先も真っ赤だった理由は理解したらしい。確かにここは、寒いよね。赤くなった指先を擦り合わせながら私も五色くんに背を向け、下校路に向かった。

 おそらく、私は五色くんに告白をした日、五色くんの彼女になった。でも、五色くんとの関係はなんら変わらないように感じる。朝教室で会い、おはよう、と言えば、いつものようにおはよ、とだけ返ってきて、五色くんは自分の席に向かっちゃうし、お昼休みはお互い友達同士で過ごすから五色くんと一言も会話を交わすことがない。放課後になって勇気を出して、バイバイって言いに行けば、いつものように、おう、とだけ返ってきて五色くんは部活に行ってしまう。そして、私が下校してしまえば、五色くんの連絡先を知らないので、五色くんとの接点は皆無になる。本当に五色くんとの関係は告白する前となんら変わらないので、もしかして、私が五色くんに告白したというのは私の夢だったのだろうかと思う始末。
 いや、きっと、夢だったのだろう。五色くんのことが好きすぎて、願望を夢に見てしまったのだ。そうでなければ、付き合いたてのカップルにこんな離婚寸前の夫婦みたいな殺伐とした空気が流れる筈ないもん。
 そう思い始めたのは、五色くんに告白をしたと思った日の翌週のことだった。
 じゃあ、夢から学習して本番は、五色くんの部活前とかじゃなくて、五色くんにとって都合のいい時間帯で、五色くんの機嫌がいいタイミングを見計って告白をすればいっか、と、半ば自分に言い聞かせるように無理のある思考を働かせていると、お昼休み、急に五色くんに話しかけられた。
「今日部活終わるの、七時だから。普段は自主練するけど、今日はそのまま帰る予定」
「あ、うん、部活頑張ってね」
 突然の五色くんからの部活スケジュール報告に驚きながらそう返すと、五色くんも驚いたように目を見開いたかと思えば、訝しむように眉を寄せる。
「ミョウジさん、徒歩だろ」
「何が?」
「登下校の時だよ!」
 教室中に響く大きな声。クラス皆からの視線を集めたが、ぱっつん前髪の下で眉をキリッと上げている五色くんは気にする素振りもなく怪訝そうに目を細めて私を見下ろす。
「あ、うん、徒歩で学校に通ってるよ」
「じゃあ、今日家まで送るから」
「え……? なんで?」
「ミョウジさんは俺ともっと話がしたいんだろ! だから、今日は家まで送ってやるって言ってんだよ!」
 再び、大きな声を出され、やっぱり私が告白したのは夢では無かったのだと知る。
「ありがとう……」
「そういうことだから今日は七時まで待ってろよ!」
 怒ったように顔を真っ赤にさせながらそう言った五色くんは私がうん、と頷くや否や、食堂混むから早くしろよ、と言う友達の元にどかどかとガニ股で向かって行った。笑うんじゃねーよ! とこれまた元気すぎる声で友人に向かって叫んだ五色の背中をぼんやりと眺めていると、いつもお昼ご飯を一緒に食べている友人に肩を叩かれ現実に引き戻される。彼女に、やっぱりちゃんと付き合ってんじゃん、と脇腹を肘で小突かれた。
 五色くんの私に向ける態度は決して恋人に向けるような甘いものではなかったから、本当にそうなのかな、と一度は首を傾げたけど、そうだったら嬉しいな、と思うと私の心はすぐに舞い上がった。

 その日の午後からの授業は全く頭に入らなかった。私の席は教室の真ん中の方なので、一番後ろの一番端に座る五色くんの姿は見えないけど、斜め後ろにいるはずの五色くんのことが気になって、気になってしょうがなかったからだ。時間が過ぎるのもいつもより遅いように感じた。
 帰り楽しみだな。五色くんとどんなお話をしようかな。
 そして、やっとやってきた放課後。ホームルームが終わると同時に走って部活に行ってしまった五色くんの背中を見送り、教室で集中できない頭をなんとか働かせながら今日出た課題をやり始める。課題を終える頃には、教室は私一人っきりとなっており、時計を見ると約束の時間、七時まであと一時間。まだまだ時間あるなぁと思った瞬間、ようやく気付いた。
 どこで五色くんを待ってたらいいんだろう。何も言われていないし、確認もしていなかった。
 体育館? 昇降口? どうしよう。友達にメッセージを送って相談するけれど、こういう時に限って、既読にならない。心配ごとができると、時間はすぐに経過しだして、あっという間に時計の針は七時を指してしまった。
 やっぱり体育館まで行った方がいいのだろうか。でも私なんかが五色くんの彼女面をして、体育館なんて行ってもいいのだろうか。
 そもそも、告白する前と後で私への態度が全く変わらない五色くんは本当に私と付き合っていると思っているのだろうか。もしかしたら、今日五色くんが送ると言ってきたのも、私の告白をいいよって言ったのはやっぱり無かったことにしてくれとかそういう話をするためかもしれない。
 どうしよう、どうしよう、と誰もいない教室で動物園の虎のように、教室の中をぐるぐる一人で歩き回る。時計の針の音がやたら耳の奥に響いて、うるさい。
 教室の曇った窓から外を眺めると、木や建物の輪郭がぼんやりとしか見えない真っ暗な景色が見えた。少し焦点を前にずらすと情けない顔をした自分と目が合う。
 五色くんは今、何をしているんだろう。
 そう思った時だった。教室の扉が勢いよく開く音がし、びくりと震える。音が鳴った先を見ると、教室の扉に手をかけ、腰を曲げて荒く息をする五色くんがいた。
「お待たせ……」
 ゼーハーゼーハー、と言う呼吸音の合間に辛うじて聞こえてきた言葉。顔を上げた五色くんは、冬なのに前髪を濡らしておでこに貼り付けていた。
「待ってないよ。それよりなんでそんなにしんどそうなの?」
「部室から走ってここまで来たから」
「なんで?」
「ミョウジさんを待たせてるからだろ」
「私のために……走ってきてくれたの?」
 五色くんは不機嫌そうに顔を歪め、悪いかよ、と言うので、ううん、ありがとう、とだけ返すと、俺から誘ったんだから別にいいんだよ、とこれまた機嫌悪そうに返された。

 隣を歩く無言の五色くんが何を考えているのかよく分からない。昇降口を出ると、やっぱさみぃな、と言ってすっかり汗が引いた様子の五色くんは、エナメルバッグから深い青のマフラーを取り出し首に撒き始める。私もそろそろマフラーが必要だな、とひんやりとする首をすくめていると、ミョウジさんも寒いの? と、平坦な口調で聞かれるので、そうだね、と返せば、五色くんが首に巻いたマフラーの端を伸ばして私の首に巻いてくれた。ますます、五色くんの考えていることが分からない。見せる態度と、五色くんから出てくる言葉や行動がチグハグなのだ。
「ありがとう」
「別に……こんな時間まで待たせたの俺だし」
 そっぽを向いた五色くんは低い声でそう言ったかと思えば、ゆるりと長い足で一歩を踏み出すので、私はマフラーに引っ張られて体が倒れそうになり慌てて足を前に出す。
「五色くん! あまり離れないで!」
「え……? そんなに俺のそばを歩きたいの?」
「うん、五色くん背高いから少し離れただけで、私の首がマフラーで絞まっちゃうの」
 私がそう言った瞬間。顔をむすっとした五色くんはぐんぐんとその長い足を前に進めていく。
「え、なに? 絞まる! 絞まる! 首絞まる!」
 首をきつく絞めていくマフラーを手で押さえながら、一生懸命、早足の五色くんの背中について行くと、いきなり立ち止まられ固い背中に鼻をぶつける。痛い。もうさっきからなんなの、と涙目で見上げると、手、繋げば俺のそばを歩けるけど、と差し出された大きな手。
「あ、うん……」
 いきなりのことで何も考えずその手を取ってしまったけど、冷たい手に雑巾でも絞るかのように乱暴にぎゅっと握られると、五色くんと手を繋いでしまったという実感が急に襲ってきて顔が熱くなる。俯くと、相変わらず愛想なく発せなれる言葉が降ってきた。
「あとミョウジさんの連絡先。早く教えてくれよ」
「あ、うん……」
 まさか、五色くんの方から連絡先を聞いてきてくれるなんて。嫌々聞いてくるところが少し気になったけど嬉しかった、と思った瞬間。
「本当にミョウジさんは俺のこと好きなのかよ!」
 しんと静まり返った夜の街に響いた声に驚いて顔を上げると、顔を真っ赤にして憤る五色くんが見下ろしていた。
「え、なんで? 好きだよ! とても好き!」
「じゃあ、”あ、うん”以外にもなんか言えよ!」
 そう言われて、私、あ、うんしか言ってなかったっけ? と疑問に思いながら、あ、うん、と返してしまう。
 五色くんの普段から釣り上がったままの眉がキッと中央に寄せられた。
「ご、ごめん! でも本当に好き! 本当に大好きだから緊張しちゃってちゃんと喋れないの! でも、いっぱい五色くんとお話したいと思ってるよ!」
 ふーん、といった五色くんの顔はトマトのように赤いままだったけれど、表情は緩んでいく。
「じゃあまた来週の水曜日。その日も自主練しないから一緒に帰ってやってもいいよ」
 さっきまで真剣に私を見下ろしていた目は泳ぎ出す。これはもしかして、と私は思い始めながら返事を返した。
「ありがとう……」
「もっと喜べよ!」
 再びこちらを向いた真っ直ぐな瞳。
「喜んでる! とても喜んでる! 五色くんと一緒に過ごせる時間が増えてとても嬉しいよ!」
「俺も嬉しいよ」
「え?」
「だから俺も嬉しいって」
 やっぱり、もしかして、と思う。今まで、氷のように冷たかった五色くんの態度からは見合わない言動。それはきっと五色くんが男の子だからで。
「もしかして五色くんは私のこと好きなの?」
「は?」
 はい、思い違いでした。
 見下ろす五色くんの顔、怖いです。は? と言ったまま口を開いて、片目だけが細められ、蔑むように見下ろす顔。今までで一番怖いです。
「ごめんね。そんなわけないよね」
「ミョウジさんバカなの?」
「ば、ばか? そ、そうだよね……五色くんが私なんかを好きな――」
「ミョウジさんのこと好きだから今こうして一緒に帰ってんだろ!」
 もともときつく繋がれていた手を更に強く握られる。
「ミョウジさんのこと好きだから、ミョウジさんが俺に告白してくれた時、俺、いいよって言ったんだろ……好きだから、こうして、手……繋いでんだろ……」
 尻窄みになっていくと同時に、首を垂れていく五色くん。でも、私は五色くんよりも身長が低いから、五色くんが下を向いても、垂れ下がった前髪の中に隠れる血色のいい顔はちゃんと見えた。怒っているように見えるけれど、泣いているようにも見える唇を噛み締める顔。
「そっか……そうだよね」
 未だギッチリと私の手を握る、テーピングが巻かれたままの手を握り返す。
「ありがとう」
「俺も、ありがとう……」
「じゃあ、帰ろっか」
「おう……」
 その後も、五色くんはいつもの五色くんだった。何か話しかけても、短い単語だけが冷ややかに返ってくる。だけど、どうしてか、繋いでいた手はとても温かく感じて、きっと五色くんの鼻もほっぺも耳の先も赤いのは、寒さだけが原因じゃないんだろうな、と思った。
「私、五色くんのこと、もっと好きになっちゃったかも」
「今までそんなに好きじゃなかったのかよ」
「そういうわけじゃないよ。でも今日五色くんのこといっぱい知れた気がして、その分好きの気持ちが広がったって感じ」
「よくわかんねーけど、俺はミョウジさんこと、最初から今ぐらい好きだった」
 いつか、そう言う言葉を五色くんがこっちを見て言ってくれる日が来るのかな。
 吐いた白い息が、輝く星空を見る彼の後頭部をうっすらと覆った。